5.『主は告げる、新たな旅の始まりを』

 ウォームソレイス近辺に広がる山中の、普段村人たちが決して訪れない空き地に不自然に築かれていた野営地を調べていた狩人ハンイットは、不意にぞくりと何かを感じて顔を上げた。
(リンデ……?)
 脳裏に浮かぶのは相棒たる雪豹の姿。もしや、相棒に何か危機が迫っているのか。
 焦燥に駆られたハンイットは、逸る気持ちのまま辺りを見回した──すると。


「なんだ、あんたら?」
「……っ!!」


 空地に唐突に現れた三人の男と、ハンイットの目が合った。
 彼らはいずれも狩人の出で立ちだが、ひとりだけ腰に長剣を佩いているようだ。また別の狩人が、獣の角らしきものを持っている。
 抱える腕に余るほどの長く、幾本にも枝分かれしたそれには、水晶のように透き通った、木の実のような形をした珠がいくつも成っている。
 その形は、狩人ハンイットに雷の如き閃きをもたらした。
「……それは、『山の主』の……!」
「へえ、こいつを知っているのか、狩人の姉ちゃん? さては……ウォームソレイスから来たのか?」
「あ、あぁ、そうだが……」
「おや、それはご苦労なことですね。この場所を知ってるのは、ロドリゴさんだけだと思ってたんですけれど」
 長剣を佩いた男がふーむ、と頷く。しかし、彼の口から出た名前を、ハンイットたちは聞き逃すわけにはいかなかった。
「ロドリゴだって?」
「どういうことか、うかがってもよろしいでしょうか?」
 ハンイットと見知らぬ狩人たちの会話を聞きつけて、アーフェンとオフィーリアも会話に入ってくる。
 見知らぬ狩人たちは二人の方を見て、はっと瞠目する。
「……どうした」
 それは動揺だったのか、はたまた歓喜だったのか。どちらとも取れる様子にハンイットは新緑色をした瞳をすっと細くする。
 にわかに鋭くなった空気に呼応して、見知らぬ狩人たちは口の端に笑みを浮かべた。
「……まさか、私たちの商売敵にこんなところで会えるとは」
「何?」
「聞いてるぜ? ウォームソレイスの方じゃ、ロドリゴさんたちが躍起になってあんたを探してるってな……薬師さんよぉ」
「俺っ!?」
 急に名指しされて、アーフェンが素っ頓狂な声を上げた。
 見知らぬ狩人たちの意図を察して、ハンイットは自分も弓に手をかける。リンデの警告は、雪豹自身に迫った危機ではなく、自分たちに対するものだと直感した。


「困るんだよなあ。俺たちの温泉郷に必要な皮膚病の薬は、こいつだけなんだよ」
 といった男が、水晶色の実りがぶら下がる大ぶりの角を振って見せる。
「滅多に狩れるもんじゃねえからな、『山の主』は。当然だよな、こんなてきめんに効く薬をぶら下げといて、人間が目をつけないはずがねえ」
「……じゃあ、本物の『化粧水』は実在しているんですね。貴重な魔物を利用して、あなたがたは利益のために温泉街をつくった……」
「その通りだよ、神官のお嬢さん。ま、あんたの美人な顔には、この薬はいらないかな?」
 三人目の男が笑みとともに放った言葉を聞いて、オフィーリアは顔を真っ赤にした。三割は遠回しに揶揄された羞恥と──残りの七割は、不当かつ個人的な行為で温泉街と『山の主』の双方に脅威をもたらしていることへの、憤り。
「野郎……ふざけんなよ」
 薬師アーフェンも、いい加減溜まっていた鬱憤の吐きどころだと拳を固める。
 こうしている今も、ウォームソレイスには病気の治癒のため湯治や『化粧水』による治療に縋っている人が大勢いるのだ。そんな人々を弄ぶような行為を許せるはずがない。
 しかし、使命と怒りに燃える薬師を前に、長剣を佩いた狩人は冷然と笑って見せるのだった。
「お怒りは結構ですが、こちらとしても邪魔されると困りますので。……私はこう見えても元ホルンブルグの騎士でしてね、魔物と同じくらい、人を狩るのも──得意なんですよ!」
「なっ……!」
 アーフェンの鼻先にいきなり銀閃が掠める。
 唐突に切って落とされた戦闘の火蓋に、旅人たちは反応が遅れた。


「アーフェン!」
「おっと、あんたには手を出させんぜ!」
 剣を避けようとアーフェンがたたらを踏む。それを助けに向かったハンイットには、角を放り出した狩人が斧で打ってかかってきた。
 やむなく、ハンイットも腰に差していた手斧で応戦するが、相手はより戦闘に向いた斧を得物に使っており、ハンイットの手斧よりも間合いが広かった。受け止めることは辛うじてできても、攻撃に転じることができない。
(くそっ、弓なら負けないのに……!)
 しかし弓を引くには、その間相手の注意を引き付けられる、近接戦闘が得意な仲間の手助けが不可欠だ。
 今のところそれに該当するのはアーフェンだけで、彼にしたって剣士のオルベリクほど腕が立つわけではない。弓を引くハンイットと魔法が主な武器であるオフィーリアをかばいながら、三人をまとめて相手するのは困難だろう。
 せめてリンデか、テリオンか。もう一人でも仲間がいれば状況は変わるのにとハンイットが内心焦燥を覚えていると、オフィーリアの凛とした声がにわか仕立ての戦場に飛ぶ。


「あなたもホルンブルグの騎士なら、どうしてこんなことに手を貸すんですか! 人々を守るのが、騎士のあり方でしょう!」


 オフィーリアは旅の連れとして、守る剣を追求し続けていたオルベリクの背中をずっと見てきた。
 たとえ仕える国や主が滅びても、そんな生き方を貫くオルベリクこそ騎士としての正しい在り方だと、彼女は感じているのだった。
 だがもちろん、目の前の狩人に扮した元騎士はそんな言葉など一顧だにしない。
「騎士の在り方なんて、今更どうでもいいことですよ。自分の口も満たせない者にとって、誇りなどごみ屑でしかない! あなたのような神官のお嬢さんには、わからないでしょうがね!」
「ですが……!」
 八人の旅の連れのひとりとして、確かに彼女はオルステラ大陸の影の一面を、フレイムグレースの大聖堂の中にいたままでは一生分からなかった姿をたくさん見てきた。


 それでも、こんな、村一つを──それよりも大勢の人を貶めるようなことをしなくとも、人は生きていけるはず。
 このオルステラ大陸は、そんなに救いのない場所ではない。


(果たしてそう思うのが、わたしが神官だからですか)
 オフィーリアは杖を握り直す。
 まだまだ自分には力が足りないと、こんな短い会話からも思い知らされる。だけど、それでも──!
 しかし、言葉を探している暇など、本来この時の彼女にはなかったのだった。
「滅びなさい!」
 はっ、と目を上げれば、剣を大きく振りかぶった元騎士がいる。
 オフィーリアは葛藤に囚われて、完全に反応が遅れた。
(斬られる──!)
「オフィーリアッ!」
 ぎん、と鈍い音。すんでのところで、オフィーリアを横薙ぎにしようとした長剣はアーフェンの斧に防がれた。
 元騎士は即座に地面を蹴って二人から距離を取る。
 アーフェンはオフィーリアをかばうように両足を踏みしめ、構えを取った元騎士を睨みつけた。


「……確かに、生きるためには誇りなんて邪魔なもんかもしれねえ。……けどよ、それでも人として越えちゃなんねえところは、あるだろ」
「……アーフェンさん」
「たとえあんたが生きる為だとしても、俺は病に苦しむ人を痛めつけるようなことを、絶対に許さねえ」
 そう言って斧を握り締めた若き薬師に、元騎士ははあっと嘲るようにため息をついた。
「……そうですか。では、勝手になさい。生きていられれば、ね」
「何っ……!?」
 そういえば、とアーフェンは思い至る。
 今戦っているこの男と、ハンイットとやり合っている斧使いの狩人の他に、この野営地を使っていた奴はもうひとりいたはずだ。そいつは、一体何を。
 嫌な予感に、こめかみ冷や汗が伝う。まるでそれを裏付けるようにして、


「『風よ、斬れ』……!」


 元騎士の後ろに立っていたその狩人が、高々と右手を上げた。
 にわかに巻き起こる風に、やばい、とアーフェンとオフィーリアが同時に臍を噛む。たとえ目的が目潰しでも、直接攻撃でも、この風は──避けられない!
「うわっ」
「きゃああ!」
 正面から食らうものすごい風圧に、二人はどうしようもなく硬直した。顔を覆った腕を風の刃が掠め、その傷口から血が散っていく。
 斧で戦い続けていたハンイットも同じく風圧をまともに受けて、思わず固く目を閉じた。その隙を突いて元騎士が刃を再び振りかぶった刹那、


「痺れろ!」


 力ある少年の声に、カッと閃く雷鳴の音。
 同時に、三人を襲っていた風が嘘のように静かになった。
「なっ!?」
 二人の見知らぬ狩人が振り返り、三人の旅人が顔を上げる。
 彼らの視線の向こう、空地の向こうの藪から現れて雷撃を撃ったのは、痘痕の顔を晒した狩人の少年だった。
「ユリアン!」
 アーフェンが喜色を滲ませた声を上げ、ハンイットも緊張の中に安堵を覚える。
 彼がいるということは、雪豹リンデと盗賊テリオンも近くにいるはずだ。これなら有利に戦えると、彼らに助けを求めようとした時。
 ハンイットの狩人としての直感が、より大きな危険を察知した。全身をぞわりと総毛立たせるこの感覚はいったい。
「くそっ、追いつかれたか!」
「グルルッ!」
 飛び出してきた盗賊テリオンと雪豹リンデが、振り向きざまにそれぞれ悪態を吐き唸り声を上げる。その相手は他の者にもすぐわかった。
 
 藪を踏みしめてものともしない大きな蹄、木々の下枝を超えるほどの巨体、何本も枝分かれした角。
 そしてその角で生い茂る不思議な色の葉と、水晶のような透明色をたたえた、鈴生りの木の実。


「や、『山の主』……!?』
 オフィーリアが掠れた声で呟いた。ハンイットも呆然と、山羊によく似たその獣を見上げる。
 獣が生やす角は、先ほど狩人たちが抱えていた角とは比べ物にならない大きさだった。そして何より、リンデが全身で警戒するほどの威圧感。
(幻影の森の『森の主』と、そっくりだ……)
 この獣に狙われたらただじゃ済まない。ハンイットは今度こそ弓を構えるべく背中に手をやったのだが、それより早く、彼女とやりあっていた狩人の男が行動を起こした。
「いいぞ、こいつは大物だ! 囮を置いてきた甲斐があったってもんだ──行くぞ、クラウス!」
「っ、いいでしょう」
 元騎士も標的を突如現れた『山の主』に切り替え、猛然と駆けだした。
 向けられた敵意に気づき、『山の主』は悠然と首をそちらに向ける。だが、それは陽動だったのだ。
「おぉらッ!」
 斧持ちの狩人が、無防備になった側面に斬りかかった。ぶしゅ、と刃が穿ったところから血が噴き出る。
「グォオォ……!」
『山の主』が、苦痛に耐えかねて悲鳴を上げる。それを聞いて、茫然としていた旅人たちはやっと我に返った。
「あいつらを止めろ! テリオン、アーフェン!」
 ハンイットが叫び、それに応えてアーフェンが元騎士の方へ、テリオンが斧使いの方へ走り出す。
 彼女自身は弓を構え矢をつがえた、機会さえあればいつでも放てるように。
「っ!」
 まずはテリオンが、短剣を構えて斧使いの方へ跳ぶ。それを見てとったリンデも、ガウ、と一声吠えて跳びかかった。
「んぎゃっ!?」
 斧使いは雪豹の電光石火に押し倒され、それに乗じてテリオンが斧使いから得物を奪う。
 一歩遅れてアーフェンも気合一閃、長剣を取っていた元騎士へ斧を振りかぶる。
「うおぉぉっ、大切断ッ!」
「っ、邪魔をするな!」
 ぎん、と激しくぶつかる斧と剣。もともと二人の腕力は拮抗していたのだろう、鍔迫り合いのまま動かない。
 どうやら助けが必要なのはこちらだと、ハンイットはそちらの方へ矢を放った。その矢は特製のねんちゃく糸つきのもので、糸に剣を絡めとられた騎士崩れは、アーフェンに押し切られて倒れてしまった。
「傷を癒したまえ……」
 二人の狩人が倒れたと同時、オフィーリアの唱えた回復魔法の光が『山の主』に降り注ぐ。
 斧に穿たれた傷がたちまちふさがり、苦悶に喘いでいた『山の主』は平静を取り戻した。
 ──戦場に変わった山の中の空地が、にわかに静まり返っていく。


「……っ」
 誰も、声を出さない。動けもしない。警戒を解かないリンデが、一声だけ唸る。
 『山の主』は何を考えているのか、深みのある黒い瞳で一同を睥睨していた。


「……山の主よ」
 ひとり、魔物とも心を通わせる力をもつ“黒き森”の狩人ハンイットが、水晶の実りを掲げる巨大な山羊に歩み寄った。
「わたしたち人間が、あなたたちの一族を不当に傷つけたこと……これは、謝っても謝り切れるものじゃない。だが……」
 倒れ伏す三人の、利権に目が眩んだ身勝手な狩人たちを一瞥して、それからまた真っ直ぐに『山の主』の黒い瞳を見上げる。
「これからは、二度と同じことを繰り返させない。約束する」
「……」
 巨大な山羊は長いことハンイットを、そして周りで同じように己を見上げる人間たちを眺め下ろしていたが、やがてゆっくりと向きを変え──山奥へ戻るかと思いきや、一度首だけでハンイットを振り返った。
 まるで、何かを彼女へ伝えるかのように。
「……ついてこい、と言っているのか?」
「グルゥ……」
 思わずハンイットがリンデの方を見ると、どうも雪豹も同じ意見らしかった。


 ハンイットたちは気絶した狩人たちを縛り上げ、「俺はいい」と断ったテリオンを見張りに置いて、巨大な山羊のあとについて山を登って行った。
 その道中があまり長いので、フードを被り直したユリアンが不安そうに呟く。
「いったいどこへ連れて行く気なんだ……?」
 それにお気楽に答えるのはアーフェンだった。
「ま、わかんねえけどよ。ハンイットがついてけっつうんだから間違いねえよ」
「……そうなのか」
「はい。ハンイットさんは魔物や動物の心を感じられる、特別な力を持っていますから。……“黒き森”の狩人さんの話、ご存じないですか?」
「あ、ああ……それはじいちゃんから聞いたことがある。……そうか、だから雪豹を」
 といったことを話していると、突然先頭を歩いていたハンイットとリンデが足を止めた。ということはつまり、山の主も脚を止めたということだ。
 どうした、とアーフェンが聞くより前、ハンイットが珍しく戸惑ったように声を上げた。
「お、おいアーフェン……あれを見ろ」
「んあ? 何だ」
 そうしてぞろぞろとみんながハンイットに追いついてみると、彼女たちの目の前には信じられない光景が広がっていた。


「お、温泉……!?」
 深い森を抜けた向こうに、ほかほかと白い煙を上げて広がる水面はまさしく『温泉』であった。


 だがウォームソレイスの温泉と異なるのは、水底が見えるほど透き通っていることと、それからあの卵の腐ったような妙な匂いがしないことだ。
 そして、山の主はいつの間にか一行の前から姿を消していた。それにも気づかないほど呆然と目の前の景色を見つめていると、ハンイットは魔物の意図に気づいた。
「もしかして、これが伝説の……」
「え?」
「ユリアン、この温泉で顔を洗ってみるんだ」
「……!」
 一行の脳裏に、ウォームソレイスの石像に語られた『山の主』の伝説が蘇った。
 痘痕に苛まれたある狩人が、魔物に案内された先にあった温泉で顔を洗うと、きれいに痘痕が治ったという物語。
 ユリアンが信じられない思いで、よろめく足取りで温泉の際まで進み出る。片膝をついて手をそっと温泉に差し込むと、水晶の如く透き通った湯が彼の手を優しく包んだ。
 やはり半信半疑のまま、彼は掬った湯で丁寧に顔を洗う。すると。
「あ……」
 顔を湯でひと撫でするたび、手のひらに触れるごつごつとした痘痕の感触が消えていく。それは、彼が何年も味わったことのない感覚だった。
 ひとしきり洗い終えたところで、ユリアンはおそるおそる後ろを振り返る。フードを取った彼の顔を見た旅人たちは息を飲み、そして次には心からの笑顔で祝福してくれたのだった。


   ◆


 かつん、かつんと、屋敷のエントランスホールに重々しい靴音が響く。
「この八年……あなたが生きているという噂は聞きませんでした。烈剣の騎士エアハルトの噂も」
 元ホルンブルグの騎士アルノルトは、ゆっくりと剛剣の騎士オルベリクへ歩み寄った。
 オルベリクは腰に下げた大剣の柄に手をかけず、ただかつての同僚のまなざしを迎え撃つ。
 二人の間の距離がちょうど剣の間合いふたり分のところまで詰められたところで、アルノルトが兜の下から青い眼をオルベリクへ向けた。その眼には、今やごうごうと燃える火があった。


「どこで、何をしていたのですか、……あなたは」
「……流れていた。数年ほど、コブルストンで用心棒の真似事もしたが」
 アルノルトはオルベリクの答えを聞いて、ふっと笑みを浮かべた。青い眼に燃える昏い炎は、そのままに。
「そう、ですか。……あなたらしい。きっと、村でも親しまれ、慕われていたのでしょうね。……ホルンブルグ在りし日の、騎士団でのように」
「お前は違うのか?」
「……」
 アルノルトは答えない。ただ、オルベリクの後ろで成り行きを見守るトレサの目には、彼の笑みがどこか自嘲的な色を帯びているように映った。
「それじゃ、あなた……今自分が何をしているのか、分かっているのね」
 一歩前に進み出たプリムロゼが言う。彼女の声は、トレサがどきっとするほど冷たく厳しいものだった。
「ご自分の雇い主が、何をしているのかも」
 畳みかけるプリムロゼに、く、とアルノルトが喉の奥で嗤う。
「わかっているさ。……だが、俺にはここしかないんだ。何しろ、俺にはこの剣の腕しか頼れるものがない」
「でも、それは──っ」
「いい、プリムロゼ」
 追及しようとしたプリムロゼを、オルベリクが手を上げて制する。
 プリムロゼがぐっと言葉を呑んで下がると、オルベリクは上げたその手を、今度は腰に下げた大剣の柄尻に添える。
「アルノルト。お前をここで倒せば、商人ロドリゴの居場所を教えてもらえるか」
「……いいでしょう。どのみち剛剣の騎士と渡り合える者は、この屋敷には他にいやしませんから」
「わかった。……ならば」
 オルベリクがじゃらっ、と音を立てて大剣を抜き放つ。彼の深い錆色をした瞳が鋭く、目の前の元同僚の姿を捉える。
 同時に、アルノルトも腰に提げていた剣を抜き、青い眼が傲然とオルベリクを見据えた。
 二人の気迫に押され、プリムロゼとトレサはさらに一歩下がる。


「さぁ──勝負だ!」


 まずアルノルトが床を蹴ってオルベリクへ斬りかかる。
 彼の剣の方がオルベリクの大剣より軽く、間合いも狭い。先手を取るのは必須だった。
 だがオルベリクがおとなしく攻撃を受けるはずもなく、すんでのところで体を逸らして直撃を回避する。
「ぬんッ!」
 すかさず反撃に出るオルベリクだったが、やはり大剣ゆえの剣の重量が響き、攻撃が失敗したとみたアルノルトの回避の方が速い。
「腕は鈍っていないようだな、アルノルト」
「……っ」
 無言のまま切り結ぶ二合目、やはりアルノルトの刃はオルベリクの肉体に決定的な一撃は与えられないが、一方でオルベリクの反撃も届かない。
 さてどうする──とオルベリクが一瞬思考を巡らせた瞬間、アルノルトの青い眼がぎらりと光った。
「ぉああッ!」
「なっ──」
 オルベリクの腹に強烈な衝撃が走る。アルノルトは唐突に蹴りを繰り出したのだ。
 痛みと驚愕で体の支えを失ったオルベリクは、それでもかろうじて受け身を取りながら床へ倒れた。そこへすかさずアルノルトの剣が飛んでくる。
「ぐ……っ」
「オルベリクさん!」
 トレサの悲鳴のような呼び声が響く。オルベリクは床を転がって、辛うじて剣の一閃を回避した。プリムロゼが反射的に短剣を構えたが、アルノルトの追撃はなかった。


 オルベリクが床から身を起こし、大剣を支えにして立ち上がる。
 げほ、と咳をして蹴られた内臓の違和感を逃がしながら、掠れた声で呟いた。
「……そのやり方、騎士団時代には、なかったな」
「卑怯だと、罵りますか」
「いいや。……強くなったな、アルノルトよ」
 オルベリクの言葉にはいたわるような響きすら含まれていて、それを聞いたアルノルトは初めて傷ついたような表情を見せた。
「っ……あなたと、いうひとは」
「来い、アルノルト」
 そのときトレサは、一瞬だけ屋敷のエントランスホールに、ハイランドのある城の情景が重なったような気がした。
 石を積んで作られた塀の、内側に設けられた広場で二人の剣士が対峙し、その周りで彼らの仲間が手に汗握って観戦している。
 二人の剣士は顔を上げ、誰が合図をしたわけでもないのに、同時に互いに向かって駆け出した。


「おおおおお!!」
「あああああ!!」


 二振りの剣がぶつかる、まさにその瞬間。
 ──オルベリクは、剣士の常識では考えられない行動に出た。


「うあぁっ!」
 アルノルトの剣が軌跡を描いたその場所に、ぶつかるべき剣はなかった。
 なぜならその瞬間、オルベリクは自分の大剣を捨てていたからだ。
「っ!?」
 アルノルトが剣を振り抜いた刹那、オルベリクはアルノルトの間合いのさらに内側へ飛び込み、それまで使っていなかった得物──短剣を鎧の隙間へ的確に突き立てた。
「うあ……っ!」
 低い呻き、そして突き立てられた刃から迸る、生命力を示す碧色の光。光は短剣を通じて、オルベリクの体へ吸い込まれる。
 盗賊の心得によってオルベリクが身に着けた特技【ライフスティールダガー】が、アルノルトへ致命的な損傷を与えたのだった。
 生命力を吸われたことで立ち上がる力を失ったアルノルトが、がしゃりと音を立てて床に膝をつく。
「オル、ベリク……さん……」
「……卑怯だと、罵るか?」
「……いえ、とんでもない。……あなたも、心身を賭して、戦って……きたんですね」
 アルノルトが力なく微笑む。その青い眼に、もう昏い炎は燃えていなかった。
 彼に今や戦う意思はないと読み取ったオルベリクは、すぐさま後ろを振り向いて連れの二人を呼ぶ。
「トレサ、薬持ってるか!?」
「あっ、はい!」
 呼ばれてはっと我に返ったトレサが、リュックの肩紐を外しながら駆け寄る。怪我人のすぐそばに跪いて、荷物から止血用の薬草と体力回復のブドウといったものを出す。
 そうして治療の準備ができたのを確認したオルベリクは、アルノルトに刺さっていた短剣を引き抜いた。
 トレサが傷口の応急手当をすると、アルノルトはふうとため息をついて、トレサに穏やかな声音でありがとう、と礼を言った。
 そんな姿は、たとえ今は悪い商人の用心棒でも傷ついた姿でも、彼は確かに歴史も格式もある国に仕えた立派な騎士だったのだと、トレサに思わせた。
 それから憑き物が落ちたような顔で、彼はオルベリクにこう言うのだった。
「……本当は、私はあなたを呪うつもりだったんです、オルベリクさん」
「何……?」
「あなたが生きていると、知っていたら……あなたがホルンブルグにいてくれたなら、私は再び王家のために剣を取れたのに、とね」
「……」
 オルベリクはいっとき、答えるべき言葉を失った。


 ──ホルンブルグは内乱によって、もっと正確にいうならば、内乱を唆したある傭兵団の差し金によって滅んだ。傭兵団の尖兵だった、烈剣の騎士エアハルトが王を討ったことが決定打となって。
 しかし当時、王の血縁はまだ何人か生き残っていたし、オルベリクにはその誰かに剣を捧げて、ホルンブルグを復興させるという手も確かにあったのだ。しかし、オルベリクはそうしなかった。
 一度剣を捧げた相手を、守るべきものを守れなかったことへの後悔の念が深く、彼に剣を振るう意味を失わせていたから。
「……そう、だな。俺はあのとき、他に守るべきものがあったのだと、気づけていなかったのかもしれないな」
 王が弑され、騎士団が瓦解し、それだけですべてを失ったと思い込んでいたのかもしれない。
 その剣に守られていた、もっと多くの、たとえばコブルストンやウォームソレイスのような村で暮らしていた無辜の民の存在に思い至ることなく。
 八年後の旅路を通して、そういったごく普通の人々の温かさにじかに触れたからこそ、やっとこの剣が、八年前のあの時守るべきだったものを知ったような気がする。


 俯くオルベリクに、アルノルトがふっと微笑んだ。
「それだけ、あなたの王への忠誠は深かったということですよ。……だからこそ、私たちはあなたを慕い……あなたについて、王を、国を守るべく剣を取っていたのですから」
「……」
「ああ、でもこれで……すっきりしました。あなたの剣を知ることで、あなたも苦悩の末にここまで辿り着いたのだと……知ることができました。ありがとうございます」
「……いや、こちらこそ。お前のおかげで、俺はまたひとつ成長できた」
 オルベリクが手を差し出し、アルノルトがそれを握り返す。そして二人は心からの笑みを交わした。まるで、在りし日に騎士団の訓練で試合をした時のように。
「──良い試合だった。感謝する」


 用心棒アルノルトが言うには、商人ロドリゴは二階の執務室にいるはずだという。
 それを聞いたトレサたちは、さっそくエントランスホールに設けられた階段を駆け上がった。その先頭を走りながら、トレサは心に強く誓う。
(プリムロゼさんとオルベリクさんが作ってくれた商機よ、絶対に無駄にしないんだから)
 小さな山村に過ぎなかったウォームソレイスを立派な温泉郷に仕立て上げた、その目の鋭さと商売の腕前は尊敬すべきものだ。
 だからこそ、この商売が不当な目的で行われているのなら見過ごせない。それが、人々を傷つけるものならばもっと許せない。
 だってそんなことをしなくても、温泉は、このウォームソレイスという村は──。
「あれね、きっと」
 プリムロゼが扉を指し示したので、トレサははっと物思いから覚める。
 確かに、アルノルトから教えてもらった位置とその扉は一致するようだ。足を止めたトレサの肩を、プリムロゼが軽くつついて言った。
「準備はいい、トレサ?」
「もちろん!」
「ロドリゴ自身は大した腕ではないとは思うが……油断はするなよ」
「わかってるわ」
 オルベリクの忠告にもしっかり頷いて、トレサは扉に手をかけた。もちろん、この際ノックなんて必要ない。


「失礼しまーす!」


 敢えてお客の呼び込みをするときのような高らかな声とともに、トレサはお目当ての人物へと続く扉をばんと開け放った。
 果たして、執務室というには広すぎる部屋の中央に据えられた大きな机の前に、栗色の豊かな頭髪と髭、それからいかにも高級な素材で作られたのだろう赤いコートの目立つ、あの商人ロドリゴが傲然と座って、招かれざる客を出迎えたのだった。


「……来てしまわれましたか」
 昨日訪ねた時とはまるで異なる、あからさまに苦い顔をして商人ロドリゴが呟く。忌々しそうなその視線を、トレサは胸を張って受け止めた。
「ええ、来てやったわ。あなたに聞きたいこと、たくさんあるの」
 挑戦的な笑みすら見せる少女を見て、商人ロドリゴはやれやれ、とため息をついた。
「……あの役立たずめ」
「本当、三流の台詞ね」
 すかさず棘を刺すプリムロゼにも、ロドリゴは侮蔑的な視線を向ける。
「お前のような下賤の踊子にそう言われる筋合いは無い。黙り給え」
「あら。その下賤の踊子に、あなたの部下の薬師は鼻の下を伸ばしてたわよ。もう少し教育が必要なんじゃない?」
「……ちっ」
「その薬師さんがね、『特別』な化粧水はここにあるって言うわけ。ねえロドリゴさん、『特別』って何のことかしら? ……どうして、特別なものなんて作る必要があるのかしら。
 だって、ここの温泉には肌を綺麗にする力があるんでしょ?」
「もちろんだとも」
 迷わずロドリゴがそう返したのを聞いて、トレサは鼻白んだ。
(この人、まだしらを切るつもりなのね)
 ロドリゴは血走った目で一行を睨みつけ、何度も言ってきたのだろう言葉をもう一度繰り返す。
「一週間だ。一週間我々の宿の温泉で湯治し、我々の提供する化粧水を使用すれば、どんな肌の悩みもぴたりと治る。嘘だと思うなら、既定のリーフを払って滞在するといい。そうすれば──」
「それは、一週間経てば『特別』の化粧水をそのお客さんにあげるからでしょ?」
 もう我慢できないと、トレサは商人の口上を遮った。
「あたしたち、もう全部調べてるんだから。その『特別』な化粧水は、温泉水で作ってるんじゃない。──皮膚病を治したっていう『山の主』の魔物の力なんでしょう?」
「……それが、どうしたというんです? たとえそうであったとしても、我々は確かに治療の手段を提供しているんだ。リーフさえ払えば、確実に治る。何の問題がある?」
「問題? 大ありよ」
 あくまで言い逃れをする気なのだろう。そんなロドリゴを、トレサは精一杯睨みつける。
「薬で皮膚病を治せるっていうなら、素直にその薬を売ればいいだけの話でしょ。なのに、わざわざ回りくどいやり方して、温泉にも肌を綺麗にするなんて偽の効果を謳って、挙句その温泉を詰めただけなんていう偽物の品まで売りつけて──そのうえ、まともな治療をしようとした薬師を襲ってまで、自分たちがしてることを隠そうとして。そのやり口が大問題だっていうのよ!
 あなたのしていることは商売なんかじゃないわ。ただここに来ている人たちから、不当な手段でお金を巻き上げてるだけよ!」
「……フッ、さすが若いだけあって青いことを言いますね」
 ロドリゴは、もはや自分のしていることを隠すつもりもないようだった。
 まるで聞き分けの無い子供を諭すように、商人は懇切丁寧な口調で語る。
「いいですか、お若い商人さん。後学のために教えてあげますが──商売なんてものはね、売る者の方が圧倒的に立場が上なんです。売る者が白といえば白になる、それで泣くものは大勢いるでしょう。
 だがね、私はきちんと対価を提供しているんですよ。そのうえ、私はこんな辺鄙な山村に新しい価値をつけて売り出して、村の者たちにも利益をもたらしている。どうです、完璧な商売でしょう? どこに悪いことがあるというんです」
「っ……そんな嘘っぱちの価値なんて、かえってこの温泉地の素敵さを損なっているだけだわ!」


 トレサの脳裏に、昨日一日この温泉郷を歩いた記憶が蘇る。
 疲れた脚を癒す足湯に、広場を行きかう人々の活気、この地ならではのおいしい特産の品。温泉にゆっくり浸かることこそまだできていないけれど、それでもすごく楽しかった。
 たとえ温泉に特別な薬効がなくとも、オルステラ大陸中歩いたって他の場所では体験できないことそれ自体が素敵な宝物だと、トレサは心から思うのだ。


「そんなことしなくたって、温泉と、この村の景色と、それに温泉卵だけで十分ウォームソレイスは素敵な場所なんだから!」
「……そうですか。分かっていただけないなら、仕方ない」
 ロドリゴは深くため息をついたが、その顔には何か自信のようなものが宿っている。
 何かする気だな──商人の表情からそうと察知したオルベリクが、素早く大剣の柄に手をかけた。
 それに気づいてか気づいていないのか、ロドリゴはなおも傲然と旅人たちに語りかける。
「とはいえ、あなた方の言うことに証拠は何一つないわけだ。たとえあなた方が『特別』な化粧水の秘密に気づいたとしても、よそ者であるあなた方の言うことを信じる人が、どれだけいますかな?」
 言われて、トレサは歯噛みした。
 確かに『今は』証拠が何一つないのだ。今ハンイットたちが山で探している『特別』な化粧水を作るための材料が本当にあるのかも分からない以上、実はあなたたちは騙されていたんです──といって、受け入れてくれる人がどれだけいるだろう。
 トレサたちだけでは村人を説得できない。そんなこと、初めから分かっていた。だからこそ。


「なら、この人たちの言うことならどうかな?」


 ロドリゴの問いに答えたのは、涼やかな男の声だった。
「失礼するよ、ロドリゴさん」
 半開きだった執務室の扉を開いて入ってきたのは、トレサたちの旅の連れ──学者サイラスだった。
「なっ、何だお前は……ッ!?」
 唐突な闖入者に怒鳴りつけようとしたロドリゴは、直後言葉を失った。
 なぜならサイラスの後ろには、ロドリゴもよく知る人々が並んでいたからだ。
「……ロドリゴさん、聞かせてもらったよ」
「私たちを、騙していたのですね」
「……こんなことだろうと思ったわい」
 ウォームソレイスの住民──村長に、『水晶の実り亭』と『黄金色の鹿角亭』の店主、『山の主』の伝説に通じた老人など──の冷たい目に、街をひとつ騙していた商人ロドリゴは初めて青ざめた顔を見せるのだった。


   ◆


 これは、あとで旅人たちが『水晶の実り亭』の女主人から聞いた話だ。
 商人ロドリゴはウォームソレイスの温泉よりも先に、ウォームソレイスで『山の主』と呼ばれていた貴重な魔物『水晶果の山羊』の存在を知っていたのだという。
 山羊の角に生える花や葉、そして果実に高い治癒効果があることを知った商人は、ハイランドの山中で魔物を探し、その過程でウォームソレイスの村に息づく『山の主』伝説と、そして何より村で親しまれていた温泉の事を知った。そしてそれらの要素を、自身が成り上がるための商売の種としたのだった。
 伝説から魔物は近くにいると確信したロドリゴは魔物を探し続け、ついに村人が立ち入ろうとしない場所で水晶果の山羊を発見した。
 だが非常に魔物の個体が少なく、商売を続けるには狩る数を絞るべきだと判断。できるだけ魔物を利用する範囲を制限し、かつリーフはしっかりと儲けるにはどうしたらいいか──ということで辿り着いたのが、あの一週間割引制度だったのだ。
 この制度に『水晶の実り亭』が入れてもらえなかったのは、宿の名前からして、この宿の主人が『山の主』伝説が水晶果の山羊の力を曲解したものである、ということを知っているから──そして、ロドリゴのしようとしている商売の種を露見させてしまうことを恐れたから、という。


「んなこと言ってもね、あたしも全然そんな魔物の事知らなかったんだけどね」
 と、当の女主人アンは言っていたが。
 真実を記していたはずの石像のホルンブルグ古代文字は今や村人たちの誰も読めなくなっていたし、伝説自体も口伝されるうちにどんどん歪んでいったようだと、学者サイラスは推測している。
 また商人ロドリゴは、コーストランドの没落貴族の生き残り、という噂もあるそうだ。確かな目利きと商売の腕があるのに、不当な手段を取ってまでリーフを稼ごうとしたのは、かつての栄華ある暮らしに戻りたかったのだろうと思われる。


 かくして、ひとりの商人の欲望のために翻弄されたウォームソレイスは、八人の旅人と一匹の雪豹によって、蔓延っていた不正が明るみに出たのであった。
 村人たちは彼らの働きに概ね感謝し、彼らの労をねぎらってくれた。
 特に、痘痕を治して帰ってきた狩人ユリアンに対する宿屋の娘ハンナの喜びようは大きく、その夜ハンナは痘痕を治してくれたお礼にと、めったに出さない羊肉の茸ソースかけステーキというご馳走を、旅人たちに振舞ってくれたのだった。
 そして、旅人たちが山や屋敷で奮闘していた間に、魔物によって壊された『水晶の実り亭』の露天風呂の塀の修理が終わったということで、八人の旅人の女性陣はウォームソレイスに着いて以来初めて、やっと温泉に入ることができたのだった。


「ふわぁ……気持ちいい~~」
 温かな泉に全身を浸した途端、トレサは体中から力が抜けていくのを感じた。
「すごいですね……足湯も気持ちよかったですけれど、これは……」
「一日中山を歩いた身には効くな……」
 オフィーリアもハンイットも、呟く声がすっかりふわふわと力が抜けてしまっている。
 寒い日に潜る羊毛や羽毛で作った布団のぬくもりと似ているようで、全然違う。卵が腐ったような独特な匂いもまったく気にならないほどの温かさ心地よさである。
 いつも上品な振る舞いをするプリムロゼですら、ほうっとため息をつきながら浮かべる微笑みが、どこか気が抜けているように緩い。
「こんなに気持ちいいんじゃ、別に肌を綺麗にするなんて効果がなくたって、十分価値があるわね……」
「その通りよ……あぁ、いいわ……」
 ぷくぷく、とトレサは温泉に鼻先まで沈んで息をつく。こうしてのんびりしているだけでもここは本当に素敵な場所だと、強くそう思った。
 ふと、ロドリゴはこの温泉にちゃんと入ったことがあるのだろうかと考える。
 それとも、入ってみたとして、お金儲けのことしか頭になかったら、温泉の素敵さ──商人が『価値』と呼ぶべきものに気づけないのかもしれない。
(あたしは、絶対そうならないようにしよう。品物の価値は、リーフだけがすべてじゃないってこと、忘れないようにしなきゃ)


「──『山の主』さんが案内してくれた温泉も、こんなに気持ちいいんでしょうかね」
「あら、あなたたちその伝説の温泉をじかに見たんでしょ?」
「えっ、入らなかったんですか?」
 オフィーリアとプリムロゼの話に、トレサは物思いにふけっていたことも忘れてざばっと温泉から顔をあげた。
 トレサの問いに答えたのはハンイットだ。
「とても入る気にはなれなかったよ。山の主はわたしたちの傷のことを気遣ってくれたんだろうけどな」
「ユリアンくんの肌の病気が治って……それでわたしたち、なんだかあの場所は侵しちゃいけないところのような気がしたんですよ」
 オフィーリアは話しながら、『山の主』──おそらく、彼が本当に『水晶果の山羊』の種族の主だったのだろう──が連れていってくれた、あの水晶のような輝きをたたえる泉を思い浮かべていた。
 治癒の力を秘めた果実が溶けだした結果作られた、あの奇跡の泉は山の生き物にとっても特別な場所なのだと思わせる、そんな神聖な雰囲気をオフィーリアは感じていた。
「アンさんとも、ユリアンくんのおじいさんともお話して、あの温泉の力は本当に必要な人のためにとっておこうってことになりましたし」
「そうね。サイラスが言ってたけど、結局温泉も『山の主』の作った実の力で治癒の効果を持ったんだって話だし……おいそれと入るのは躊躇われるわね」
「伝説は伝説のままがいい、ということだな。実在すると知られたら、今度こそ『山の主』は滅びてしまうかもしれない」
「うーん、そうですよね。でも、その伝説のお話だけでも、やっぱり素敵だと思うわ」
 うん、絶対にそう! ひとりで頷くトレサを、他の三人は微笑ましそうに見つめるのだった。


 それから女性四人は、その日あった冒険のことを互いにおしゃべりした。
 話はいつまでも尽きず、その間温泉が彼女たちをゆったりとあたため、晴れた夜空の星たちは彼女たちの話に耳をそばだてるように瞬きをする。それはとても楽しい時間だった。
 ひとしきり互いの冒険を語り終えたところで、プリムロゼがふう、とため息をつく。
「ねえ、楽しかったわね。ここで過ごしたこと」
「そうですね」
 オフィーリアがにっこりと笑って同意する。トレサもハンイットも、気持ちは同じと言うように大きく頷く。
「そりゃ、大変な事はいろいろあったけど……ウォームソレイスにあるもの、見て楽しくって、わくわくしたもの!」
「あぁ。『山の主』伝説は興味深いものだったし、それに温泉卵も美味しかった」
「うふふ、ハンイットさんとってもおいしそうに召し上がってましたもんね」
「ハンイットさんも食べたのね! あれ、本当に最高だと思うわ」
 楽しそうに顔を見かわす三人を見て、プリムロゼもにこりと笑う。踊子であることも、復讐者であることも忘れて、少女のように。


「ふふ。……いつまでもこうして、みんなで楽しく過ごせたらいいのにね」


「──プリムロゼさん?」
 彼女の呟きに寂しげな響きを感じ取って、トレサは顔を上げた。
 プリムロゼはごめんなさい、と首を振って、照れたように言葉を続ける。
「そうはいかないことは分かってるのよ。みんなそれぞれ自分の為すべきことがある。だから、いつかはこの旅にも終わりは来るわ。
 ……でも今がすごく楽しいから、そう思うとなんだか寂しくなっちゃって」
「プリムロゼ……」
「……そうですね。わたしもいずれはフレイムグレースに戻って、神官のお仕事をしなきゃいけませんから。……プリムロゼさんの気持ち、すごくよく分かります」
 オフィーリアの、そして他の三人の瞼の裏に、ウォームソレイスでの冒険が──そしてこれまで八人で歩いてきた旅路が蘇る。


 彼女たちは、そしてともに歩んだ彼らも、最初はそれぞれの目的を胸に旅立った。それが何の因果かたまたま交わって、それでここまで一緒に歩いてきたのだ。
 それぞれの旅路が果てを迎えた今、いつまでも八人でいる意味はほとんどなくなってしまった。だからいずれは別れの時が来ることを、旅人たち皆が意識していた。
 初めはばらばらだった八本の道が、再び分かれない理由はない。


「……でも、お別れしたって、ずっと会えない訳じゃないでしょ?」
 近い未来を急に実感して、寂しくなってしまったトレサが縋るように言う。
「また、いつかみんなでウォームソレイスに来ようよ。それで、また温泉卵食べて、温泉に入って、お話したいわ。ね、約束!」
「ふ、そうだな」
 ハンイットがぽんぽん、とトレサの頭を撫でた。
「トレサの言う通りだ。もう一度、みんなでここに来よう。みんなが同じ気持ちなら、きっとできる。わたしたちはもう、友人なのだから」
「そうですね。皆さんとお会いするためならわたし、お仕事もなんとかします」
「ええ、私もそうする。……約束しましょう、みんなで」
 四人の女性は互いに手を握り合った。温泉の温かさにも増した互いのぬくもりと思い出は、その後も長いこと彼女たちの助けとなり、導きとなるのだった。


 旅人たちは翌日もウォームソレイスの『水晶の実り亭』に滞在し、それぞれの時を過ごした。
 薬師アーフェンは山から持ち帰った『山の主』の角と、ロドリゴの屋敷に残されていた化粧水を使って宿場街の患者の治療に尽力し、おおいに感謝された。
 剣士オルベリクは再度商人トレサともにロドリゴの屋敷を訪問し、用心棒アルノルトを見舞うとともに今後の温泉郷の運営と自警について話し合った。
「『山の主』を狩る者はもういなくなったから、魔物の襲撃もじきに止むと思うよ」というのは、学者サイラスの弁。魔物が散発的にウォームソレイスに来ていたのは、近年急に狩りの対象にされて気が立っていた山の主こと『水晶果の山羊』種が、他の魔物たちの住処を侵していた結果だということだ。
 ロドリゴについては、たとえ不当な行為に手を染めていたとしても、彼の商売の腕前自体は確かなものなので、今後はウォームソレイス村長の監視の元で温泉郷運営に携わってもらうという話になっていた。


 そうしているうちにあっという間に時が過ぎ、とうとう八人と一匹の旅人たちがウォームソレイスを去る時が来た。
 新たな旅路を求める彼らを、『水晶の実り亭』の親子、それから痘痕がすっかり治ったユリアン、そして村長も見送りに来てくれたのだった。
「世話になったな、アンさん」
「とんでもないですよ、オルベリクさん。おかげさまで、村はいい方向に進めそうだよ」
 オルベリクと『水晶の実り亭』の主人が握手を交わし、その隣で娘のハンナが旅人たちに向かって頭を下げる。
「皆さん、本当にありがとうございました。……また来てくださいね」
「おう、また来るぜ。患者の様子も見たいしな」
「……気が向いたらな」
「もう、テリオンさんたらまたそういうことを……」
「ふふっ、照れ隠しなのよ。ごめんなさいねハンナさん、分かりにくい男で」
「おいっ」


 そんな会話の横では、狩人ユリアンが雪豹リンデの頭を撫でながら、ハンイットにこれからのことを伝えていた。
「今度、おれが定期的にあの温泉を見回ることになったんだ。本当に病気で困ってる人が来た時に、対処できるように」
「そうか。あなたならきっといい仕事をする、頑張れよ」
「うん、ありがとう。……おれ、少しだけ自信がついた気がするから」
 といって照れたように笑うユリアンを見て、リンデも嬉しそうにガウ、と鳴く。
 そして、一行とは初めて顔を合わせる村長が、トレサの前に歩み出て言うのだった。
「トレサさん、といいましたね。商人の娘さん」
「え? あ、はい」
「ありがとうございます。……あなたがロドリゴに向けて言ってくれた、このウォームソレイスは、そのままでも十分に素敵で価値があるという言葉に、大いに励まされました」
 村長はトレサに頭を下げると、戸惑うトレサへ言葉を続ける。
「ロドリゴのやり方を続けられなくなった以上、この村の商売はこれから苦しくなるでしょう。まあそれは我々の自業自得ですから、仕方ありませんが……けれど、あなたの言葉を支えに、これからも頑張っていけると思います。
 ……また、ぜひこの村へ来てください。今度こそ、心からのおもてなしをさせていただきますよ」
「そんな、あたしは好き勝手言っただけで……でも、嬉しいです。また、絶対に来ます!」
 トレサは村長の言葉を、心からの笑顔で受け止めた。
 きっと、今度来た時にはもっと素敵な場所になっているだろうと、真摯な彼の言葉から確信する。何より商人トレサの目利きでは、この温泉郷は誰かにとっての、いや大勢の人にとっての『宝物』になれるはずなのだから。


 こうして、八人と一匹は温泉郷ウォームソレイスを旅立った。同時に、温泉郷そのものも新たな旅立ちを迎える。
 彼らの歩みを導くように、ウォームソレイス近辺の山の片隅では、水晶の輝きが静かに灯り続けているのだった。


   【了】



 

2021年7月18日に発行した同人誌を再録しました。
執筆当時は長引く体調不良の中、初めて挑戦する謎解きアクションギミック入り長編小説の難しさに喘ぎながら書いていたのですが、結果的には当サークル史上初めて(そしておそらく最後であろう)増刷がかかることになりました。
当時楽しんで下さったかたがたも、そして今読んで下さったみなさまも、本当にありがとうございました。