どんな日だまりよりも暖かな

 瞼を通して差した光を感じて、プリムロゼの意識がふと眠りから覚める。
「ん……っ」
 瞼を上げると、眩い日差しが目に入る。まぶしい、とぼんやり思いながら、プリムロゼは目元を擦った。するともう少し目が覚めてきて、朝か、と頭の中だけで呟いた。
 もう一度目を開けると、視界に人の顔が飛び込んできて、プリムロゼは一瞬どきっと息を飲んだ。
 薬師の青年、アーフェンが目の前で眠っている。
「……」
 ああそうだわ、私、昨日彼と一緒にいたんだ。
 旅路を重ねるうちに想いを通じ合わせた二人は、時折ひっそりと夜を共に過ごすようになっていた。昨夜の時間が頭に蘇ってきて、プリムロゼはほんのりと自分の頬が熱くなるのが分かる。
 その時のアーフェンと比べたら、今眠っているアーフェンの顔は違う男に見えるほど無邪気な表情をしていた。
(……ふふ、かわいい寝顔だわ)
 見られていることも露知らず眠り続ける彼に、プリムロゼは思わず笑みを零す。


 そういえば、こんな風にアーフェンの顔をまじまじと見るのは珍しいわね──と、プリムロゼは思った。
 彼の背丈はプリムロゼより頭一つ分も上だったから、顔を見るには都度頭を上げなければならない。こうして一緒に眠った時も、夜の仕事をしていたプリムロゼがあまり朝に強くなかったのもあり、大抵はアーフェンの方が先に起きていた。
 だから、これまで正面からアーフェンの顔を見られることなんてあまりなかったのだ。この際だからと、プリムロゼはしばらく貴重な機会を楽しむことにする。
 そっと手を伸ばして、頬に触れてみた。
 まだ眠気の残るプリムロゼの手は温かく、夜気にさらされていたアーフェンの頬がひんやりと冷たい。輪郭は骨ばっているのに、指に伝わるのは頬らしい柔らかさ。なんとも不思議な手触りだ。
 頬骨で高くなったあたりを辿れば、少し垂れ下がった眦に目が行く。形のわりに普段の彼がまったく眠そうに見えないのは、反対の軌跡を描くように伸びた眉毛のせいか、彼自身の闊達とした振る舞い故か。
 ほんの少しだけ皺が寄った眉の間を見れば、意外と顔の彫りが深いことが分かる。鼻柱はしっかりと太く通っているのに、先だけつんと反っているのがなんだかおかしい。
 日頃豪快に喋ったり飲んだりする厚い唇は、今はほんの少しだけ開いてしまっていて、そんな無防備さが少年のような幼さを強調しているようだった。
 好きな顔だと、プリムロゼはそう思う。
 酒場の踊子としてたくさんの男の顔を見てきた彼女だから、男性の顔立ちに対する審美眼にも一定の自負があった。けれど、もはやそんな基準など今の彼女には意味がなかった。
 アーフェンの顔立ちは、サイラスだったり──もしくはシメオンのように、端正に整っているというわけではない。けれど、彼の真っ直ぐな心根を面に出したような、凛々しさや精悍さがそこには表れている。
 誰もが認めるような容姿でなくても、私はこの顔が好きなのだと、そう思ってしまうのだった。
 今は無邪気に眠っているこの顔が、起きている時には笑って、涙して、時には驚くほど真剣に引き締まって。
 私のことを、真っ直ぐに見てくれる。いつだって。


「……っ」
 不意に胸が苦しくなって、プリムロゼはアーフェンの眠る顔から目を逸らしてしまった。
 ──どうして? 急に変化した自分の心に戸惑って、プリムロゼは瞼を伏せる。けれど閉じた瞼の裏に、次々と映っていくものがあった。
 酒場で機嫌よく笑う顔、傷を診る時の真剣な顔。不安がる患者を落ち着かせる時の穏やかな表情。どうにもならない命の重さを前にして、悔しげに歯噛みする口元。プリムロゼと話をしてくれる時の、まなざしの色。
 そんなひとつひとつに、胸に込み上げてくる熱いものがますます質量を高める。窓から差し込む夜明けの光はこんなにも静かなのに、プリムロゼは自分だけが嵐に放り込まれたかのように戸惑っていた。
「……アーフェンっ……」
 縋るように、彼女は向かい合っていたアーフェンへ身体を寄せる。
 顔を押し付けてしまった彼の胸元は温かく、薬草のつんとした芳香が混じった彼だけの匂いがした。もうそれだけで、プリムロゼの中に込み上げたものが堰を切って溢れ出す。
「……すき、……好きなの……っ」
 一度言葉にすることで、感情は形を持ってしまった。
 目の前に眠るただひとりの男に向かう想いが、際限なく膨らんでいく。息を乱すほどに膨れ上がったものを、プリムロゼはどうしていいかが分からない。
「アーフェン……っすき……、」
 ただ、うわ言のように繰り返す。何度呟いても足りなかった。眠ったままの彼にできることはとても少なくて、そして彼もプリムロゼの必死の想いに応えることはない。


 知らなかった。男女の付き合いには一通り通じていたはずの自分が、ただ想うだけで心を掻き乱されることがあるなんて。
 いや、本当はどこかで知っていた。けれど、彼に向ける感情が唯一無二のものであると悟っていながら、どこか他人事のように見る振りをしていたのだと、唐突に気づく。
 名前のついたその感情を真正面から見てしまえば、自分の心を占めるあまりの存在感に耐えられなくなることを、知っていたのだ、きっと。


「……んー、プリムロゼ……?」
 不意に、頭の上で眠そうな声が呟いた。それで、プリムロゼははっと意識を現実に取り戻す。
「どした……もう、朝……?」
「っ、違うわ。なんでもないの……」
 眠い目を擦ろうとするアーフェンの手を、プリムロゼは思わず止める。起こすつもりなんてなかったのに。
 まだ宿は静かで、旅立つには早いと分かっている時間に彼の眠りを妨げたくはなかった。何より、今の自分の顔を見られたくなかった。
 しかし。
「……泣いてんのか……?」
 ゆるゆると瞼を上げたアーフェンの、ぼんやりとした瞳が、プリムロゼの顔を捉える。
「な、泣いてないわ……」
 慌ててプリムロゼが自分の手を目元にやり、確かに浮いていた雫を拭った。ーーこれは泣いているんじゃない、ちょっと感情が昂ってしまっただけだわ。
 そんな仕草を見たアーフェンが、寝ぼけ眼のまま笑う。プリムロゼが止めていた手をそっと離すと、その手で彼女の身体を引き寄せた。思わぬ展開に、プリムロゼが微かに息を飲む。
「悪い夢でも、見たのか……?」
「……ちがう、けど……」
 逆らえず閉じ込められた腕の中で、プリムロゼが小さく首を振った。けれど半分寝ているような彼は、それを恐怖故の甘えと取ったらしい。
「だいじょうぶ……こわく、ねえから。……俺が、ついてっから……」
 掠れた声で、でも安心させるように囁いて、引き寄せた頭をゆっくりと撫でていく。
 驚いたことに、それでプリムロゼの千々に乱れていた心は容易く落ち着いていった。さっきは彼の体温に激情を煽られていたくらいなのに、今はすっかり安心してしまって、身体から力が抜けていくのが分かる。
 プリムロゼはふっと息をついて、アーフェンのおぼつかない抱擁に身を委ねた。


 やがてアーフェンは再び眠りに落ちてしまった。頭の上で寝息が聞こえるけれど、それでも彼の手のひらはプリムロゼの頭に添えられたままだ。
(……あったかい……)
 プリムロゼはぼんやりと頭の中で呟いた。少し前まで掻き乱されていたのが嘘のように、心は穏やかだった。狂おしいほどの想いに揺さぶられていた代わりに、じんわりと柔らかな幸福感の中に漂っているようだ。
 多分、満たされてしまったのだと思う。見当違いの慰められ方をされたのに、そんな反応からも彼からの愛情というものを拾い上げて、それで満足してしまったのだ。我ながら現金だわ、とプリムロゼは苦笑する。


 ──ああ、好きだな。プリムロゼはじっくりと、今まで受け止めきれずにいたその感情を噛み締めた。
 アーフェンの顔立ちも、振れ幅の大きな表情も。そんな表情から透けて見える、彼自身の心の姿も。全部好きで、愛しくて、だから近くにいたい。ずっと傍で見ていたい。
(きっと、こういうことを幸せって言うのよね)
 だって彼は本当に、今傍にいてくれるのだから。
 どんな朝の日差しより、どんな午後の日だまりにも増して暖かい場所を、たった今、プリムロゼだけに与えてくれているから。


 大きな身体をしたアーフェンの腕の中にいても分かるくらい、二人寄り添うベッドは明るくなってきていた。そろそろ本当に起きなければならないと、プリムロゼは悟る。
 でも、アーフェンはまだ安らかに寝息を立てていた。プリムロゼを抱き寄せた手も離れる様子がない。
 ──いつも先に起きている彼がまだなら、もう少しだけいいわよね。
 そんな風に言い訳をして、彼女は自分だけの日だまりの中、再び目を閉じるのだった。



プリムロゼに「好き」って言って欲しくて、そして泣かせたくて書いたお話でした。
privatter公開: 2019/12/2