瞳にかかる薄絹

 夜の酒場に、楽しげなフィドルの旋律と賑やかな歓声が満ちる。陽気な騒めきの中心にあるのは、小さな舞台とその上で踊る、真っ赤な衣装を身に纏った踊子だった。
 彼女は華やかな笑顔で、手首や足首に填めた何重もの輪飾りを鈴のように鳴らしながら、軽やかな足音とともに踊り続ける。ひとたび彼女が片目をつぶって見せれば、その魅惑的な表情を目の当たりにした客がほう、と陶酔したように喉を詰まらせるのだった。
(……どこに行っても、大したものだな)
 そんな踊子が、自分の旅の連れだとは。いつでもどこでも、誰彼問わず人を惹きつけるプリムロゼを、剣士オルベリクは賞賛と呆れの入り混じった感情とともに離れた席から眺めていた。
「いやあ、いつ見ても美しいね。プリムロゼ君の踊りは」
 対して、隣で何杯目かのカクテルを傾けつつ純粋に感嘆してみせるのは学者サイラスだ。学問にしか興味がないように見えて、案外芸事に対する興味もあるらしい。
「ああやって誰もを夢中にさせることができるのは、何より彼女が努力しているからだろうね。その結実を見ることができるのは実に嬉しいものだ。そうは思わないかね、オルベリク」
「……ああ、そうかもな」
 オルベリクは頷きながら、内心の思考を訂正する。踊りに興味があるというよりは、プリムロゼという仲間がすることだから感嘆している、ということか。──まあ多少は、少なくとも剣ばかりに生きていた己よりは、芸事への価値観も養われているのだろうけれど。


 やがてフィドルの旋律が途切れる。一曲踊り終えたプリムロゼが観客に向けてにこやかに礼をしてみせ、すっかり魅了された観客たちが次々彼女を褒めたたえる。
「ヒュー、すっげえ綺麗だったぜ!」
「ああ、女神様みたいだ……」
「踊ってなくてもすごい美人さんだねえ! もうちょい顔見せてくれないか?」
「どうせならお酌されてえな~」
 ──おいおい、調子に乗ると棘で刺されるぞ……などと、酔っぱらった客たちの反応に眉を寄せたオルベリクに、ふと声が割り込んできた。


「『綺麗』ねえ……」


 ぼそりと、だがどうにも通る声で呟いたのは同じテーブルを囲んでいた青年だった。オルベリクは思い出したように彼に視線を向けた。
(そういえば、随分静かだったな)
 薬師の青年アーフェンは旅の道中でも、酒を飲んでいるならなおさら、おしゃべりが好きな仲間のひとりだ。だというのに、彼はプリムロゼが踊っている間ずっと黙って舞台を見つめていた。
「おや、どうかしたのかね? アーフェン君」
 サイラスも常ならぬ仲間の様子が気になったのだろう、青い目できらりとアーフェンを見つめた。二人分の視線を受けた青年は、居心地悪そうに癖っ毛の頭を掻く。
「いや、なんつったらいいのか……プリムロゼのこと褒めるなら、やっぱ『綺麗』とか『美人だ』とか、そういう言葉になるのか、って思ってよ」
「……」
 オルベリクは首を捻った。アーフェン自身も、言葉にしつつも自分の言っていることがよくわかっていないようだ。何を返すべきか、いやそもそも答えるべきなのか。オルベリクが迷っていると、恐れを知らぬサイラスがひとつの明快な問いをアーフェンに投げかけた。
「アーフェン君は、どう思うんだい?」
 訊かれると、アーフェンはそれこそ『何と言ったらいいのかわからん』という風に眉をしかめた。
「……いや、あいつがすげえ美人なのは当たり前だからな。やっぱ、俺の目がおかしいのかも……」
「人の感覚に、正しいも正しくないもありはしないさ。それでも納得がいかないのなら、誰かに打ち明けてみることで解決策を得られるのではないかなと思うけれど……どうかな?」
「先生……」
 どうやら感銘を受けたらしいアーフェンが、ぱあっと顔を輝かせて教師の顔をするサイラスを見返した。だがオルベリクには、教師の顔をしたサイラスの青い目に浮かぶ光の意味がわかってしまった。
(多分、ただ単に知りたがってるだけだぞ……)
 だが、根っから素直なアーフェンはサイラスの目の意味など気づきはしない。泡の消えかけたエールを一口飲んでしばし考え込むと、ぽつぽつと語り始めるのだった。


 いや、さっきも言ったけど、プリムロゼがすげえ美人なのは否定しねえよ。ちゃんと化粧して、髪も綺麗に手入れして、体も鍛えてるし。目だって、いっつもきりってしてて、綺麗だよな。
 そんなあいつがひとたび踊れば、そりゃあ綺麗に決まってる。わかってるけど……なんか、それじゃ“足りねえ”んだよなあ。
「ほう……足りないというのは、言葉が、かい?」
 あ、ああ……そうだな。プリムロゼは綺麗だけど、なんか、それだけじゃないっつうか。
 そう……なんつーか、──可愛い、って思っちまうんだよな。


「……」
 そうだそれだ、と一人納得するアーフェンをよそに、オルベリクは思わず客の相手を続けるプリムロゼの方に目をやってしまった。
 愛想はいいが、つかず離れずの距離で絶妙に客をあしらう姿は『可愛い』とはほど遠いと思える。そもそもオルベリクは彼女に対しては『食えない女』という評価が大勢だった。見た目の美しさ、華奢さに吞まれていればたちまち煙に巻かれるか、そうでなければ隠し持つ棘で刺されるのが落ちである。決して油断のできない相手──だからこそこの過酷な旅の道中でも信頼できると、そう思っている。
 しかし、アーフェンには己の見えないプリムロゼが見えている、とでもいうのだろうか。
「でもさ、あいつのこと可愛いとは、他の奴は言わねえだろ」
「……まあ、そうだな」
 やっと答えを返せそうな流れになったので、オルベリクは頷いた。もちろん自分も彼女をそうとは思わないが、それはさすがに口にしない。
「そーだろ? だから、やっぱ俺がおかしいのかなって」
「そんなことはないと思うよ」
 とたん、しょんぼりと肩を落としたアーフェンにサイラスがやんわりと否定する。
「おそらく、キミには他の人には見えないプリムロゼ君が見えているんだろう。オルベリクだってそう思うだろう?」
 突然話を振られて、一瞬瞠目したオルベリクだったがゆっくりと頷く。
「まあ、そうだな」
 まさに先ほどの自分が考えていたことだ。もしもアーフェンに、オルベリクのあずかり知らないプリムロゼが見えているのだとしたら。それはやはり、無暗に否定されるべきものではなかろう。
 我が意を得たりと、サイラスはにっこりとアーフェンに頷いて見せる。
「無理にとはいわないが、よかったら教えてくれないか、アーフェン君。……キミが、どんなときにプリムロゼ君を『可愛い』と思うのか」
「……えー」
 訊かれて、アーフェンは口ごもった。それはそうだろうとオルベリクは思う。そろそろサイラスを止めてやるべきかどうか、しばし逡巡したオルベリクが口を開きかけたその瞬間。


「たとえば、俺と酒飲んでるとき」
「ふぐっ……」


 あやうく咳き込みかけたのをオルベリクは辛うじて飲み込んだ。
 サイラスが苦笑してきたのに、オルベリクは構うなと手で小さく合図してから残り半分だったエールを飲み干す。幸いアーフェンは気づかなかったようで話を続けていた──なにか、夢見るような口調で。
「サンシェイドの酒場であった愉快な話をよ、楽しそうにしゃべってる時の顔とか、かわいいんだよなあ……あと、オフィーリアとカードゲームして負けたときに拗ねちまったとことか。あいつ、案外負けず嫌いなんだよな。そういうとことかさ」
 それから二、三の事柄を述べて、アーフェンはふーっと息をついた。いずれもオルベリクがあまり気にしたこともない、プリムロゼの旅の日常での姿を描いたものであった。
「……」
 オルベリクは黙って、サイラスと顔を見合わせた。好奇心旺盛に聞き取りを、いや探りを入れていた彼だったが、今は見たこともないほど柔和な笑みを浮かべている。
(……ああ、やはりそういうことだったな)
 自身にも同じ種類の表情が形作られるのを、それはそうだろうと他人事のように自覚していると、沈黙に耐えかねたのかアーフェンが不安そうに尋ねてくる。
「やっぱ、俺おかしいかな」
「いや、そんなことはないよ。そうだよね、オルベリク」
「ああ、そうだな」
 即座に頷く年長ふたり。アーフェンはそっか、とほっとしたように眉を下げてため息をついた。
 そんな薬師の青年を見て、年長二人は再び柔和な微笑みを互いに交わす。
 ──おかしいかおかしくないかでいえば、確かにおかしいとは言えるだろう。だがそれは、人としてはまったく自然な心の動きだ。戸惑いはもちろんあるだろうが、アーフェンとてもう立派な青年である。ひとたび気づけばすぐ納得するだろう。
 その先がどうなるかは、『ふたり』次第といったところか。


「ふふっ、なんだか楽しそうね」
「ふおわっ!?」


 いきなり割って入ってきた艶やかな声に、アーフェンが妙な悲鳴を上げた。オルベリクも正直心臓が縮む思いがした、なぜなら艶やかな声の持ち主は、話題の渦中にいるプリムロゼその人だったからだ。彼女は片手に葡萄酒の瓶を抱えながら、くすくすと上品に笑っている。
「なんの話をしていたのかしら、男三人で。随分盛り上がっていたようだけど」
「ああ、キミの話をしていたところだよ、プリムロゼ君」
「!!先生ッ!?」
 とたん、顔を赤くして叫ぶアーフェン。オルベリクも内心でおいサイラス、と突っ込みかけたが、さすがにサイラスもこれ以上からかうつもりはないようで「もちろん、先ほどの踊りの話さ。アンコールも素晴らしかったよ」などと言っている。
「あら、ちゃんと見ていてくれてたのね。ありがと、先生」
「もちろんだとも。アーフェン君も絶賛していたよ」
「そうなの?」
「そうだろう、アーフェン君」
「えっ……いや、まあそりゃ、あんたの踊りはいつだって大陸いちだぜ?」
「ふふっ、ありがとう。そう言ってもらえるなら頑張った甲斐があったわね」
 お礼にお酌してあげる、とプリムロゼが瓶を差し出すので、アーフェンは残っていたエールをぐっと飲み干すとその杯でお酌を受ける。サイラス、オルベリクにも同じように葡萄酒を注いでから、彼女はアーフェンの方に向き直った。
「ここはいい酒場ね、みんな盛り上げてくれるし、何よりフィドル弾きの腕がいいわ」
「へえ、そんなもんかい?」
「もちろん。音楽がよければその分踊り甲斐もあるってものよ。脚の乗り方が違うのよね」
「ふうん……俺にゃ音楽のことはよくわかんねえけど、あんたが乗ってるのは伝わってきたぜ」
「ふふ、やっぱりそう見える?」


「……」
 楽しげに会話を弾ませる若者ふたりに、年長ふたりは三度顔を見合わせた。おそらく、もう二人は自分たちのことなど目に入っていないに違いない。
「どうやら、心配はなさそうだね。……そうは思わないかい」
「ああ、そのようだな」
 意味ありげに目くばせをくれるサイラスに、オルベリクは至って重々しく頷いた。もう自分たちが余計な口を挟まずとも、きっといつか、彼らは二人だけの答えに辿り着くだろう。
 そんな旅路の果てを思い描いたとき、オルベリクの唇には笑みが浮かんでいた。
「……若いというのは、いいものだな。サイラスよ」
「ああ、まったくその通りだね」
 そして年長ふたりはどちらからともなく杯を合わせ、それからゆっくりと飲み干すのだった。



年長組が書きたくて書いたお話。実はオルベリクがほとんど喋ってないですね。
pixiv公開: 2022/8/25