茨の箍
「……慣れないな、こういうのは」
とある屋敷の一室、本が高く積まれた重厚な作りの机の足元。盗賊テリオンは低くぼやくと、机にもたれるように天井を仰いだ。彼のあぐらをかいた膝の上で、薄い冊子がうつ伏せになっている。
「いつもはあんなに演技ができるのに、上手くいかないものね?」
と言いつつもどこか楽しそうに微笑んでいるのは、この屋敷の主人であるプリムロゼ・エゼルアートである。鮮やかに紅を引いた唇が、歌うように言葉を紡ぐ。
「『君の信じる心が、僕の中の扉を開いてくれたのだ。だから僕の想いを、君の心の鍵にしてくれないか』……まんざら、あなたと遠くもない台詞だと思うのだけど」
「素面で誰がそんな台詞を言えるか。あの学者先生じゃあるまいし」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
プリムロゼはテリオンのあぐらでくたびれている冊子を拾い上げる。それは物語の本ではなく、台詞とト書きだけが並べられた、劇の台本であった。
盗賊テリオンは色々な事情で、役者という新たな道を選ぼうとしていた。それで頼ったのが、以前は舞台の上で活躍していた踊子であり、テリオンに役者を勧めたプリムロゼだった。彼女はテリオンの志を聞くと真っ先に、役者を目指すなら恋愛ものを演じられなければね、と断じた。
そして、この状況である。テリオンは愛の台詞を述べることはできたが、ちっとも『それらしく』愛の言葉を仕立て上げることができないのだった。
プリムロゼはぺらぺらと冊子をめくって、テリオンが述べる台詞の言葉を吟味する。
「でも、大袈裟な台詞であればあるほど、騙される側は気持ちよくなるものよ。だからもう少し頑張らないと」
「騙す……」
プリムロゼの言葉が、テリオンの耳に引っ掛かった。それはあまりに身近な語彙だったから。
彼女は頷いて、芝居がかかったような仕草でテリオンの前に跪く。
「そうよ、演じるとは騙すことと同じだわ。役になる時は、観客のことも相手の役者のことも、そして自分のことも騙すの。あなただって、今まで必要な時はそうしてきたでしょう」
「……確かにな」
役者として演技に向かおうとするあまり、テリオンは自分がしてきた行為の本質を忘れていたことに気づく。
自分は確かに、獲物の前に立ちはだかる者共を騙すため──商人に化け、盗賊の部下に化け、そんなことを繰り返してきたのだった。
「だから、きっとできるわ。私が言うんだから、間違いないわよ」
プリムロゼは冊子をテリオンに返して、優雅に微笑んだ。それは完璧な貴族の顔だった。昔の艶然とした踊子の顔とは、随分違う。
テリオンはそんな彼女の言葉に珍しい共感を覚えた。おそらく、プリムロゼはずっとそうやって生きてきたのだ。彼女が仇を討つという一念だけで、望まぬ地位に身を落とし、尊厳を踏みにじられるような屈辱にも耐えてこられたのは、踊子という役として誰も彼も、そして自分をも騙していたからだろう。
似たような生き方に心当たりがある。もう誰も信じられないと肩肘を張って、孤高を貫いてきたどこかの誰か。今はそんな必要がないことに気づけたから、こうして別の道を選ぼうとしているけれど。
「そうね、それにあなたは盗賊なんだから、人の心を盗めばいいのよ」
「はあ……?」
「恋は盲目っていうけど、それはその人が心あらずの状態になるからよ。演技で観客をそういう風にできれば、役者の勝ちだわ」
「……物は言いようだな、元踊子」
実は適当なことを言っているんじゃないだろうな、と思いつつ、テリオンは台本を開き再び中身をさらい始めた。
今演じようとしていた場面は歌劇の終盤、主人公がヒロインの姫へ愛の告白をする一幕だ。主人公は真摯な想いを滔々と述べた後に、ヒロインに向けてある決定的な仕草をする。
その決定的な一行に、テリオンの目が吸い寄せられる。──これも、騙しでやるのか。
テリオンが眉をしかめたのと同時に、プリムロゼが声をかけてきた。
「さあ、もう一度やってみましょうか」
座り込んでいたテリオンに、既に立ち上がっていたプリムロゼが手を差し出す。
顔を上げれば、彼女がうきうきと目を輝かせている。それはいつかテリオンと共に闇市に忍び込もうとしていた時と、まったく同じ顔だった。
──なあ、踊子。あんたは今も、自分を騙しているのか?
テリオンとプリムロゼは決して深い関係ではなかったが、それでも少なからぬ期間、共に旅をしていたのだ。彼女が常に保っていた毅然とした態度、その下に隠れていたものの片鱗くらいは垣間見たことがある。
たとえば、あの時も彼女の頬に浮かんでいた、少女めいた無邪気な笑みだとか。
あれが踊子の顔とも、貴族の令嬢の顔とも違うものであることくらい、テリオンとて判っていた。
「ああ、いいだろう」
台詞と仕草を覚えた台本は机の脚元に放って、テリオンはプリムロゼの手を取る。
ただ台本の通りに。見様見真似ですらない、想像だけで構成した仕草で以て、愛を伝える言葉を舌に乗せる。
「『君の信じる心が、僕の中の扉を開いてくれたのだ』」
かつての旅路の果てでこの身に染みた、どこかの誰かの想いがその場にあるように。
「『だから僕の想いを、君の心の鍵にしてくれないか』」
今は上面をなぞるだけのそれが、決して虚しいものではないのだと己を騙し。
そして彼女の反応を待つことなく、テリオンは台本に書かれた決定的な仕草を実行した。
即ち、ヒロインに口付けをしたのだ。
「…………」
一歩離れたテリオンが見下ろした彼女は、今までに見たことのない顔をしていた。紅を引いた唇がぽかんと開き、翠の瞳が茫然と丸くなっている。
彼女は絶句したままテリオンを見つめていた。今や名家の跡継ぎたるプリムロゼ・エゼルアートが、見る影もない。
「なんだ、唇にはしていないつもりだが?」
テリオンはふっと口の端に笑みを浮かべた。言葉の通り、彼女の唇ではなくすぐ横の頬に己の唇を掠めさせた程度なのだが、それでこの反応とはやり遂げた甲斐もあるというものだ。
「心を盗めば、役者の勝ち……だったな」
『心あらず』といったら、今のプリムロゼはまさにその通りだ。身に纏っていた役としての顔も、屋敷の主人としての顔もまとめて盗まれて、残ったのは素の感情。
プリムロゼはほんのりと頬を染めて、降参とばかりに手を挙げた。
「まったく、やっぱりあなたは大した役者ね。いきなりそこまでするなんて」
「なら、もうあんたの指導は必要ないな?」
「そうね。でも」
プリムロゼが紅を引いた唇をつんと吊り上げる。かと思えば、
「……!」
一瞬、テリオンは自分に何が起こったのか知覚できなかった。
ただ、彼女の顔がとても近くにあった、というだけで。
唇に何かが触れたと頭で理解したのは、反射的に拭った手の甲にうっすらと紅いものがついていたからだ。
「っ……あんた……」
唐突な反撃に成す術もなく、テリオンは目元が熱くなる感覚に襲われる。
「まだ詰めが甘いわね、盗賊さん?」
騙すなら、最後まで騙しきらなきゃ。そう言って、プリムロゼは艶然と笑った。昔よくやっていた、踊子の表情で。
「でも、それがあなたのいいところなんでしょうね。手加減もしてくれてるし」
「……」
プリムロゼが、己の唇をそっと指でなぞる。
手加減されたと分かっているのに、敢えて自ら刃を突き立てにいったのだ、この女は。そう悟って、なんて奴だとテリオンは内心ため息をつく。
「……あんたは、もう少し自分を大事にしたらどうだ」
「あら、どこかの誰かと同じようなことを言うのね」
プリムロゼが翠の瞳を細める。そのまなざしは、テリオンを見てはいなかった。
「盗めないと分かってなければ、こんなことしないわよ。……あなただって、そうでしょ」
(……ああ、そうだな)
テリオンは自らの仮説が間違っていなかったことを知る。
本当に欲しいものは、盗むことなどできない。そう諦めているから、彼女は今もこうして己を騙し続けている。
置かれた場所で咲くことに慣れ切ってしまった踊子は、用意された舞台を降りられない。──だから、想いを遂げたはずの刃を置いていくこともできない。
「さて、今度はもうちょっと真面目にやりましょうか。でも今の感じでいけば、マルサリムの劇場にも上がれるわよ」
「……分かった。この一幕までは頼む」
プリムロゼの高貴なる微笑みは、まるで茨の箍のようだ。
愚直に握り締められたその手から剣を盗むことなど、今のテリオンにはできそうになかった。
フォロワーさんとの推しCP交換企画・お題「キスの日」で書いたものでした。ただしこの二人に恋愛関係は皆無です。
第4章ラストのプリムロゼの台詞に、私は少し強迫観念めいたものを感じています。
pixiv公開: 2020/5/23