On the brink of Break

 舞台を照らす、暖かな色をした照明が急に落とされた。同時に、ホールへ集まっていた聴衆たちの騒めきがさっと引いていく。
 入れ代わりに鳴り始めたのは拍手の音。よく響くホールでのそれは、まるで静かな夜に降る雨音にも似ていた。
 そんな歓迎に迎えられて、今夜の出演者、カルテットのメンバーが舞台に登場する。先頭は楽譜だけを持ったピアニストのオフィーリアが、次にクラシックギターを肩から下げたテリオン、バイオリンを携えるプリムロゼが続き、最後にチェロを抱えたアーフェンが進み出る。
 舞台上に据えられた椅子へ背筋を伸ばして向かいつつ、アーフェンは横目でちらりと観客席の方を見やった。
(おぉ、今夜は盛況だな)
 ぱっと見えた限り、席は九割がた埋まっているようだ。実にありがたいことである。集まった聴衆は今夜の奏者たちに向けて、惜しみない期待を送ってくれていた。その期待には是非とも応えなければなるまい。
 四人が席につくと同時、拍手の音が静かになっていき、その名残が微かなどよめきへと変化する。照明の落とされたホールには、たくさんの人々が醸し出す思いのひとつひとつが混沌と渦巻いている。
 そんな空間へ一石を投じるように──あるいは、導きの碧い火を灯すかのように。


 オフィーリアが、ピアノの鍵盤にそっと指を置いた。


 優しく、けれどはっきり、たった一つの音がホールに染み通っていく。
 それを引き取るように、プリムロゼがバイオリンで同じ音を奏で出す。異なる楽器から発される同じ高さの音が、一瞬完璧に混じりあう。テリオンがクラシックギターで独特の乾いた音を爪弾き始め、それからアーフェンがチェロの低い音をそっと当てていく。瞬きをするほどの間に、四人の音がホール中へ広がっていった。
 舞台上で行う最後のチューニング。どの位置で指板を押さえれば、どの程度弦を締めれば四人の音が調和するか。耳に聴こえる音と、弦に触れる指の感覚、ホールの空気や温度の感覚、すべてを駆使して互いに調子を合わせていく。
 基準となるのはオフィーリアのピアノだ。誰かの音がわずかでも乱れれば、彼女が思い出させるように再び鍵盤を叩いてくれる。迷える誰かの肩をそっと叩くように。
 アーフェンにとって、この瞬間は演奏会で最も好きな瞬間の一つだった。音合わせを通じて、四人の気持ちがひとつにまとまっていくのを感じる。
 最初にオフィーリアの奏でたA音が合ったことを確認して、弦楽器奏者の三人は他の弦の調子も素早く合わせ始めた。太い弦の低い音や細い弦の高い音が、奏者それぞれのタイミングで鳴らされていく。
 無秩序にさまざまな音が発されているようでいて、実はほとんどの音同士が完全四度で調和する関係が成り立っている。けれど、舞台上で奏でられているさまざまな音が不思議と心地よく響くのは、そんな理屈だけではないとアーフェンは思っていた。


 いつもにこやかな微笑みを浮かべているけれど、時にはっとするほどの芯の強さで音楽を導いてくれるオフィーリア。
 普段は斜に構えているように見えて、実は技術でも表現においても、誰よりも情熱を持って音楽に取り組んでいるテリオン。
 誇り高さと周りを気遣える温かさ、そして誰もが目を見張る音の美しさ、さまざまな面でカルテットを引っ張ってくれるプリムロゼ。
 真っ直ぐさと皆を支える心意気には一定の自負を持つアーフェンだったが、そんな自分ひとりだけでは音楽を、今から迎える最高の時間を創ることはできない。楽器も個性も出自も異なる四人が、同じものを見据えて走り出す意思を持つからこそ、本来ばらばらの音も心地よい揺らぎを以て響き合う。そうアーフェンは信じている。


 そして、齎される一体感は奏者の四人に限ったことではなく。


 チューニングの音が止んだ。わずかな残響がホールに溶けて消えていく。
 集まった人々の意思で混沌としていたはずのホールが、今や静まり返ってひとつの総体となっていた。期待と、楽しみと、弾む心臓の鼓動が伝わってくる。これから自分たちカルテットで創る世界の入口に、今このホールにいる全員が立っている。
 ──だから、アーフェンはこの瞬間が好きだった。
 会場に来るまでそれぞれ違う道を歩いてきた人々が、音合わせを終える頃には自分たちと同じ場所にまで来てくれるから。
(あぁ、知ってるぜ。みんな、一生懸命来てくれたはずなんだ)
 今から自分たちが共有するのは、人生という旅路を歩む人々へ贈る束の間のひとときだ。この場所を訪れる、という選択をしてくれた彼ら彼女らの心を楽しませ、憩わせるかけがえのない時間。
(だから、期待しててくれよ)
 アーフェンは口の端に笑みを密やかに浮かべた。皆で一緒にこの時を味わえる、これから一緒に始まっていくのだという期待は、人との交わりを好む彼にとって何よりのモチベーションだった。
(……!)
 と、まだ薄暗い舞台の上、アーフェンの視界の端でバイオリンの弓がわずかに揺れた。そちらの方へ視線を向ければ、プリムロゼが美しい顔に勝気な微笑みを浮かべている。
『さぁ、始めるわよ』
 それに応えたオフィーリアが『頑張りましょうね』と明るく笑い、テリオンが『行くぞ』と確かな意思を滲ませながら頷いてみせる。
『あぁ、やってやろうぜ』
 アーフェンも気合いとともに自らの弓を弦の上に置いた。いよいよホールの空気が、静かな期待でうねりを上げるのを感じながら。


 さあ、今こそ此処に集いし旅人たちと共に、最高の“ 安らぎのひととき (Break time) ”を。
 プリムロゼが振り上げる弓に合わせて、舞台上のカルテットは一斉に息を吸った。



クラシック楽器を使ったコンサートが始まる前のチューニングのシーンが好きなんです。というお話でした。
pixiv公開: 2019/8/16