ファースト・ステップ

 サンランド地方北東部に広がる砂礫の地に、強い風が吹きすさぶ。
 夜明け前の薄明かりの下、慣れない砂地に足を取られながら歩くのは2人の旅人。そのうち後ろを行くのは踊子プリムロゼだ。彼女は今、必死になって前を行く青年──薬師アーフェンの背中を追っていた。
 一歩毎に強くなる、右足首の痛みに耐えながら。


(不覚、だったわね)


 プリムロゼは声に出さず呟いた。もう数時間も、彼女は足首を挫いたまま歩き続けていたのだった。
 砂漠の昼の気候は旅には向かない。だから夜明けまでにどうにかハイランド地方に入っておく、というのが今夜の段取りだったのだ。既に東の空には曙光が覗き始めていて、涼しい時間帯はもう長くない。
 急がない旅だから、と豪放に笑いながらアーフェンは言っていた。けれど、今や足手まといとなった自分にわざわざ構うほどでもないだろう。彼には彼の、為すべき使命があるのだから。
 それに、不覚によって負った怪我のことを言い出すのはアーフェンへの気遣いというだけでなく、彼女自身が許せなかったのだった。本来独りで行くつもりだったはずの旅路に、他人を巻き込むことを良しとしてしまった彼女の後悔が。
 それなのに──


「っ──」


 ずしゃ、と軽い擦過音。右足を庇いながら踏みづらい砂地を行く負担に、左足が耐えられなくなったのだ。プリムロゼは、為す術もなく転倒してしまう。
「プリムロゼっ?」
 アーフェンはもう10歩も先を行っていたが、すぐに気付いて振り返った。
「どうしたよ!?」
 慌てて駆け寄ってきたアーフェンに、プリムロゼは努めて平静を装いなんでもないわ、と首を振る。けれどさすが薬師と言うべきなのか、彼は目敏く見つけてしまった。
「おまっ……足怪我してたのか」
「……」


 いきなり看破されたプリムロゼは押し黙ってしまった。さすがに少々気まずい。
 今や右足首は腫れて紫色になっていて、額の生え際には脂汗すら浮いているのを自覚していた。せっかく張っていた意地も、こうなっては虚しいだけだ。


「いつからだ?」
「……2時間ほど、前かしら」
 それを聞いて、アーフェンはぽかんと口を開けてプリムロゼを見つめた。
「……あ〜〜」
 それから、無造作に伸びた褐色の髪を掻きながら嘆息する。
「わりい、気づけなくて……」
「……」
 本当に申し訳なさそうに萎んだ声を聞いて、プリムロゼは意外に思った。
「……別に、隠してたのは私よ? 謝るのは私の方じゃない」
「いや、俺としたことが……確かにちっとペース落ちたなとは思ってたんだ……」
 ちゃんと声かけりゃあ良かったんだ、と悔しそうに呟くアーフェンに、プリムロゼは言葉が出ない。
 ──そこまで心配されるような間柄なのだろうか、アーフェンにとって、自分は。
 出会ったのはたった数日前。たまたま彼の旅路が彼女の立っていた場所に交わった、ただそれだけのことなのに。


「本当、悪かった。今手当すっから……足見せてくれるか?」
 言われて、プリムロゼはおとなしく腫れた足首を前に差し出す。すると、足先から脱げかけていたサンダルが落ちた。
 サンシェイドの酒場で最後の踊りを披露する前に修理した、あのサンダルだ。煌びやかさだけが取り柄の履き物は、短い旅路の中で砂と傷にまみれ見る影もない。
「……」
 そのサンダルに、一瞬アーフェンの目が止まるのをプリムロゼは見た。


(……呆れられたかしらね)
 彼女は自嘲めいた呟きを脳裏に零した。
 どう見ても、踊子用のサンダルなど旅をするにはとても向かない履き物だ。そんな状態で砂漠を歩いては、怪我をしても仕方ない。
 ほとんど支度もせず街を飛び出した自分の無謀を彼は咎めるだろうと、プリムロゼは思った。


「……悪い、触るぜ」
 しかし、アーフェンは何も言わなかった。ひっくり返ったサンダルを丁寧に上向きに戻し、その上にプリムロゼの腫れた足をそっと乗せる。
 その様子は、プリムロゼにはこれしかなかったことを──踊子の技術、そしてそれを支えてきた脚ひとつが彼女の寄る辺だったことを、どういう訳かアーフェンは汲んでくれている──そう思わせるような扱い方だった。
 だが、それこそ考え過ぎなのかもしれない。


 プリムロゼの戸惑いをよそに、アーフェンはてきぱきと足の様子を診る。
「熱、持ってんな……こっちの方向には曲げられるか? ……ああ、良かった。骨まではいっちまってねえみたいだ。さて、どうしたもんかな」
 ひとりごとに唸って顎に手を当てること数秒。彼は薬師の鞄を開けて、小さなナイフを取り出した。
 どうするのかしら、と他人事のようにプリムロゼがアーフェンの手業を眺めていると、彼は砂よけに被っていた布にナイフを当て、躊躇なく裂いた。細い帯状になった布がある程度の長さになると、それをプリムロゼの足に巻き始める。
(なるほど、包帯ってわけね)
 だが、アーフェンの巻き方はプリムロゼが見たことのある巻き方とは違っていた。単に巻き上げるのではなく、踵にひっかけて交差させたり、足の指の間に布を通したりするのだ。どうしてそうするかは分からないが、何か意味があるのだろう。


「おし、出来たぜ」
 瞬きしている間に処置が終わったようだ。跪いていたアーフェンが、顔を上げてニカッと笑みを浮かべてみせる。
「ちったあ楽になったか?」
 言われてプリムロゼは気づいた。脂汗が浮かぶほどの痛みが、ほとんどなくなっている。こんな布切れひとつで──これが薬師の技なのか。
「……ええ。すごいわね、本当に痛くない」
 彼一流の“応急手当”を施された上にしっかりと固定されているおかげで、足首が痛い方向へ動くことがないのだ。素直に褒めると、アーフェンは言いにくそうに目を逸らしながら告げた。
「そりゃ良かった。本当はこのまま安静にするのが一番なんだが……」
「構わないわよ。もう少し歩くんでしょう? 山が見えているし」
 もう半分も昇りかけた太陽が、ハイランド地方に広がる山をシルエットに見せている。
 ひとまずの目的地に決めていた山間の村、コブルストンへ続く山道はもうすぐだ。そこまで辿り着けば、昼間の酷暑も和らぐはずだった。
「……おう。そしたらもうちっとちゃんと手当もしてやれるし、休める場所だって見つかるだろ」
 やはり済まなそうに頭を掻くアーフェンに、プリムロゼは首を振ってみせる。
「そこまで気遣う必要はないわよ、この包帯だけで十分。ずいぶん楽になったから」
「ダメだ!」
「──!」
 いきなり放たれた強い声に、思わず息を飲んだ。プリムロゼを見据えるアーフェンの目が、今までの短い旅路で見た中でも一番本気だった。
 彼は真剣な瞳のまま、プリムロゼに向かって諭すように言う。
「痛くねえつったって、治った訳じゃねえんだ。切れちまった筋が元に戻るまで、本当なら絶対動かしちゃいけねえんだよ」
「……」
「ただでさえ無理かけてたんだから、ちゃんと休ませなきゃダメだ」
 圧倒されたプリムロゼは言葉もなく頷いた。じっとこちらを見つめてくるアーフェンの瞳に、これ以上意地を張るのは許さないと言われているようだった。
「よし」
 プリムロゼの答えに満足気に頷いたアーフェンは、立てるか、と言って手を差し出してくる。
 雰囲気に飲まれたまま手を出しかけて、プリムロゼは一瞬躊躇った。が、アーフェンの方から手を掴んできて、ぎゅっと引っ張り上げられる。


 その時、彼の手がとても温かく、大きく感じたのを、プリムロゼは後になってもよく覚えていた。


 砂地の上に両足がつく。体重が乗った途端右足首に痛みが走り、プリムロゼは息を詰まらせてしまった。
 確かにアーフェンの言う通りだった。痛くないといっても、それは一時しのぎに過ぎなかったのだ。
「……やっぱ、キツいか?」
 さすがに察しのいいことで、アーフェンがやや屈みながら訊いてくる。
 ──そういうの、やめてくれないかしら
 と、プリムロゼは思った。そんな風に視線を合わせられたら、張れる意地も張れなくなってしまう。
「……。ええ、そうね。……少し、厳しいかもしれないわ」
「だよな……わりい。それなら」
 と言って、アーフェンがプリムロゼに背中を向けてしゃがんでみせた。彼の意図するところは明白だ。──でも、そこまで世話をかけていいものなのだろうか。
「……それは、乗れ、ってことかしら?」
「おう。その方がプリムロゼも楽だし、早えからな」
「……」
 ──確かに、早いのはその通りだ。
 ことん、と、表面的には合理的な理屈が、不思議とプリムロゼの腹に落ちたのだった。
「……なら、悪いけど背中借りるわよ」
 プリムロゼは差し出されたアーフェンの肩に手を添えた。それからぐっと身を乗り出す。
 そのまま背中に体を預けると、ぐんと視界の高さが上がった。かと思うと、一瞬ぐらっと体が揺れる。急にかかった体重のせいで、アーフェンの足が砂地に沈みかけたのだ。
「っ、とぉ……!」
「ごめんなさい、平気?」
 思わずプリムロゼが訊くが、ぐらついたのは最初の一歩だけだった。そのあとは危なげなく、二歩、三歩とアーフェンは歩みを進めていく。
「わりい、大丈夫だ。思ってたよりずっと軽い」
「……。そう」


 不躾な物言いにプリムロゼはほんの少し眉を顰めたが、それよりも安堵の感情の方が大きかった。彼が思っていたほど自分という荷が重くないのなら、無理に歩いていくより迷惑をかけずに済むだろう。
 アーフェンの背中は目で見ていたよりもずっとがっしりとしていて、それがなんとも居心地悪い気にさせられる。彼は善意だけでこういうことをしているのだから、余計反応に困ってしまう。
 こんな風に自分に接してくる男は、プリムロゼの過酷な人生の中では初めてだった。
「……どうして」
 気まずさを紛らわせたくて、プリムロゼは呟くように訊ねる。
「ん?」
「どうして、あなたは──私に、ここまでしてくれるのかしら」


 薬師アーフェンは、大陸中の病める人々を救うために旅に出たのだと語っていた。
 それは、復讐のために──人を殺めるために旅をしている自分とは真逆を行く目的で、志だ。


「ついてきたいのなら仕方ないと言ったのは、私だけど。……あなたの旅の目的と、私の旅の目的は相容れない。あなたにとって、私の面倒を見る理由はないでしょう」
 カラスの入れ墨をした男の手がかりを掴むという一時の目的を果たした今、アーフェンがプリムロゼの旅路に同行する理由はなにひとつないはずだ。
 ──それなのに、どうして。


「──ほっとけなかったから」 
 ぽつりと返ってきたのは、単純な返事だった。
「……ほっとけなかった?」
 私がそんなに弱く見えたのかしら、そう訊くと彼は首を振る。
「なんつーか……このまま別れたら後悔すると思ったんだよ。怪我も考えねえで切りかかってったり、ろくに支度しねえで街出ようとしてるとこ見たら、……事情をちっとでも知ってる俺が助けてやれたら、と思って」
「…………」
 やはり、自分の無謀は無謀と思われていたらしい。今更ながら、プリムロゼは少しだけ後悔した。
 いくら気が急いていても、もう少し冷静になるべきだったのだ。そうしたらこんな風に、お節介な青年に捕まることもなかっただろうに。
「……ごめんなさいね、迷惑かけたわ」
 意図しなかったとはいえ、こんな事態を招いたのは確かに自分の手落ちだ。プリムロゼは素直に謝った。けれど、アーフェンは屈託なく笑顔を向けてみせた。
「いいってことよ! それにもう俺たちは旅の仲間なんだ、助け合うのは当たり前だろ?」


(……旅の仲間、か)


 ──もう、そんな風に思われていたのか、私は。この、善人を地でいくような青年に。
(あなた、ほんと……人が良すぎるわよ、アーフェン)
 復讐のために生きる自分にとって、それは身に余るほどの温かい言葉だ。けれど、──悪くない。
 くすり、と初めてプリムロゼは笑った。
「ありがと。そうね……それなら、私も必要な時は手を貸すわ。どうせあなた、断ってもついてくるでしょうから」
「おう!」
 打てば響くように返事が返ってくるのがどうにも擽ったい。
 さんざん居心地悪い思いをさせられたのだからと、からかうつもりでプリムロゼはアーフェンの耳元に口を寄せた。


「ふふ……あなたを誘惑したつもりは無いんだけどね?」
「……!!」


 アーフェンが息を飲んだのが伝わる。──さあて、どんな反応を返すかしら?
 見下ろす首筋がさっと赤くなる。それを見ただけでも、プリムロゼは溜飲が下がる思いだった。しかし、数秒の間を置いて、彼は至極真面目にこう言ったのだ。


「……誘惑なんかしなくたって、あんたは綺麗だっつの……」


 ──ざあっと、砂混じりの風が吹く。
 思わず開いた口に髪が入ったのを、プリムロゼは1拍遅れてから慌てて拭い去った。
(……この男は)
 まったく、いかにも不器用そうな顔のくせに油断ならない男だ。やり返したつもりがまたやり返されてしまうとは。しかも、おそらく本人は無自覚で。
「……そうね。分かってるじゃない」
 とうとう観念して、プリムロゼは笑ったのだった。



オクトパストラベラーを発売日に手に入れプレイして2週間、プリムロゼ2章でのチャットを見て胸が熱くなり、勢いで書いた最初のアフェロゼです。お察しの通り、主人公はアーフェンです。
こちらのお話のアーフェン視点を、同人誌『旅路は野薔薇に彩られ』で書いているのでよろしければ。

pixiv公開: 2018/7/31