この瓶に、切り裂かれた心を仕舞えたら

「これ、使ってくれ」
 ノーブルコートを出ようかという時、薬師アーフェンから端的な一言と共に渡されたそれ。
「無理すんじゃねえぞ、プリムロゼ」
 絞り出したようにそれだけ言った彼の瞳を見たら、差し出された思いを無碍にすることはできなくて。
「……ありがとう」
 その時、自分はうまく返事できただろうか。


 そして、夜。
 宿の一人部屋で、彼女は痛む腹を抱えて寝台の上に蹲っていた。
 動けるようになったとはいえ、その傷は三日三晩の昏睡を強いた深いものだ。昼間こそいつも通り振る舞っていたものの、いやそうしていたが故に、こうして夜になってから彼女を苛んでいるのだった。
「っ、……」
 呻き声すら漏らさぬように、プリムロゼは奥歯を食い締める。今悲鳴を上げてしまったら、この痛みに打ちのめされていることを認めることになってしまうから。
 この痛みは単なる肉体的なものだけでなく、その傷を与えた刃を、それを握っていた『彼』をどうしたって思い起こさせる。かつて想っていたその男と向き合う痛みは、今の彼女には耐えがたかった。


 本当は、今でも信じられなかった。
 とっくの昔に己の短剣で殺して奥底に押し込めたはずの少女が目を覚まして、どうして、と叫び続けている。


「こんな、痛みに……負けている場合じゃ、ないのよ」
 ほとんど喘ぎながら、プリムロゼは呟いた。
「私は、あの人を……貫かなければ、ならない。そう、決めたの」
(だから、今は黙ってちょうだい)
 彼女は内で泣き叫ぶ少女にもう一度刃を深く突き立てた。悲鳴を封じられて、代わりにまた腹の傷がしくしくと疼く。
 いたい。単純にそう思った。腹が痛むのか、それとも別のところか。彼女自身、ほとんど判別がつかなかった。
 けれど、今は眠らなければならない。そうでなければ、次の朝は来ないから。最後の仇の下へ辿り着くための道は開けないから。だけど、傷が疼いて眠ることなどできそうにない。
 じゃあ、どうしたらいいの。か細い吐息を漏らしたその時、天啓のようにプリムロゼはそれを思い出した。


『これ、使ってくれ』


 同時に、気遣わしそうな青年の声も木霊する。その声に背中を押されて、彼女は荷物の底にしまっていたひとつの瓶を取り出した。
「……薬……」
 小さなその瓶には、口まで薄い色の軟膏が詰まっていた。これを塗ればいいということだろうか、そういえば使い方までは聞いていない。どの程度の量なのか、頻度はどのくらいか。
 多少薬師の心得をかじったことのあったプリムロゼは、薬にも作法があることをおぼろげに思い出した。正しい使い方でなければ、薬は正しく効果を発揮しない。


(彼に……アーフェンに、言った方がいいのかしら)


 そう思った時、不意に目の前に光が過ぎった気がした。
 ──そうよ、使ってもらいましょうよ
 この瓶を持って、彼の部屋に行けばいい。傷が痛むのだと言ったら、きっとアーフェンは心配していろいろとプリムロゼを気遣ってくれるだろう。あの真摯な薬師の目で自分の体を診て、もしかしたら彼自身の手でこの傷に、薬を塗ってもらえるかもしれない。
 そして、もし切り裂かれたこの心を一緒に差し出せたなら、彼は──。


「……っ、」
 プリムロゼの身体が痛みでなく震える。一瞬閃いた光景が、たまらなく甘美なものに思えたから。
『無理すんじゃねえぞ、プリムロゼ』
 絞り出したようなあの声は、どんな意味を示していたのだろう。──もしかしたらアーフェンの方だって、私が相談してくるのを待っているんじゃないのかしら?


「……駄目よ、プリムロゼ」


 プリムロゼは手の中の小瓶を強く握り締めた。いけない、と、今にも寝台から立ち上がりそうな自身を強く戒める。
(決めたじゃない、私はこの脚で踊り続けるって)
 だから、そんな風に誰かに寄りかかっている場合じゃない。今は、誰かの手を取って踊る時じゃない。
 為すべき使命は、私の手でしか果たせないのだから。
「今は、だめ……」
 彼女は決然と瓶の蓋を開けた。揃えた指でほんの少しだけ薬を掬いとって、まだ目にも痛々しい腹の傷をなぞる。
 端から端まで行き渡るほど軟膏を塗ってから、プリムロゼは自分に言い聞かせた。
(これで、大丈夫。アーフェンはよく効く、って言ってたものね)
 今度はそっと瓶の蓋を閉めて、プリムロゼは再び寝台の上に倒れ込んだ。縋るように薬の瓶を握り締めたまま、何度か痛みをやり過ごすように深呼吸を繰り返す。


 よく効く、と言った青年の言葉は、本当だった。


「……は……」
 しつこかった痛みが宥められるように引いて、プリムロゼはようやく全身の緊張を解いた。それまで苦しんだ反動か、あっという間に眠気が体を覆い始めていく。
(……これで、私はまだこの脚で踊れる。また前を向いて、進むことが出来るわ)
 心底安心して、彼女は握り締めていたちいさな瓶をそっと胸に抱いた。


 こんなよく効く薬をくれた彼に、私はちゃんと返事ができたかしら。そういえば、よく思い出せない。
 ──明日になったら、もう一度きちんと彼に伝えよう。
 今はそれが精一杯、自分が許せる最後の一線だということを自分に言い聞かせて、ようやく彼女は眠りについたのだった。


 瓶を手に取った時過ぎった、少女の小さな願いが叶うのは、それからほんの少し先──旅路の果てを迎えた後のことである。



いつか書きたかったお話。プリムロゼが実際にあの薬瓶に助けられているところを見たかったのでした。
privatter公開: 2020/10/11