かくも果実の甘きかな

「ね、食べさせてちょうだい」
「……へ」
 宿の一室にて、真面目に薬師の仕事をしていたアーフェンは、プリムロゼの突然のお願いに目を白黒させた。
「ほら」
 無邪気な小さい子どものように、餌を待つ小鳥のように。彼女が口をぽかりと開いて、次の行動を誘ってくる。
 ──さっきまで、プリムロゼの怪我の手当てをしていたのだ。
 アーフェンがひと通りの処置を終えて、最後の仕上げに治癒効果を高める葡萄を、彼女に薬代わりに食べてもらっておしまい。それだけのはずだった。
「……おいおい」


 アーフェンは頭を抱えた。プリムロゼが際どい甘え方をしてくるのはさほど珍しいことではなかったが、こんな唐突に行動を起こされては動揺するばかりだ。
 ──とはいえ、である。
 惚れた女にこんな甘え方をされて、逆らえる男がいるだろうか。


「しょうがねえな……」
 あくまで彼女の我儘を聞いてあげる、そんな体で。アーフェンは手に持っていた葡萄の房から果実をひとつもいで、丁寧に皮を剥く。
 葡萄は治療にあたって、商人トレサの目利きで選んでもらったものである。新鮮さも、味も、治癒効果も折り紙付きのはずだ。その前評価通りに、アーフェンが皮を剥き終えると、薄い色をした瑞々しい中身が姿を表す。
 内心どぎまぎしているのを誤魔化す為に、深呼吸をひとつした。それから、まるい果実を摘んだまま彼女の方を振り返る──が。
(うっ……!)
 心臓が不意に変な方向へ跳ねた。


 葡萄の粒の形を象って、小さく開いた彼女の紅い唇。
 それは柔らかく下りている瞼と相まって、何か別のものを待っている時とよく似ていたから。
 今すぐ葡萄ではなくて、別のものを押し付けたくなる衝動にアーフェンは震えた。


(待て待て待て……! 落ち着け俺!)
 慌てて生唾を飲んで耐える。──今は治療中で、今の俺は薬師なんだ。そうだ落ち着け。
「……アーフェン?」
 訝しげに彼女が呼んだので、アーフェンは無理矢理気合を入れ直した。これ以上ぐずぐずしてはいられない。
「ほらよ」
 口調だけはかろうじて平静を装って、指先が震えそうになるのを必死で抑えながら、プリムロゼの口元に葡萄の粒をそろそろと運んだ。
「ん」
 ちゅっ、と微かな音を立てて、薄い色の果実が彼女の紅い唇の奥に吸い込まれる。
 目を閉じたままプリムロゼが咀嚼している間も、アーフェンはその口元から視線を離すことができないでいた。


 やがて、彼女がそっと口に手を当てた。我に返ったアーフェンは慌てて薬包紙をプリムロゼに渡す。種を始末して、プリムロゼが微笑んだ。
「ふふ、美味しいわ」
「……そいつは良かった」
 返事をしながらも、アーフェンはほとんど心ここにあらずだった。さっきまでの光景とそれにくっついてくる妄想がごたまぜに頭を巡るせいで、どうしても思考がぼうっと拡散してしまう。
 それでもわずかに残った冷静な自分が、一度やってあげたのだから十分だろうと言った。──残りの葡萄は自分で食べてもらうことにして、机に広げていた薬草や道具類を片付けよう。
 しかし、そうは問屋が卸さないのだった。


「ね、アーフェン。もうひとつ欲しいわ」
「は?」
 我ながら間抜けな声が出たと思った。振り返ると、プリムロゼが小悪魔のように艶やかに微笑んでいる。アーフェンの心臓がまた変な方向へ跳ねた。
「まだ要るんでしょう?」
「……」
 ──治癒効果を高める為の用量は、葡萄ひと房分。確かにそれは最初に説明していた。
「薬師さんに処方して貰う方が、よく効く気がするもの」
 だから、お願い。
 そう言いたげにじっと見つめられては、拒否できるような胆力も理性も、アーフェンは持ち合わせてなどいないわけで。
「……マジかよ……」
 またアーフェンが頭を抱えてしまったのを見て、プリムロゼがくすっと笑った。
 それを気配で感じたアーフェンの中で、悪魔が囁いた──これはもう確信犯に違いない、だったらこの先どうなっても“二人の”責任だ。
 ある種開き直りのような気持ちで、アーフェンはもう一粒葡萄の皮を剥く。それから待っていたわ、と言わんばかりに開いているプリムロゼの口元へ、再び果実を運んだ。
 が、開き直り過ぎたのか、どうやら勢い余ってしまったらしい。


「んっ」
 ──ふに、と。果実を摘んでいた人さし指が、うっかり彼女の唇に触れてしまったのだ。


(っわ……!)
 果汁で湿った唇は柔らかくて、少しだけ温かくて。瞬間的に、指先から痺れるような感覚が体を這い登っていく。
 一方で、プリムロゼは気にした様子もなく、美味しそうによく噛んでいる。それを見て、アーフェンはもう一粒葡萄をもいだ。
 作業を終えて顔を上げると、プリムロゼが無言でじっとこちらを見つめている。もう、言葉での確認はいらなかった。
 剥いた果実を、もう一度彼女の唇に当てる。薄い色をした粒がその奥へ消えていくのを追いかけるように、アーフェンは同じ場所へ自らの唇を重ねた。


 ──プリムロゼは、嫌がらなかった。
 むしろ、彼女の肩を掴んだアーフェンの腕に縋るようにしながら、やや性急な口付けに応えようとさえしてくる。
「ん……」
 どちらかのものか知れない吐息が漏れた。葡萄の芳醇な香りが、アーフェンの鼻先で生々しく匂い立つ。
 果汁でしっとりと潤ったプリムロゼの唇は、甘くて、柔らかな弾力があって、瑞々しかった。葡萄なぞよりもよほど好ましい触感だ。アーフェンは夢中になって唇を貪った。
 
 唇に移った果汁の味を確かめるように、舌で表面をなぞり、それから柔らかく自分の唇で挟み込む。そのままちゅっと音を立てて吸い上げれば、プリムロゼの腕を掴む力が強くなった。
 葡萄と口付けを同時に含まされ、苦しくなったプリムロゼの唇がほんの少し開いた。それを逃さず、アーフェンが舌を差し入れる。口内で潰れた果実から、より強い香りと味が伝わってきた。
「んっ……ふ、……っ」
 頭の後ろから掻き抱いて、さらに奥まで味わおうと懸命になる。プリムロゼも舌を絡めて応えてくれるのだから、たまったものではない。調子に乗って、上顎から舌の裏側から、彼女が反応を返すところ、隅々まで舐め尽くしていく。舌の表面同士を擦り付けると彼女の甘い体液の味がして、酒は一滴も入れていないのに、くらくらと酩酊感すら覚えた。
 どれほどの時間夢中になっていたのか、アーフェンがようやく唇を離した頃には、葡萄の味などとっくに消えていた。


 は、と吐息を零したプリムロゼが、ぼうっと焦点の合わない瞳で中空を見つめていた。
(やべ、やり過ぎたか)
 一瞬、アーフェンは頭の芯が冷えた心地がした。そもそも彼女は怪我人であって、自分は治療をしていたはずなのだ。おそらく合意ではあったけれど、随分な無体を強いてしまった。
「プリムロゼ? ……わりい、大丈夫か」
 なのに、せっかく心配したというのに。


「……アーフェン……」
 そんなふうに、頬を薔薇色に染めながら。
 蕩けたエメラルドグリーンの瞳で、こちらをじっと見つめて。
 しっとりと潤った真っ赤な唇で、名前を象られては。


(っ……!!)
 まだまだ甘えたいの、と言わんばかりな彼女の態度に、今度こそアーフェンの理性はあっさり崩されてしまった。
 ──今は治療中? ああ、もうそんなことどうでもいい。
「……もう一つ、食うか」
 低い声でかろうじて囁いた問いかけにも、プリムロゼが嬉しそうに頷く。
 再び目を閉じた彼女の唇に、アーフェンは葡萄の粒を含んだ唇を重ね合わせた。


 治癒効果を高める為の用量は、葡萄ひと房分。
 だが二人とも、そんなことはもうすっかり忘れていた。



フォロワーさんのイラストとおしゃべりに感化されて生まれたお話。当時は執筆許可ありがとうございました。
キスが色気あるように書けなくて唸っていた記憶があります。
pixiv公開: 2018/10/14