甘え上戸と甘い夢

 その日、八人の旅人たちがたまたま寄った町はワイン用の葡萄の特産地で、たまたまそこで開かれていたのが葡萄の収穫祭だった。今年初めて収穫出来た葡萄を搾って作った「初物ワイン」が目玉だそうで、それに因んでかこの町の酒場で供される酒はワインばかりであった。
 というわけで、普段はエールを好んで飲みつける旅人たち(主に男性陣)も、珍しくワインの海に放り出されることとなった。もともと酒への耐性は高い彼らのこと、エールより酒精が強いワインばかりが供されてもなんのことはない、はずだったが。
 ひとりだけ、ワインと相性の悪い男がいたのである。


「……」
 ──見られている。
「……」
 プリムロゼは落ち着かなく薄い赤のロゼワインを口に含んだ。が、彼女に向けられた視線はいつまでたっても離れない。
「……ちょっと、アーフェン?」
 たまらず、プリムロゼはカウンター席の隣で一緒に飲んでいた薬師の青年に呼びかけた。
「んー?」
 すると、当の本人はことん、と首を傾げて返事する。普段は闊達に話す賑やかな性格の彼からすると、ずいぶん緩慢な反応だ。
「……私の顔に何かついてるのかしら?」
「へ……何でだ?」
「……だってずっと私の顔見てるでしょ」
「あ、ばれた?」
 バレていないと思っていたのか。プリムロゼは思わず半眼になったが、アーフェンは臆面もなくこんなことを言う。
「いやな、プリムロゼは相変わらず綺麗だなって見てた」
「……ありがと」
 プリムロゼは短く返す。この男がなんの他意もなくそういうことを言うのは珍しくないことが分かっているので、内心の動揺は押し隠すに限るのだ。
「あー、信じてねぇな?」
「あなたがそう思ってくれてるのは、前から知ってるもの。それで口説いてるつもりなら、まだまだね」
「ちげーって、ほんとにそう思ってるだけだって」
 憤慨したように言ったアーフェンが、ぐいとプリムロゼに顔を近づけてきた。肩が触れ合って、プリムロゼの身が竦む。


「あんたのさ、いっつも前見てる目が好きなんだよ」
「……」
「それ見てるとさ、綺麗だなって思うし、俺も負けてらんねぇなって思うんだよなぁ」


 言いたいことだけ言ったアーフェンが、顔を離してワイングラスを呷る。プリムロゼは自分のグラスを握り締めたまま、動けないでいた。
 この男が他意もなくそういうことを言うのは知っている。そう、他意なんかないはずだ。
「そういう奴とさ、一緒に呑めてるのって、幸せだよなぁ。……それで踊ったらもっと綺麗だし」
 アーフェンはなおもべらべらと喋っている。内容はほとんどプリムロゼの頭に入ってこなかったが、どことなくたどたどしい喋り方でひとつ、理解した。
 ──さては酔ってるわね、この男。
 コルクの抜けたワインはまだ二人合わせて二本目で、日頃の彼の飲みぶりからするとまだ酔うような量ではないはずなのだが、どうやらアーフェンはワインと相性が悪いらしい。
 そうと分かれば、この場は他の誰かに任せた方がいいだろう。でないと精神衛生上自分が損するだけだ、そう決めて彼女は席を立とうとした。が。
「……プリムロゼ?」


 この時、プリムロゼは自分が振り向いたことを心底後悔した。
「行っちまうのかよ?」
 寂しそうな顔でこちらを見てくるアーフェンと、目が合ってしまったから。


 ──そんな目で見ないでよ!
 プリムロゼは内心悲鳴を上げた。まるで捨てられた子犬だ。そのわりには図体が大き過ぎるが。
 あまりにもあけすけな態度に、毒気を抜かれたプリムロゼの心はぐらぐらと大きく揺れて、
「……仕方ないわね」
 結局、引き戻されるように席に座ってしまったのだった。
「へへっ」
 アーフェンが、ほんのり赤くなった顔で嬉しそうに笑う。
「ほれ、グラス空いてんぞ。注いでやる」
「あら、ありがと」
 ──サンシェイドいちの踊子が形無しね。
 グラスに注がれるワインを見つめながら、プリムロゼはこっそりため息をついた。アーフェンといると、どうも自分のペースが保てない。
(……ほんと、調子が狂うわ)
「なぁ、俺にもくんね?」
「はいはい」
 アーフェンはアーフェンで、やけに甘えてきているような気がする。酔うと機嫌がよくなって喋りまくり、あげく寝落ちする──というのが彼の酒癖でよくあるパターンなのだが、今のこんな態度はその一環なんだろうか。
 ぼんやりと考えながらプリムロゼがボトルを置いた、その時だった。


「あんたってさ、手も綺麗だよな」
 片手の指先に、突然アーフェンが触れてきたのだ。
「──!」
 がさついた温もりに、思わずプリムロゼの身体がびくりと跳ねる。


「っ、ちょっと!」
 ほとんど反射的に、プリムロゼは重なってきた指先を払ってしまった。ぱし、と乾いた微かな音が、どこかで上がった笑い声に混ざる。
「調子に乗らないで……!」
 けれど、アーフェンの方を向くことはできなかった。自分がどんな顔をしているか分かっていたからだ。
 幸いにして、アーフェンの不埒な手が再び触れてくるようなことはなかった。大人しく引き下がった彼から、わりぃ、と小さな声で詫びの言葉が返ってくる。


「……」
「……」


 それきり、ふたりの間に沈黙が下りる。
 どうにも気まずくなったプリムロゼは、ちらりと横目でアーフェンの顔を窺った。すると──
(……だから、どうしてそんな目をするのよ)
 アーフェンはひどくしょげた様子で、じっと手に持ったグラスを見つめていた。いつものように笑って話してくれれば流せるのに、これではこちらが悪いことをしたようだ。
 やはり今夜のアーフェンは、少しおかしいような気がする。飲み慣れないワインのせいだと思っていたけれど、もしかしたら違うのだろうか。


「……べ、つに、嫌だったわけじゃ、ないわ」
 気づいたら、勝手に言葉が口をついていた。
「ただ、……少し、驚いただけだから」


 ──ああ、何言ってるのよプリムロゼ、そんな軽率な言葉を吐いたりして。
 でも、嫌だったのだ。アーフェンにそんな顔をさせたまま、この夜を終えてしまうことが。
「……ほんと?」
 訊かれるが、プリムロゼは頷くことも首を振ることもできないでいた。酔っている彼に難しいこととは分かっていても、この沈黙とどうしようもなく熱い頬で察して欲しいと思った。


「プリムロゼ」
 長いこと待ってから聞こえたのは、やはりどこか甘えたような調子で名前を呼ぶ声だった。
 それに答えることもできないプリムロゼの、所在なくカウンターに蹲っていた手の甲に、再び暖かい感触が触れてくる。
「……っ」
 彼は薬師の道具を扱う時のように、そうっと指先でプリムロゼの手の輪郭をなぞっていった。
「ほんと、すげー綺麗」
 呟くようにアーフェンが言う。けれど、プリムロゼはもういつものように流すことができなかった。意地を張るように、胸の中で嘯く。
(本当は、私はそんな綺麗な人間じゃないのに)


 顔と装いを整えているのは、それが商売道具だから。
 いつも前しか見ていないのは、見たくないものから目を背けるため。
 手だって、本当は血に汚れている。人の命を救う為に働いている彼が、触れていいようなものじゃない。
 全部身に染みて分かっているし、いつも自身に向けて言い聞かせてきたことだ。だから、日頃向けられる賛辞の類から彼女は意識的に距離を置いていた。
 それなのに、今はアーフェンの言葉や態度のひとつひとつが、単純に嬉しいと思ってしまう。


「……へへ」
 一通り触れて満足したらしいアーフェンが、手のひらを包むように重ねてくる。じんわりと身体中に広がっていく温もりに、プリムロゼの胸が軋むように痛んだ。
 ──これだから、アーフェンといると私は駄目なのよ。
 サンシェイドの踊子だったとか、どす黒い執念を抱えた復讐者であるとか。
 そんなことに関係なく、自分がただの女であることを嫌でも自覚させられてしまうから。


(……お願いだから、何か言ってよアーフェン)
 アーフェンは手を重ねてきたきり、すっかり黙り込んでしまっている。日頃口数が多い男がこうなるとろくな事がない。数々の経験から培ってきた女の勘が脳の片隅で警告する。
 かといって、重ねられた手を跳ね除けることもできないのだった。なぜなら、嫌じゃないと言ったのは自分だから。
 が、その時。
 アーフェンの身体が、不意に大きく傾いた。


「……!!」
 肩に、というよりは腕に、青年の体の重みがのしかかる。それでも、彼は何も言葉を発さない。
「……ちょっと、アーフェン?」
「…………」
 さすがに低くなったプリムロゼの声にも、梨のつぶてな無反応である。まさか、と疑う余地もなかった。


「……寝てる……」


 いつの間に空になっていたアーフェンのグラスを見つけて、プリムロゼは大きくため息をついた。──散々掻き乱しておいて、この落ちとはね。
 なんだか急に頭痛がしてきた。どうやら自分も知らないうちに随分酔っていたようだ。夢から覚めたように、プリムロゼは自分の状態を冷静に把握する。
「プリムロゼさん、そろそろ宿に戻りましょう……って、あら?」
 そこへ具合よく、別のテーブルにいたオフィーリアがやってきた。オフィーリアは寝こけてしまったアーフェンの姿を見て、まあと口に手を当てる。そんな彼女に、プリムロゼは頭を抱えながら頼んだ。
「丁度良かったわオフィーリア、今すぐテリオンとオルベリクを呼んで、この甘え上戸をどうにかしてちょうだい」
「あ、はい……なんだかプリムロゼさんも顔が赤いみたいですが、大丈夫ですか?」
「私は平気。いいから早く呼んできて」
「は、はいっ!」


 オフィーリアが男性二人を呼びに行くのを見て、プリムロゼは密かにほっとため息をつく。未だアーフェンは、自分に寄りかかって気持ちよさそうに眠っていた。なにも考えていなさそうに見える、幸せそうな寝顔が恨めしい。
 ──二度とこの男にワインは飲ませまい。
 微かに疼く胸の痛みを持て余しながら、プリムロゼは固く誓ったのであった。



いつも他人に献身的な彼が好きな子には甘えて欲しい願望を反映してみました。
pixiv公開: 2018/11/15