清流の詩は永久に

 洞窟というものは大抵、音は響くくせして不気味な静寂の中に沈んでいるものだが、この洞窟に限っては違うらしい。
 リバーランド地方、中つ海にほど近いこの小さな洞窟では、これまでの道中にも聞いてきた涼やかな清流の音が深い反響を伴って、舞踏会の合間に聴ける演奏のように穏やかに流れ続けている。
 プリムロゼは小さくため息をついて洞窟を見上げた。
 ──ここが、リーオ洞窟。いま旅路を共に歩く薬師の青年、アーフェンが旅立つ前に通っていた場所なのか。どこからか差し込む日差しを受けた川面が反射して、洞窟の天井や壁に光の波紋を描いているのを、彼女は感心して眺める。
「綺麗なところね」
 つぶやくと、その声も川のせせらぎに混じって反響した。少し先を歩いていたアーフェンが、振り返ってニヤリと笑う。
「そうか? まだまだこんなもんじゃねえぞ」
「あら。じゃあ期待しないとね」
「おう。迷うようなとこじゃねえが、しっかりついて来いよ」
 そんなことは言うまでもない。プリムロゼはこくりと頷くと、しっかりとした足取りで歩く年下の青年の背中を追いかけた。


 ここに蔓延る生き物はさほど狂暴ではなく、歴戦の旅人である二人にとって脅威にはなりえなかった。それでも、旅立つ前は結構必死だったんだよな、とアーフェンは言う。
「もっと小さいときはよ、ゼフと二人で入口まで来て……洞窟に一歩入ったら急にでけえコウモリがあいつの頭を掠めたんだ。もう大慌てで」
「ふふ、それはそうでしょう」
「結局、何も取らずに帰っちまったんだよな。それに比べりゃ、一人でここに来た妹のニナの方がよっぽど勇敢だったぜ」
「……よっぽど、お兄さんのことが好きだったんでしょうね」
「そうだな。……たった二人の、家族だったしな」
 アーフェンの昔なじみであるゼフ、そして妹のニナ。アーフェンの旅は、ニナがこの洞窟でマンダラヘビに噛まれてしまったことが転機になって始まったのだった。
 今は随分前になったそんな話を、プリムロゼは道中聞きながら歩く。内容自体は以前も聞いたことがあったけれど、こうして彼が昔にいた場所に立って聞くと印象が違った。
 洞窟に反響し続ける川のせせらぎは、アーフェンが生まれ育った間いつも彼と共にあったのだろう。常に穏やかな調子を保ったようなこの音が、彼の温かな心を育んだに違いない。
 水の流れ、雫の落ちる音、吹き抜ける風の囁き、二人分の足音。澄んだ冷たい空気を吸いながらそういった響きに耳を傾けていると、プリムロゼは自分の心も澄んでいくように感じた。
 そうしてゆったりとした気持ちで歩いていると、不意に辺りが静まり返った。
「あ……」


 ちがう、とプリムロゼは思った。川の流れる音が急に遠くなったからだ。
 その場所は明るく暖かく、日の差した地面には背丈の低い草が生えそろい、洞窟を通る風を受けさやさやと音を立てて揺れていた。これまで絶えず流れていた川のせせらぎの代わりに、草葉の擦れる心地よい音がこの場所には満ちている。そして揺れる草葉の合間にはいくつも、青く輝く花が咲いていた。
 アーフェンの幼馴染ゼフが好きな、兄のため妹のニナがひとりで採りに行った、ミズフラシの花だ。


「ここが目的地だ。綺麗だろ」
「……ええ、そう思うわ」
 確かに美しい花で、場所だった。日を浴びて輝く青い花は、澄んだ川の水や涼やかな風を閉じ込めたように純粋な色をしている。アーフェンと同じく故郷を愛しているであろうゼフがこの花を好むのが、プリムロゼには共感できる気がした。
「ヘビは……いねえみたいだな。じゃ、休憩してくか」
 といって、アーフェンはひときわ暖かそうに見える草地に腰を下ろした。最寄りの集落であるクリアブルックを出発したのは朝だったが、ここまでそれなりに距離はあるから、そろそろお昼時である。
「ほれ、プリムロゼ」
「ええ、ありがと」
 持ち込んだ籠に入っていたのは、アーフェンが心づくしで作った昼食である。パンに野菜と薄く切った干し肉を挟んだものか、ベリーのジャムを塗ったものという簡素さではあったが、午前中たっぷり歩いた体には十分満足できた。それにこんな風に日差しを浴びて、心を許した人と共に頂くのなら尚更だ。
「美味しいわ、とっても。旅の醍醐味って感じがする」
「はっはっ、そいつは良かったぜ」
 お腹を満たして、風と光を浴びて、周りにはかわいらしい花が揺れていて──なんて穏やかな時間だろう。ねえアーフェン、と振り向こうとすると、アーフェンが振り向きかけたプリムロゼの肩をぎゅっと押さえてきた。
「ちょっと、アーフェン?」
「わりい、プリムロゼ。ちとしばらくあっち向いててくれ」
「……どういうこと?」
「いいから。ちょっとだけ景色眺めててくれって。頼むから」
 というアーフェンは、絶対にこちらと目を合わせようとはしないのだった。何かを企んでいるのには違いなかったが、まあ無理に口を割らせようとする場合でもあるまい。
 仕方ないので、プリムロゼは腰を下ろしたまま花々と洞窟を眺めることにする。途中何度かアーフェンに話しかけてみたが、彼は何事かに集中しているのか返ってくるのは生返事ばかり。こうなると、さすがに少し退屈になってくる。
 そんな彼女にとって、暖かな日差しと涼しい風、草葉と花の揺れるざわめきは眠りを誘うのに十分だった。洞窟の最奥部ではあるけれど、ヘビだのコウモリだのの気配はしない。それならと、プリムロゼはこの心地よさに身を少し預けることにした。
 すぐ傍にある背中に寄りかかってみる。すると一瞬緊張したようなアーフェンだったが、何も言わず受け止めてくれた。それに気をよくして、プリムロゼは本当に目を閉じる。


 うとうととしていたのは、さほど長い間ではなかった。やがてアーフェンが、そっと耳元で名前を呼んでくる。
「……なぁに? もういいの?」
「おう、待たせて悪かったな」
 こっち向いていいぞ、というので、プリムロゼはまだ眠気の覚めない頭でアーフェンの方を振り向いた。すると、
「……これって」
「ま、クリアブルックにはそういう習慣があってだな」
 アーフェンの手元には、青い花冠が携えられていた。もちろん、ミズフラシの花で編んだものだろう。
「自分の大事なやつに、感謝とか……これからもよろしくとか、そういう意味で、こいつを贈るんだよ」
「……」
「受け取ってくれるか?」
 そうおずおずと訊ねるアーフェンを見れば、この青い冠に感謝以上の意味があるのは明確だった。そうと悟ったプリムロゼは、眠気など忘れて体も心も熱くなる。


 ──じゃあこの人は、これが渡したくてここまで私を連れて来たっていうの。
 景色を見せたかったからだとか、そんな単純な理由でなかったことを突きつけられ、プリムロゼは柄にもなく気恥ずかしさに襲われる。しかし同時に、とても彼らしいと思った。どんな高価な宝石よりも、黄金の装飾品よりも、青い野花で作った冠をプリムロゼ・エゼルアートに着けて欲しいと思ってくれたことが。


「……受け取るわ。もちろん」
「へへ、そっか。ありがとな」
 ほっとしたように、でも心から嬉しそうに笑いながら、アーフェンがさっそく花冠をプリムロゼの頭に載せようとしてくる。しかし。
「お……んん? 上手くいかねえ……」
「それはそうでしょ、高いところでまとめているんだから」
 いまいち決まらないところも、やっぱり彼らしい。わざとため息をついてみせると、プリムロゼは頭の上に手をやった。
「仕方ないわね」
 髪留めを手早く取り去ると、頭の高い位置でまとめられていた豊かな鳶色の髪がふわりと落ちる。目の前でアーフェンが息を飲んだのでほんの少し微笑んでみせてから、プリムロゼは手櫛で髪を整えた。
「もういいわよ」
「お、おう……」
 今度こそ、プリムロゼの頭の上にそっと花冠が載せられた。優しい手の感触が離れていってから、彼女は顔を上げて訊ねる。
「どう、似合うかしら」
「……ああ。……やっぱ、すげえ似合うよ」
「ふふ、そう」
 やっぱり、という言葉にも満足して、プリムロゼは笑顔を深くした。自分ではどう見えるかは分からないけれど、目の前でアーフェンが幸せそうに笑っているから、それでいいと思った。
「似合うし、めちゃめちゃかわいい」
「そう。……まったく、かわいいって言うのはあなたくらいね、アーフェン」
「なんだよ。いいだろ別に」
 少し不満そうに言ってみせるアーフェンだったが、その実彼は自分から目を離そうとしない。可愛いというより愛おしいのだ、と訴えるまなざしがやっぱり気恥ずかしくて、プリムロゼの方から瞳を伏せた。
 目を閉じると、風の音に混じって遠くから川のせせらぎがプリムロゼの耳に入ってくる。そうか、と彼女は思った。遠くなっただけで、ずっと流れ続けていたのね、と。
 あのせせらぎが歌う詩のように、これからはアーフェンがずっと自分の傍にいてくれるのだという確信がプリムロゼの心に満ちていく。それがどうしようもなく幸せだった。
 だからきっと、ひとりでさみしいとは二度と思わない。



TWINKLE MIRAGE 18にてペーパー頒布していたお話です。
リーオ洞窟をBGM消して散歩してみたときの環境音がすごく綺麗で、それを題材に書いたのでした。
pixiv公開: 2022/8/27