猫の甘噛み
葡萄酒の瓶を持ってプリムロゼがアーフェンの隣に座ろうとすると、カウンター席の彼はじっとプリムロゼを見つめていた。
「……どうしたの?」
訊けば、アーフェンはあー、と気まずそうに視線を逸らす。
「いやぁ……あんたが猫っぽいって、確かにそうだよなぁと思って」
「あら。聞いてたのね」
プリムロゼはくすりと笑った。ついさっきまで、彼女は隣のテーブルでトレサ、ハンイットと動物の話をしていたのだ。
プリムロゼは動物を飼ったことがないけれど、彼女自身は他人から「猫に似ている」と言われることがある──そんなことを、プリムロゼは旅の連れ二人に話していたのだった。
「乙女の語らいをただ聞きするなんて、無作法ね」
「わ、悪い……聞こえちまったんだよ」
慌てて謝るアーフェンだったが、もちろんプリムロゼは言うほど怒っているわけでもなかった。それより、アーフェンのまなざしの方に興味があった。
「それで? 私のどこが猫に似てると思うの?」
アーフェンのグラスに葡萄酒を注ぎながら、プリムロゼが聞く。アーフェンはへ、と目をぱちくりさせた。
「あなたにとって、私のどういうところが猫らしく見えるのか、聞きたいのよ」
なぜなら、アーフェンは今自分を最も近い場所にいる男性だからだ。
さっき話していたトレサもプリムロゼのことを指して何事か言ってはいたが、いつでも真摯にプリムロゼと向き合ってくれる彼のまなざしには、自分がどう見えているのか。
想う相手の目に映る自分を知りたいと思うのは、それこそ乙女にとっては当たり前ではないだろうか。
「んー、うーん……」
アーフェンはもごもごと葡萄酒を口に含みながら唸る。厄介な質問であることはプリムロゼも自覚していたが、こういう時のアーフェンは絶対に誤魔化したり、適当にあしらったりなどしない。
──そういうところが好きだから、つい聞いてしまうのだけど。
やがてアーフェンは、答えを探すように喋り始めた。
「そーだなあ、んー……目とかか?」
「目?」
「……おう。そうだな、釣り目っつうのか……形が猫っぽい気がする。猫はあんたみたいな綺麗な緑の目してねえけど」
「あら、言うわね」
プリムロゼは瞳を細めた。別に彼は褒めるつもりではなく、本当にそう思って言っているだけなのだとプリムロゼは知っている。だから余計、心が浮き立つのを抑えられない。
酒場で働いていた時は宝石のような瞳と称えられたこともあるけれど、そんな大げさな修辞よりも、アーフェンの素朴な言葉の方が嬉しかった。
一度答えを口にしたことでより思い当たることが出てきたのか、次の答えを言い始めたアーフェンの口振りはしっかりしていた。
「あと、生き方か。誇り高いって言えばいいのか……あんたはしっかり自分を持ってるからな。人に流されたりとか、ねえだろ?」
「そうね」
プリムロゼは頷いた。己を貫くというのは幼い頃から染み付いてきた生き方で、それは確かに、人に飼われていても強い自我を持って行動する猫に通じるところがあるかもしれない。
(なるほど……そんな風に見えてるのね)
この時点で、プリムロゼはアーフェンの答えにおおかた満足していたのだが、まだ彼は頭を捻っていた。
「んー、まだあった気がすんだけどなぁ、これってやつがよ」
「あら、何かしら」
考え込むアーフェンの横顔が好ましいと思って、プリムロゼが微笑む。彼はふとプリムロゼの方をじっと見つめ、そうかと思えば顔を逸らして葡萄酒のグラスを呷る。
しばし考え込んだあげく、唐突にアーフェンは膝を叩いた。
「あ、そーだ! これだ!」
「ふふっ、なぁに?」
小首を傾げてプリムロゼが問う。だがアーフェンから返ってきた答えは、
「甘え方が猫っぽいんだ」
「……!」
──返ってきた答えは、プリムロゼの想定の範囲を超えていた。
思わずぽかんと唇を開いてしまったプリムロゼに、アーフェンはあっけらかんとこう言った。
「なんていうか、気まぐれなんだよなー。俺が構おうとしてもすげえ冷たい時あるけど、その気になると急に背中に引っ付いてきたりするもんな?」
「……」
「で、そーゆー時のお前に構うと、すげぇ幸せそうな顔するよなーって。猫みてぇだなって思ったことあるぜ、確かによ」
アーフェンはからからと笑いながら、葡萄酒を自分で注ぎ足した。
プリムロゼは言い返せなかった。そんなことないわと言えないのを、自分でよく分かっていたからだ。トレサはプリムロゼのことを甘え上手とか言っていたけれど、アーフェンの言葉はまた違うプリムロゼの姿を克明に描いていた。
黙り込んでしまったプリムロゼに、アーフェンは内緒話でもするように顔を寄せる。
「そういうお前も可愛いなって思うけどよ、もーちっと素直になったっていいと思うぜ」
「っ!」
なんてな、と付け加えたアーフェンがぱっと元の姿勢に戻って、再び葡萄酒のグラスを呷る。いかにもすっきりした、といった顔をして酒を飲む彼が、プリムロゼは腹立たしかった。
──こっちは、こんなにも心を掻き乱されたというのに。
時折アーフェンの見せるそういう姿が、プリムロゼは嫌いだった。自分より二つも歳が下のくせに、妙に余裕があるように見えるのはなんなのだろう。それとも、自分の方が振り回され過ぎだというのか。
いや、実際振り回されているのかもしれない。深く付き合うようになってから知る彼の顔に、胸を締め付けられたことは幾度あっただろうか。プリムロゼの強さも弱さも全部知って、それでも笑ってくれるアーフェンを目の当たりにすると、気恥ずかしさと充足感が交ぜこぜにプリムロゼを襲い、いても立ってもいられなくなる。
(素直に……ね)
プリムロゼは静かにアーフェンの言葉を反芻する。
ここは彼の言う通り、心の声に素直に従うことにしよう。だって、やられっ放しは性に合わない。
「ねえ、アーフェン」
つまみのナッツを取り上げていたアーフェンに、プリムロゼは呼びかけた。仲間に向けては滅多に使わない、“誘惑”する時の声色で。
同時に、そっとアーフェンの腕に体を寄せる。
「ん? どした」
何の警戒心もなく振り向いた彼のまなざしを見上げて、プリムロゼはとっておきの詩を囁いた。
「にゃあん?」
その瞬間のアーフェンときたら、大した見ものだった。
「〜〜っ!?」
顔は茹蛸よりも早く真っ赤になり、ナッツの殻が力の入り過ぎた指先の中でぴしりと砕ける。
炎の精霊石を放るだけ放ったプリムロゼが腕を放すと、アーフェンはがくりとカウンターに崩れ落ちた。崩れ落ちた拍子に乱れた髪の隙間から覗く耳も、真っ赤に染まっている。
(これは予想以上だったわね)
大いに溜飲を下げたプリムロゼは、意気揚々と葡萄酒を自分のグラスに注いだ。アーフェンはまだカウンターの上に突っ伏しながら悶えている。
「〜〜っ、あんたって奴は……お前って奴はよ……!」
「ふふっ、百戦錬磨の踊子をからかおうだなんて、まだまだ早いのよ」
プリムロゼは優雅にグラスに唇をつけた。
実際アーフェンはからかったつもりはないのだと知っていても、この際関係なかった。負けず嫌いにかけてはアーフェンにだって負けないのだ。
さて、これでしっかり意趣返しもできたことだし、いい感じに酔ってもいたし、そろそろ引き上げ時か。プリムロゼがそんなことを機嫌よく考えた時だった。
不意に、グラスに添えていた手をぐいと掴まれた。
「っ!?」
突然の行動に、プリムロゼは思わず手を掴んだ張本人を振り返る。
振り返って──その瞬間、息を飲んだ。
「プリムロゼ……部屋帰ったら、覚悟しとけよ」
ぞくり、とプリムロゼの身体に震えが走った。
耳に届いた低い声。突き刺すように見詰める瞳。なにかを堪えるような表情と、手を掴む力から伝わる熱。
普段滅多なことでは表に出ることの無いアーフェンが、そこに居た。
(……あぁ、私ったら)
プリムロゼの頬に、知らず薄い笑みが浮かぶ。それは半ば諦観に近いものだった。
猫が遊ばれた仕返しで甘噛みしただけのつもりだったのに、どうやらとんでもない獣を起こしてしまったらしい。
いくらアーフェンが、大きな体と柄の悪い態度に似合わない優しい心の持ち主だといっても、彼だってひとりの男だ。今更のようにプリムロゼは思い至る。
サンシェイドの踊子だった時のプリムロゼなら、自らの迂闊さを恥じるところだった。けれど今の自分はただの旅人で、相手はそんな自分の選んだ男なのだ。
──食べられちゃうのも、悪くないかもね
そう思ってしまう自分は、随分弱くなったものだと思う。
アーフェンの言う『しっかりとした自分を持つプリムロゼ』など、今はどこにもいない。
「……仕方ないわね」
だから、素直じゃない返事がせめてもの意地。
彼の思う誇り高き自分でありたい心と、彼の想いの強さに結局絆されてしまう心。相反するふたつの感情に挟まれたプリムロゼにできる、最大限の譲歩だった。
公式でロゼちゃんが猫っぽいと言われているのにドギマギしていました。
このあとのお話(年齢制限いちゃいちゃ)を同人誌に収録しているので、よろしければ。
pixiv公開: 2019/9/10