遍く照らすもの

 それはある午後のことだった。
 学者サイラスはアトラスダムの自宅で、いつもの如く書斎に籠りいくつもの文献を比較しながら研究を進めていた。助手を務める女性テレーズが昼時に淹れてくれた紅茶はすっかり冷め、窓から差し込む日差しはやや陰りを見せ始めている。
 そういったことにもまったく頓着せず、サイラスはひたすら頁を捲り続ける。そうして今日も、穏やかにそして有意義に過ぎていくはずだった。そこへ。


 ごんごん、と頭の片隅で鈍い音が響く。
(ん……?)
 何か物音がする、ああ屋根裏にネズミでもいるのかな。意識の外で呟いたサイラスはなおも紙の上の文章に目を落とし、思考の海に潜り込む。
 しかし、鈍い音は再びサイラスの学究に割り込んできた。先程よりも更に調子を上げて。
 挙句──


『せんせー、サイラス先生! いるんだろ!?』


 鈍い音が人の声を伴った途端、サイラスは夢から覚めたようにはっと書物から目を上げた。すると、また若い男の声が壁を何枚も突き抜けてサイラスを呼ぶ。
 こんな風に遠慮なく扉を叩いて、先生と高らかに呼ばわる青年はひとりしかいない。そうでもしなければサイラスが訪問者に気づかないことも、十二分に承知している人物だ。
 サイラスは唇を緩めて、予告なく訪れた彼を迎えるべく椅子から立ち上がった。
「すまないアーフェン君、今開けるよ」



「よっ、先生久しぶり! 元気か?」
 サイラスが玄関の扉を開けるなり、片手を挙げて笑みを浮かべた青年──薬師アーフェンは、彼自身が元気を体現したようだった。
 薄暗い玄関に差し込む眩しさに目を細めつつ、元気だよとサイラスは頷いたのだが、アーフェンは目敏くサイラスの顔を指して言う。
「いや先生、目の下隈できてんぞ。最近寝てねえんじゃねえの?」
「ああ……まあ確かに、いまこの研究がいいところだからね……」
 予想していたとアーフェンは苦笑して、薬師らしくサイラスを諭した。
「あちゃあ、そりゃ駄目だぞ先生。いい研究も健康な身体から、だぜ? あとでよく眠れる薬草茶でも渡しとくよ」
「ふむ、それは素直にありがたいね。頂いておこう──ところで、何か用事があったんだろう?」
 用がなくても『酒が飲みたい』の一言だけでアトラスダムに来そうなのがアーフェンではあるのだが、彼がここを訪ねる心当たりがあったサイラスは改めて聞いてみる。果たしてアーフェンはそうだった、と大きく合点した。
「ああ先生、こないだ借りた本を返しに来たんだ。すげえ役に立ったよ、ありがとな」
「やっぱりそうだったか。でも、これはキミがずっと持っていても良かったんだよ?」


 アーフェンが差し出してきた本は、サイラスがたまたま持っていた本草学に関するものの一種で、もっと有り体に言うなら、薬草の図鑑であった。
 前回アーフェンがここを訪れた際に分からない薬草を調べたいと言っていたから、サイラスは喜んで蔵書のひとつを渡したのである。ここで眠っているよりも外へ旅をして、この若い薬師の知識になることの方が図鑑にとっても良いと考えて。


 だがアーフェンはからっと笑って、なお本をサイラスに向けて突き出したのだった。
「そうか? でも、やっぱこれは俺には重いしよ。それに、ちっとでもたくさん薬の方を持っておきたいしな」
「ふふ、なるほどね」
 それもまた彼らしい。サイラスは少し残念に思う気持ちを微笑みで覆い、甘んじて本を受け取る。
「で、さ……先生、実はよ……これで終わりじゃなくて」
「ん? なんだい」
 何か気が引けることがあるのか、頭を掻きながらアーフェンが口を開く。
「さっきの本を見ても分かんねえ草があってさ。先生なら、他に本持ってたりしねえかな……って」
「なんだ、そんなことかい?」
 アーフェンの願いを聞いたサイラスの口元にまた微笑みが浮かぶ。もちろん、サイラスは他にも本草学の資料を持っていた。
「実は、もしかしたら役に立つかも、と思ってとっておいた本があるよ」
「うおっ、先生さっすが! 早速見させてもらってもいいか?」
「もちろん、いいとも」


 目を輝かせたアーフェンが、いそいそとサイラスの案内に従って奥の書斎へ入っていく。サイラスが本棚の手前にあったその本を抜き出すと、勝手に椅子を引いてサイラスの机の前に座っていたアーフェンへ差し出した。というのも、書斎にはそこかしこに(書見台の上にすら)本が積んであって、座って本を開ける場所はそこしかなかったのだ。
「ありがとな、先生」
 礼を言ったかと思うと、アーフェンはすぐにサイラスから渡された図鑑を開く。その傍らには使い込まれた手帳が広げられていた。サイラスの青い目がそれを見つけて、ぱち、と瞬く。
「おや、アーフェン君。それは自分で書いたものかな?」
 手帳には植物の素描と、覚書がいくつも並んでいる。それと図鑑を見比べながら、アーフェンは頷いた。
「ん? あぁ、そーだよ。まだまだ未完成だけどな」
「そうか、やっぱりね。……いつの間にそういうものを書くようになっていたんだね」
「まあ……恩人さんが手記書いてたみたいだし、俺も真似してみようかなって」
 そう言ってアーフェンは照れくさそうに笑う。
 恩人こと薬師グラムが書いていた手記はもう仲間のトレサから他の人に渡ったし、本人も既に世を去っていることもはっきりしてはいるが、アーフェンの中で“恩人さん”は未だに大きな存在であるらしい。
「実にいいことだね。書き留めておけば、あとで楽に知識を活用できるから」
「あぁ、思い出すのに悩む必要もなくなったしな。先生の本も、これ書くのにすげえ役に立ったんだ」
 話しながらもアーフェンは図鑑の頁を捲って、自身の手記に書かれた素描に当てはまる薬草を探し続けた。
「こいつ、すげえ効くんだけど……草の名前が、その村で付けたあだ名みたいなやつらしくって……他の場所で探しにくいんだよな」
「ああ、それはよくある話だね」


 頷きながら、サイラスはアーフェンの手帳をじっと眺める。
 彼の豪快な性格を示すように、薬効や使い方を書いたオルステラ文字は形も並びも大雑把であったのだが、それに比べると、草本の素描は驚くほど精密だ。全体的な形が整っているのはもちろん、葉脈の通り方のような細かいところまではっきりと描いてあった。いったいどこで描き方を学んだのか、そのまま図鑑に載せても通るほどの出来栄えである。
「これは……アーフェン君、素晴らしい出来じゃないか」
「ん、そうか?」
「絵の描き方は誰かに習ったのかな?」
「えー、あー、薬師やってたダチの親父さんにちょっとな。……お、あったあった!」


 ある頁に辿り着いて、アーフェンが声を喜色に染める。どうやら目当ての薬草を見つけたようだ。ふんふんと唸りながら、アーフェンは図鑑の記述を自分の手帳へ引き写していく。
「なるほどなあ、リバーランドにも似たやつが育つのか。道理で見たことあるなと思ったぜ」
「ほう。キミが見た覚えがある植物と、今探しているものは違うのかね?」
「ああ、ほんのちっとだけな。ほら、ここんとこ……葉っぱの付き方だな、今探してたやつは互い違いに生えるんだけど、ええと」
 ぱらぱらとアーフェンが手帳を捲り、じきに別の頁から別の植物の素描を拾い上げる。先ほどまで図鑑と見比べていたものと比べて、葉の付け根部分に小さな差があることを示した。
「こっちの方は二枚の葉っぱが同じところから生えるんだ。葉っぱの見た目は一緒なのに、不思議だろ?」
「ほほう……こんな些細な違いを覚えているとは。私は知らなければ分からないだろうな」


 芯から感心してサイラスが二枚の素描を見比べる。こんな葉の付け根のことなど、きちんと区別して描くことができる観察眼の持ち主はどれほどいるだろうか。
 そういった、敏感な目を持ち合わせていること自体が力であることにまるで気づいていないこの青年は、なお二枚を比べながら首を捻っている。
「ただ、この同じところから生えるやつはリバーランドの、俺の村でも見るんだけど……互い違いに生えてる方は、フラットランドの方にしか生えてねえみたいなんだ。別のところで生えてるのに、見た目があんま変わらねえっつーのは変じゃねえか?」
「ふむ。いい着眼点だね、アーフェン君。確かにこの二種は同種の植物と見て間違いないが、生息地域がまったく違うというのは一見不思議なように思うよね。しかし──」


 そこでサイラスは、この二種が生物分類学的には同じ『属』にあることを図鑑を用いながら説明し、両者は同じ植物から異なる『進化』を遂げた可能性があることを解説した。
 ふだん馴染みのない言葉での説明が多かったにもかかわらず、丁寧な説明が──そしてアーフェンにも馴染み深い植物の話であったことが──功を奏したのか、講義を聞き終えたアーフェンはなるほどなあ、と大きく頷いた。


「そういうことか……! さすが先生、すげえ分かり易かったよ」
 また新たに知識を得たことで嬉しそうなアーフェンに、サイラスも満ち足りた気持ちで笑う。
「ふふ、それは良かった」
「なんか先生に教えてもらうとよ、目の前がぱーっと開けた感じがすんだよな。あと、何か自信が持てる、つーか」
「自信かい?」
「おう。なんつったらいいか……そうだな、背中押してもらってる、みたいな。俺の目指してるもんは間違ってねえんだなって気持ちになれるというか……」


 ──キミならば、いつだって間違えないけれどね
 懸命に言葉を探す生徒のこれまでを振り返って、サイラスは思う。


 アーフェンはいつだって、たとえ薬師としての生き方に迷った時でも、決して自身の目指すべき道から目を逸らさなかった。大陸中の病で苦しんでいる人々を助けたいという想いに従って、どんな時も努力を惜しみはしなかった。そう、こうしてわざわざサイラスを訪ねてくるように。
 薬師として旅を始めてからそれなりの時が経つのに、今でもその姿勢を貫き続ける彼の姿を、サイラスはとても美しく、そして眩しく思う。
 だから、サイラスはこのかわいい生徒の背中を押すことに労を惜しまないのだ。アーフェン・グリーングラスという青年なら、自ら得た知識を余すことなく活用して、彼が思っている以上に多くの人々を救えると確信しているから。
 そして、彼が書き記したこの手記もまた、未来への大きな財産になっていくだろう。手記は彼の手で別の薬師へ伝えられ、それからまた別の薬師へ、新たに積み重なった知識と経験が伝わっていく。そんな可能性を目の前にして、学者として心躍らずにいられるだろうか。
 
「なあ、先生」
 夢想に耽っていたサイラスを、アーフェンの声が呼び戻す。
 はっ、とサイラスが青い目を彼に向ければ、アーフェンはこう言ってきた。


「もし、俺が死んだらさ。この手帳の中身、本にしてくれねえかな」


 サイラスは、一瞬言葉を、思考を失った。
「……それは、どういうことかな。アーフェン君」
「え、そのまんまだって。俺が死んだら、この手帳だって使いもんになんねえだろ。それはどうかなって思っただけだよ」
 ──そういうことではないのだが。
 サイラスは何をこの青年に伝えようか思いあぐねた。この手帳は、この膨大な知識と経験の集積は、自分のような学者の手で本棚に収まるべきものではない。それだけは確かだ。
「私より、キミの方が長生きすると思うけれどね。……ほら、私はこの通り生活習慣も乱れがちだし」
「そこは自覚あんのな……。それはともかく、薬師なんていつ病気で死ぬか分かんねえよ。看病してる方に病気が移って死ぬなんて、珍しくねえしさ」
 アーフェンはあっけらかんとそう言ってのける。気負いも、恐れもない、まっさらな表情で。
「……」
 サイラスは改めて彼の、病人を助けるという道への覚悟を思い知る。
 病気の患者の治療や看病をする介護人が、患者から病が移って死ぬ。それはサイラスの知識の中にも確かにある事実だったが、そのような命を脅かす事実を隣人として常に認識しながら生きるというのは、ひとりの人間にとってどれほどの重圧だろうか。アーフェンのような若い青年にとっては、なおさら。


「先生ならきっと俺の勉強したもんを役に立ててくれるって信じてんだ。だってよ、頭悪い俺にだって、さっきみたいに分かりやすく説明できるし」
 新しく覚書の増えた手帳を、アーフェンがとん、と指先で叩く。そして彼はサイラスを真っ直ぐに見上げた。
「それに……学者ってのは、そういうもんなんだろ? 薬師が人を治すのが仕事みたいによ」
 アーフェンの、夕陽に照らされた琥珀の瞳がサイラスを射抜く。
 純粋な彼の、全幅の信頼が、その瞳には込められていた。


 ──ああ……そうだね。人の未来の為に、学者はあるのだ。
 
 知識は誰かが独占するものではない。過去から受け継ぎ、多くの人に伝えられ、未来に繋がって、人々をより高みに押し上げるためにあるのが知識だ。
 そう人に向かって言い切ったことがある。その場には旅の連れとしてアーフェンも隣に立っていて、サイラスの言葉を共に聞いていた。アーフェンは今に至るまで、サイラスの言葉をずっと覚えていたのだろう。


(なんて重い信頼だろうか。私の方が、キミが知識を受け継ぐ者になることを望んでいたのにね)


 薬師の知識を使うのは、学者の仕事ではない。
 けれど薬師の知識を広めるのは、学者にもできること。
 アーフェンはおそらく、集積した知識と経験を他人へ積極的に広めることはしないだろう。なぜなら、彼はそんな暇があるならば、一人でも多くの病人を助けたいと願うに違いないからだ。たとえその行為の結果、自らが病に苦しむことになったとしても。
 だから、アーフェンは自分へ託そうとしている。彼自身ができないことを、サイラスにならできると心から信じてくれている。
 その信頼に背いてまで、アーフェンに不相応な望みを抱くことは、できない。


「分かったよ。その時は、その手記をキミから受け取ろう」
「先生……! ありがとな」
 嬉しそうに破顔したアーフェンに、サイラスは片目を瞑ってみせた。
「けれど、もう少し字は整えてくれたまえ。私はいいけれど、きっと写本師が困ってしまうからね」
「うっ……」
 アーフェンが一転して気まずそうに眉をしかめる。その素直さにサイラスはひっそりと笑った。せめて、アーフェンが今度来た時には字の書き方を教えようか。
 彼が持つ知識と経験の瑞々しい結晶は、きっと遍く未来を照らすだろう。その光が曇らぬよう、学者として──サイラス・オルブライトとして、これからも持てる限りの力を注いでいこうと決めた。
 おそらく、自分にはそのくらいのことしかできないのだろうから。


「それはそうとアーフェン君、せっかく来てくれたんだ。酒場で一杯どうかな」
「お、先生が誘ってくれるたぁ嬉しいねえ。もちろん行くぜ!」


 願わくばアーフェンという青年が放つ光も、永遠に曇らぬことを。



学者の薬師に向けるクソデカ感情を書いてみたくて作った話です。
オルステラ大陸に生物分類学があるかはわからないんですが、生物分類学が考案されたのが1758年。サブストにあった、ビートから砂糖を生成する話が実際にあったのは1745年ということらしいので、わりと間違ってないのかもしれません。
とするとオルステラ大陸って実は18世紀なのか…?とも思ったのですが、覇者のどっかの生放送で12~13世紀くらいって言っていたのであまり気にしないで頂けますと幸いです。
pixiv公開: 2020/8/8