旅路は一つ一つの歩みでできている

 粗末な掘っ立て小屋の中、男の微かな呻き声がひっきりなしに木霊している。
 強い薬である程度痺れさせているとはいえ、肌を直接縫い合わされる苦痛は常人の想像を超えたものだ。それでも、男は布を巻いた木切れを噛み締め必死で耐え忍んでいた。今まさにこの処置を施している薬師の青年にすべてを託し、もはや眼前に迫った死の門の前から帰還するために。
 ──もっとも、そうして生を掴み取ることが本当に望んだことなのかは、まだわからなかったけれど。


 永遠とも感じられる苦痛の果てに、処置の終わりはやっと訪れた。
「よし、お疲れさん。これで傷は全部塞いだぜ」
「っ……?」
「今夜は絶対安静だ。しばらく熱も高いだろうし傷も痛むだろうが、じきに落ち着く。もう少し辛抱しろよ」
 そう言って、薬師は安心させるように怪我人の男へ笑いかけた。とはいえ、安心に繋がる優しさや穏やかさというよりは、豪放磊落という言葉が似合うような笑顔だ。薬師という職業にしては、少々柄が悪いように見える──と、彼は少々失礼なことを考えてしまった。
 故にだろうか。この薬師の青年が、自分などを治療したのは。
「……あんた……ってんのか、」
「ん?」
「知ってんのか……俺が、何をして……こうなったのか」
 喘ぎながら怪我人は問う。本当なら、傷口から腐り果てて死の門を越えるのがお似合いのはずだった。それだけのことをしでかしたのだから。
 薬師の青年は、すっと目を細めて、そして頷いた。
「あぁ、知ってる。……盗みに入ったんだろ、小麦の倉庫に」
 ──それだけじゃない。自分は、その時止めに入った倉庫の主人を殺している。妻も子供もある、善良な農家のひとりだ。
 けれど青年が細めた目の色を見て、そこまで彼が知っていることに憐れな罪人は気づいた。思わず彼は口を噤み目をそらす。自警団に追われて負った傷の、激しい疼痛に溺れる罪人にはそれしかできることがなかった。
「……なら、なぜ……治した」
 助かって良かったなどとはとても思えなかった。人の命を奪い、逃げ出して、それだけのことをして得たものもどこかに落として、そんな自分に生きている価値などもはやあるはずがない。込み上げる痛みと惨めさに罪人は奥歯を噛み締める。
 その時だった、薬師の青年の憤りが彼を打ったのは。


「あのな。怪我をして、苦しんでるやつがいたら助ける。当たり前だろ、そんなもん。それが薬師ってもんだ」


 一段低くなった声には今にも弾けそうな熱が秘められていた。その熱の力が、罪人の中で張り裂けそうに膨れた疼痛を押し返す。
「あんたが何かしたとして、そいつは今にもあんたが死にそうなこととは違う話だ。俺は、どんなやつでも助ける。そう決めて今まで薬師やってんだ、なめんなよ」
「……」
 呆然と患者は薬師の言葉を聞く。そうか、と力なく笑みを浮かべた。この薬師、どうやら相当なお人好しなようだ。それも、何かの信念を持ってそんな姿勢を貫いているように見える。有無を言わさず真っ直ぐ罪人を射る視線には、そう思わせるだけの力があった。そんな人間に見出されてしまったのは不運だったのか、それとも。
「さあ、これ以上起きていると傷に触るわ」
 不意に、額でもつれた髪を掻き上げる柔らかな手を感じる。瞼を上げれば、編まれただけの鳶色の豊かな髪が目に入った。
 更に視線を上げれば、そんな素朴な髪の型からは想像もつかないような美しい微笑みが、患者を見下ろしている。彼はこの女性を知っていた。薬師の青年の仕事を助けながら、苦しい治療を受ける患者の傍にずっとついてくれていた人だった。
 まるで女神のようだ。ぼうっと彼女の微笑みに目を奪われていると、彼女は慈しむように彼に向かって頷いてみせる。
「拾われた命で何を為すか……考えるのは後よ。今はゆっくり眠って、体を癒すのがあなたの仕事」
 おやすみなさい。ひんやりとした柔らかな手のひらに促されて、患者は熱に浮かされながらも眠りに就いた。



 3日も経つ頃には男の熱はすっかり引いて、ものも食べられるようになっていた。体を温める薬膳スープは薬師の青年が仕込み、料理は得意じゃないのよ、と笑った女性は男が身の回りを整えるのを手伝ってくれた。
 男が女性に何かをするかもしれない──ということは、薬師の青年は考えていないようだった。本当に呆れたお人好しだな、と男は内心ため息をつく。
 さてその日の診察を終え、薬師の青年はうんと大きく頷いてみせた。
「よし、ちゃんと傷は塞がったみてえだな。もう命が危なくなることもねえだろ」
「そうか……」
 では、本当に助かってしまったのだ。男はそれが幸運なことなのか不運なことなのか、まだ分からなかった。
「やっぱり、分からない。なぜあんたたちは、俺を……死んでも仕方なかったのに」
 熱に浮かされながらも男は数日考えた。けれど分からなかった、なぜ自分は助けられることが出来たのだろう。
 それを聞いて、薬師の男女は顔を見合わせた。そして、青年の方がふっとため息をつく。
「こないだも言ったけどな。死にそうなやつを助けんのが、俺たち薬師の役目だ。あんたがどんなことをしでかしてようが、んなもんは関係ねえ。自分がそうと決めたことをしてるだけだ」
「……」
「もしあんたが反省すんならそれでいい。でももしそうしねえのなら……俺たちはちゃんとしたとこにあんたの事を伝える。あんたの命を助けたやつとして、せめて責任を取る為にな」


 さあ、どうするんだ。
 薬師の青年の目が、罪人の顔を真っ直ぐに見つめる。ある意味での生殺与奪──人として生きるか、餓鬼に落ちぶれるか──を、聖火神の洗礼を受けた神官でもない若い男に握られている。そんな状況に屈辱や敵愾心を覚えても良かったのに、罪人はそうは思わなかった。
 拾った命で何を為すか。熱に浮かされながら、彼はずっと考え続けていた。結局今日まで答えは出なかったけれど、少なくとも──


「ま、俺の経験上、そーゆーことを口に出すやつはもう迷わずやってけるんだけどな」
「……?」
 男が口を開こうとしたその時、薬師の青年はくしゃっと笑みを見せた。
「あんた、もう大丈夫だよ。自分がどうなりたいのか、ほんとはもう分かってんだろ?」
「……」
 すべてを見透かしたように、青年が穏やかな笑みを見せる。今度は本当に、人をほっとさせるような柔らかい笑顔だ。その表情に戸惑った男は、口ごもりながら訊ねた。訊ねたというよりは、半ば八つ当たりのようなものではあったが。
「なんで、そんなことが言える」
「ん? あーまあ、何となくな。あんた、守りたいものとかあったんじゃねえのか」
「……」
 守りたいもの。問われて、男は瞳を伏せる。閉じた瞼の裏には、確かに浮かぶものがあって。
「子供が、三人いる。……妻には先立たれて、俺が稼がないと食べさせてやれない」
 呟くように言うと、なぜか小さく噴き出したような声が聞こえた。
「……何かおかしいことを言ったか」
 むっと眉を潜めた男が問い返すと、薬師の青年は大げさに手を振って否定する。
「いやいや、わりいな……こっちの話だ。そうか、三人か……なら、早く無事を知らせてやらねえとな」
「ああ……」
 薬師の言葉に男は頷く。しかし、今後具体的にどうすべきかが彼には分からず、途方に暮れそうになる。少なくとも、飢えた子供が自分の帰りを切実に待っている現状はそのままなのだから。
 そこへ、今までずっと黙って会話を見守っていた三つ編みの女性が口を開いた。
「これは個人的な意見なのだけれど」
 彼女が唇の端に浮かべた笑みを見て、男の心臓が一瞬変に跳ねる。それは彼女に魅了されたからではない。いや確かに、ひとを無条件で魅了するような美しさが彼女の微笑みにはあったが、たった今男を打ったのはそういったものではなかった。
「あなたにその気があるのなら、しかるべき場所へ出頭することを勧めるわ。でないと、私のような娘さんがあなたを貫きに来ないとは限らないから」
「──っ」
 彼女の微笑みと言葉の、その外に込められたものに男は怯んだ。なぜなら、薬師の素朴な服装に身を包んだ素朴な姿からは到底連想されない種類の凄みを覚えたから。
 きっと、彼女は本当に『貫いた』のだろう。奪われたものを奪い返す、そんな次元では片づけられないやりとりを経て彼女はここに立っている。おそらく、この直感は誤りではない。自分が同じ種類の過ちを犯したからこそ、それが理解できる。
「プリムロゼ……」
 窘めるようにも呆れたようにもとれる調子で、薬師の青年が彼女を呼んだ。すると、彼女はふっと表情を和らげる。同じ笑顔なのにここまで調子を変えられるかというほどの、愛嬌すら感じさせる笑みで、プリムロゼという名の女性は簡単に謝った。
「ごめんなさいね、余計なことを言ったわ」
 しかし、彼女の言葉は男にとって天啓でもあった。彼女の言葉が持つ刃が、男の迷いを断ち切ってくれたのだ。
「……いや、そうさせてもらうよ。これ以上、家族を……苦しめるのは、御免だからな」
 呟くと、薬師の二人は揃って頷いたのだった。
 拾われた命で再び歩みだすひとりの人間の、背中をそっと押すような優しいまなざしで。


   ◆


「……はあ」
 治療に使っていた掘っ立て小屋を片付けて、薬師はため息をつく。
「お疲れ様、アーフェン」
 治療を受けていた罪人を自警団に引き渡して帰ってきたプリムロゼが、アーフェンのうなだれた肩に軽く触れる。ここ数節では稀に見る大規模な処置をやり遂げた彼は、実のところ疲労困憊していたのだ。もっとも、そんな顔を患者に見せるようなアーフェンではなかったが。
「ん? おお、お帰り。あいつ、大丈夫そうだったか」
「そうね。足取りはしっかりしていたし、自警団の中にも薬師はいるそうだから」
「……そっか」
 顛末を聞いて、アーフェンはほっとしたようにため息をついた。そして、敷物すらない壁際の土間にずるずるとへたり込む。その隣に、プリムロゼも腰を下ろして寄り添った。肩で触れ合う体温に、ほんの少し心が緩む。
 今回はいろいろな意味で彼にとってはきつい治療だった。それでも、崖下の村での決意以来揺るぐことのなかった、己の信じる道を懸命に踏みしめられたことへの満足と感謝が、確かにアーフェンの心の中にある。
 だから、プリムロゼに大丈夫?と聞かれて、疲れは隠せずとも笑顔とともにこう答えられた。
「大丈夫だ。そりゃ、ちっとは不安もあるけどよ……俺が選んだことは間違いじゃねえって、今もちゃんと思えるよ」
「そう、それなら良かったわ」
「……ありがとな」
「あら、何のことかしら」
 ぽつりと付け加えた礼の言葉に、プリムロゼはいつもの──踊子をするときの艶然とした笑みで応える。
 その笑みひとつで、彼女は全部理解してくれているのだと、そう悟ってしまったアーフェンはそれ以上何も答えられない。


 罪人だろうと誰であろうと、アーフェンは救う命を選べない、いや選ばない。だからこそ生まれてしまう、今回の患者のようなある種の歪み──それを無視できないほど、彼は大陸を知らぬ青年ではなかった。
 その歪みを掬ってくれるのが、かつての連れの誰よりも苛烈な旅路を歩んできたプリムロゼだった。彼女が傍にいてくれるから、アーフェンは己の意志を貫ける。彼女とともに歩めることが、薬師として生きる上で、そして一人の人間として何よりの幸運だと、アーフェンは思うのだった。
 アーフェンはただ、広げた己の手のひらを見つめる。


「……俺さ、腕、上がったよな」
 しみじみと呟いた声音に頷いて、プリムロゼは彼の肩にそっと自分の頭を寄せた。
「ええ、間違いないわ。ずいぶん処置も早くなったもの」
「だよな。縫い跡も、今までで一番きれいになる……と思う。糸抜かねえと、わかんねえけど」
「それは大丈夫よ。向こうの薬師さんがきちんとしてくれるでしょうし」
「……おう、だよな」
 大陸中の苦しんでいる人を救う。そんな願を立てて旅立ってから最初に出会ったプリムロゼは、これまでずっとアーフェンの治療を見守ってくれていた。その彼女が肯定するのなら、本当に腕が上がったのだろう。
 そのこと自体は間違いなく誇れることだ。しかし、それでも悔やまれることがある。
 黙り込んだままのアーフェンに、プリムロゼが訊ねた。
「何か不安なことがあるの、薬師さん?」
「あ、いや……そういうんじゃ、ねえけど。……あんときの俺にこれだけの腕があれば、お前の腹の傷も、もっときれいに治してやれたのにな、って思ってさ」
「あら」
 くすりとプリムロゼが笑った。確かに、彼女の腹には今も癒えぬ傷跡がある。三日三晩彼女を死の門の前で彷徨わせた深い傷跡だ。その治療痕は今も痛々しくプリムロゼの白い肌に残っていて、踊子の衣装を纏うとどうしても目立ってしまう。
「まだ気にしていたのね、アーフェンったら」
「いや、そりゃそうだろ……!」
 抗議するアーフェンだったが、むきになる様子がかえって彼女の笑いを煽ったらしい。プリムロゼはくすくすと口元に手を当てて笑い転げていた。
「私にとっては、また踊れるようになっただけで十分すぎるわ。だからこうしてあなたと一緒にいられるんだし……それに、私の傷を治療した経験が、今のあなたに生きているわけでしょう」
「……まあ、そうだけどよ」
「だったら、薬師の妻としてこれ以上のことはないわよ」
「う……」
 そうまで言われては、アーフェンも返す言葉がない。だいたい、昔から言い合いで彼はプリムロゼに勝てた試しがないのだ。
 頬を染めて目をそらしてしまったアーフェンに、プリムロゼはさらに追い打ちをかける。
「私に傷跡があったって、あなたは私のこと、綺麗だって思ってくれるでしょ?」
「……」
 滅多に見せない少女の微笑みで、小首を傾げて問う様はまるで小悪魔だ。でもそんな姿が可愛らしく見えるのだから、もう一生プリムロゼに敵う気がしない。何度そう思ったか、両手の指の数を軽く超えていたけれど。
「……ほんと俺、プリムロゼには助けられてばっかだな」
「それはお互い様よ、アーフェン」
 こんなやりとりも、今まで何度重ねてきたか分からない。でも、これからだって何度も繰り返していくのだろう。 そうして自分たちは長い人生を歩んでいく。己の信じるものを導に、隣で共に歩む大切な人を支えにして。旅路はそうした一歩一歩だけで紡がれていくのだから。
 これまでも、そしてこれからも。その果てには、いったい何が待っているのだろう。
 何が待っていたとしても、その時きっと隣ではプリムロゼが微笑んでいる。心から信じられる幸福が示す煌めきに、アーフェンはそっと目頭を熱くした。



前半と後半の温度差で風邪が引けそうな仕上がり。
アーフェンが再びミゲルのような人間と会ったときどうするのか…ということを考えて書きました。
pixiv公開:2021/3/22