百薬の長に優るもの

 アーフェンが宿に帰ってきたのは、夜も随分と深くなってからのことだった。
「……ただいま……」
「!」
 ベッドに腰掛け、ランプの光を頼りに本を読んでいたプリムロゼは、すぐに立ち上がる。聞こえた声はひどくしゃがれていた。
「おかえりなさい。……今日も飲んでたの?」
「……おー」
 力のない返事に、むっと鼻につく酒精の匂い。どう見ても、アーフェンは明らかに酔っている。ふらついた足取りでベッドまでたどり着くと、鞄も外さずにどさりとそこへ腰を下ろした。そして、長いため息をつく。
 こんな夜が、もう何日も続いていたのだった。


「……」
 プリムロゼもため息をつきたい気分だった。アーフェンの酒癖は悪い方ではないし、そもそも彼が相当酒に強いことも知っている。それに、どんなに遅くなってもアーフェンは必ず自分で帰ってくる。その点で彼が何かをしでかすことはないと信頼してはいたものの、何晩もこういう夜が続けばさすがに心配だ。
「アーフェン……あなた、最近飲みすぎじゃない?」
「……んー」
 いくら酒が百薬の長とはいっても、過ぎれば体に害を成すことをプリムロゼは職業柄よく知っていた。なにせ、自分の働いていた店で「やらかした」男を何人も見てきている。
「別に、遅くなることを怒ってるんじゃないわよ。……そうじゃなくて、体に悪いことくらいあなただって知ってるでしょ」
「……わかってっけど、よぉ……」
 アーフェンが俯いたまま口を尖らせた。まるで子どもの反応だ。そろそろ本当に叱るべきかとプリムロゼが思考を巡らせようとすると、さらに言葉が続く。
「やってられねぇんだ、飲まなきゃ……ちくしょ……」
 それを聞いて、プリムロゼははっと気づいた。
「……うまくいってないのね、治療」
「………」
 アーフェンは答えない。けれどその沈黙が答えそのものだった。


 そもそも、二人がこの宿に泊まっているのは、知人のとある難病を治してくれと村人からたっての依頼があったからだった。大陸中の人を病から救えるように──そんな志を変わらず持ち続けているアーフェンは、一も二もなく依頼を引き受けた。
 プリムロゼは知っている。彼があらゆる手を尽くして、その村人を救おうとしていることを。日に何度も様子を見ては、試せる手をすべて試していることを。夜、どんなに酔って帰ってきても、ベッドに入っている時はまんじりともせずに治療法に頭を巡らせていることも。
 それでも弱音など絶対に吐かないし、悔しさに涙を流したことすら認めようとしない。そんな彼のどうしようもなく意地っ張りなところも、プリムロゼは知っている。ずっと前から。


(まったくもう、)
 プリムロゼは胸の中で呟いた。──たまには甘えてくれたっていいじゃない、じゃなきゃ何のために私はここにいるの?


「アーフェン」
 柔らかな声で呼ぶと、アーフェンが顔を上げる。何、と彼が訊く間もなく、プリムロゼはアーフェンを頭から抱きしめた。
「……!」
 息を飲む音が聞こえた。けれどそれに構わず、無造作に伸びた髪や、丸くなってしまった肩にそっと触れる。本当は背中に腕を回してあげるつもりだったのだが、そうするにはアーフェンの背中が少し広すぎた。
 本当に広いのね、とプリムロゼは口に出さず呟く。しっかりと逞しくて、それでいて温かい。ひとの命という重いものをいくつも背負ってきた背中は、いつも彼女にとって尊敬したくて、そして一番愛しい場所だった。今は疲れ切ったその場所をいたわるように、プリムロゼは届く範囲をとん、とん、と優しく手のひらで叩いてあげる。
 アーフェンは相当驚いたのか、ただ呆然とプリムロゼの抱擁を受け入れていた。けれど、プリムロゼが肩や背に触れる度、疲労でこわばっていたのが少しずつ解れていく。それは愛撫しているプリムロゼにも伝わってきた。
 随分経ってからプリムロゼが体を離したあとも、アーフェンは何も言葉を発さずにぼうっと彼女の方を見ていた。そんな彼に向かって、プリムロゼはくすり、と微笑むとこう言った。


「これじゃ、お酒の代わりにはならないかしら?」


「──っ、」
 息の詰まったような音が、アーフェンの口から漏れる。と、やおら彼が立ち上がった。
「アーフェン?」
 そうしてプリムロゼが見上げたアーフェンは、いっそやり過ぎなほどに眉を顰めていた。絞り出すような声が、ぽつりと呟く。
「……わりぃ、プリムロゼ……もっかい、いいか」
「ええ、もちろん」
 にこりと微笑んだプリムロゼが腕を広げると、アーフェンは彼女を強く胸元に抱き寄せた。プリムロゼが背中を抱き締め返すと、耳元で長いため息が聞こえる。
「……お疲れ様、アーフェン」
 答えたのは、小さく鼻を啜る音。
 プリムロゼは笑うのを辛うじて我慢して、代わりにまた背中を撫でてあげた。彼がいいと言うまで、ずっと。


 次の日から、アーフェンは宿に帰るのが早くなり、酒の量はずいぶん減ったのだった。



アーフェンがめっちゃ飲むのは薬師の仕事がハードなせいもあるんだろうな、という昔のゲーム垢のつぶやきに基づいて書きました。
うまいこと一口砂糖サイズに書けて、お気に入りのお話です。
privatter公開: 2018/11/2