いつかの私の願いごと

「……あら」
 ふとプリムロゼが荷物入れの底から取り出したのは、小さな瓶だった。
 中身は傷に塗って使う膏薬。──ノーブルコートで彼女が大怪我を負ってから、痛む時に使ってくれとアーフェンがくれたものだ。


 あの時。
 アーフェンの瞳が何か言いたげに、でもそれを堪えるように揺れていたことを、プリムロゼは覚えている。
 そして瓶を貰った自分もまた、何かが溢れそうで、小さな声でありがとうと呟くのがやっとだったことを覚えている。


「……」
 プリムロゼは小瓶をぎゅっと握りしめると、そっと立ち上がった。


  ◆


「アーフェン」
 宿の一室で薬草を数えていたアーフェンは、ふと呼びかけられた声に振り返った。
「ん? プリムロゼか。こんな時間にどうした?」
「ええ、ちょっとね」
 プリムロゼが微笑むが、その右手は固く握られていた。何か言いたそうな雰囲気を察して、アーフェンは改めてプリムロゼに向き直り、彼女の瞳をじっと見つめた。
「どうした。……どっか、痛むのか?」
「……。そうね、そんなところかしら」
 そう言って、彼女が握っていた拳を開く。白い手のひらに乗っていた小さな瓶を、アーフェンはもちろん覚えていた。
「……これ、あん時の」
「ええ、そうよ。これを、あなたに塗って欲しくて」
「……」
 アーフェンはまじまじと彼女と、彼女が負った傷のあたりを見つめた。
 かの傷をプリムロゼが受けてから、幾許かの時が経っていた。傷をつけた張本人であるところのシメオンも、プリムロゼによって葬られたあとだ。それだけの時間を置いても、今更痛むということがあるのか。
「……お願い」
 しかし聞きかけたところに、プリムロゼが瞳でわかってるわと先に告げてきた。今はなにも聞かないで、とも。
 アーフェンは黙ってそれに従う。
「分かった。それ、貸してくれ」 
 プリムロゼが小瓶をアーフェンに渡した。受け取ると、彼女をベッドに座らせて瓶の蓋を開ける。
 そうしながら、アーフェンは改めて彼女の傷に目をやる。踊り子衣装のプリムロゼは、すらりと滑らかな腹部が剥き出しのままだ。その白い肌の上に、鈍い紅の傷跡が未だ痛々しく刻まれていた。
「……わりい、触るぞ」
「ええ」
 プリムロゼの前に跪き、揃えた二本の指先で膏薬を掬いとる。中身は、作った時よりもいくらか減っているようだった。
(使ってたんだな、やっぱ)
 役に立って良かったと思う一方で、この薬の出番があるほどに痛む傷だったのだを思うと、胸の奥底でやるせなさがちりちりと火花を散らす。
 それをぐっと飲み込むと、アーフェンは膏薬をプリムロゼの肌に乗せた。
 多少古くなったせいか膏薬は乾燥してしまっていたが、それもアーフェンの指先の熱でゆるくなっていく。そうして、アーフェンは膏薬を薄く傷痕の上に伸ばしていった。
 頭の上で、プリムロゼがほうっと息をつく。
「痛まねえか?」
「ええ、大丈夫」
 間もなく処置が終わった。薬瓶の蓋を閉めようと、アーフェンが手を離す──と、ふいにその手をぎゅっと掴まれた。
「っ、プリムロゼ?」
「……やっぱり、」
 アーフェンが顔を上げると、プリムロゼが深く頭を垂れたまま、呟くように言う。


「あなたといると、ほっとするの」
 その声は、彼女らしくなく掠れていた。
「……あなたの手が、暖かいから……かしら」


 それを聞いて、アーフェンはたまらなくなった。
 薬瓶を脇に追いやって、プリムロゼの隣に座ると、彼女を引き寄せて抱き込んだ。
「……アーフェン」
「何か、あったんだろ。……嫌なこと、思い出したのか」
 彼女を蝕む何ものからも──たとえ過去の記憶であっても──守りたくて、アーフェンはいっそうプリムロゼを抱きしめる腕を強くする。
 プリムロゼはふふ、と笑うと、小さく首を振った。
「違うわ。思い出しはしたけれど、嫌なことじゃないの」
「……なんだったんだ?」
「本当は、あの時もあなたに薬を塗って欲しいって思ってたこと」
 その答えはずいぶんと、──彼女を愛する男としてはこの上なく、可愛らしい答えだった。
 たまらないくすぐったさを覚えながら、アーフェンは言う。
「……そんなん、その時に言ってくれりゃ良かったのに」
「出来ないわよ」
 プリムロゼがまたしても否定する。
「あの時は、必死だったもの。……誰かに甘えたら、私は己を信じられなくなるから、ってね」
「……」
「でも、今はあの時と違うから」
 アーフェンの胸元に頬を寄せながら、プリムロゼは言った。
「今の私は、信じ貫くべきものを果たして……あなたとも想いを同じにしてるから……だから、今の私なら、あの時の私が密かに願っていたことを、かなえてもいいんじゃないかしらって。そう思っただけよ」
「……プリムロゼ」
「ありがとう。あの時のあなたの気持ち、すごく嬉しかった」


 腕の中、こちらを見上げてくるエメラルドグリーンの瞳が、柔らかく微笑んでいる。
(ああ、)
 アーフェンは両手を上げるような心持ちだった。あの時の自分は、彼女がいつかこんな顔で笑えることを確かに願っていた。


「……馬鹿野郎、今更そんなこと言ってんじゃねえよ……くすぐってぇだろうが」
 再び強く抱き込まれた胸の上で、プリムロゼがくすりと笑う。
「だったら、言った甲斐があったわね」
 嘯いたアーフェンの声が涙に濡れていたことを、彼女はちゃんと分かっていたのだった。


 そんなふたりをよそに、床の上にはもう忘れ去られた薬瓶が静かに転がっていた。
 もう二度と、使う必要がないことを知っているかのように。



原稿の息抜きでした。二次創作でなくても、薬瓶使ってくれていたらいいな。
privatter公開: 2018/12/12