薬瓶があればそれでいい
日暮れなずむニューデルスタの寄港場で、今日はここでキャンプにしようと言ったのは神官テメノスだった。その提案に踊子アグネアはすぐに賛成の意を示す。この旅団の中心たる彼女が是と言えば他の旅人たちに異議を唱える理由はなく、彼らは黙々とキャンプの準備を始めるのだった。
そんな彼らを前に、薬師キャスティは呆然と立ち竦むばかりだった。視界の端には沈みゆく太陽で真っ赤に染まる海が映っていたのに、瞼の裏では禍々しい紫の雨が降り続けていた。
キャンプでの夕食を終えても天気は変わりなく、食後の薬茶を両手に抱えたキャスティの頭上には星々が輝いていた。
地面では焚火が明々と燃え、その周りをアグネアがかろやかに踊っている。パルテティオは口笛で彼女の踊りを盛り上げ、ヒカリは剣の手入れをしながら横目でアグネアの踊りを見ていた。オーシュットは干し肉を相棒にあげながら自分もかじり、オズバルドは黙って焚火の灯りで本を読んでいる。いつもの夜の光景だ。
ソローネは崩れかけた石垣に腰かけながら、足先だけアグネアを真似てステップを踏んでいるようだったが、不意にキャスティの方へ顔を向けた。キャスティがぼうっと見つめていたのに気づいたのだろうか。ぱちり、と目が合い、ソローネが薄く笑った。かと思うと、また唐突に彼女は顔をアグネアの方に戻す。
誰かが自分の隣に腰かけたのに気づいたのは、そのときだった。
「やれやれ、相変わらず賑やかですねえ」
「……テメノス」
口調こそ皮肉めいていたが、焚火に照らされた神官の横顔は案外柔らかい。少しほっとした自分に、キャスティは気づいた。
「旅の夜が楽しいのは、いいことだと思うわ。私も見ていて楽しいもの」
「そうですか? ……それならまあ、良いですけれど」
テメノスの、銀灰色をした瞳がぱちぱち、と瞬いた。茶目っ気のある仕草に思わずキャスティの顔に微笑みが浮かぶ。随分久しぶりに笑ったような気がした。
「気を遣ってくれたのね、テメノス。ありがとう」
人なきヒールリークスの村、そしてリフィア山で。記憶の残滓であったかつての仲間マレーヤとの対話を経て失った記憶を取り戻す最後の旅路を、キャスティはついに終えた。記憶を、そして為すべきことを見出した今は前に進むしかないと思っていたものの、こうして足を止めてみると、思い出したことを整理する時間は確かに必要だったと気づく。
「本当に人のことを見ているわね。とても敵わないわ」
「フフ、それが仕事なもんでね。……それに」
「……それに?」
問えば、テメノスは珍しく言葉に詰まった。そもそも、言おうとしたことを途中で躊躇うこと自体、彼らしくなかった。
答えないテメノスをキャスティがじっと見つめていると、やがて彼はやれやれ、とため息をついた。
「……大人というものは、狡い生き物だ」
「え?」
「他人にはお説教のように助けを求めろというのに、いざ自分のことになると誰にも言おうとしない」
「……」
キャスティの胸の奥に、わずかに痛みが走った。キャスティは取り戻した記憶のこと──己が率いていたエイル薬師団の仲間が何をしたのかを、まだ誰にも伝えていない。その必要はないと思ったから。
しかし同時に、テメノスの今の言葉は諸刃の剣であることをキャスティは悟っていた。
「それは、ご自分のことを言っているのかしら? テメノス」
わざとそう返せば、神官は皮肉な微笑を浮かべてみせた。
「……ははっ、これは一本取られましたかねえ」
「冗談でしょう、あなただって自分で分かっているくせに」
「まあ、そうですけれども」
旅路の途中で無理はするなと、困ったことがあれば話してくれと、互いが互いに声をかけたことがある。けれどここまで、結局二人は心の内を互いに話したことはない。
「私は薬師だから、人のことは放っておけないのよ。ただそれだけ」
だが、それでもいいとキャスティは思っていた。傷ついても大丈夫、薬を作る手と歩み続ける足が動く限りは。それにこうして気遣ってくれたり、いつも通り接してくれる仲間がいるのだから。
「自分の傷くらい、自分で治せるわ。だから大丈夫よ」
たとえ今は立ち止まっていたとしても、明日の朝には歩き出せることが分かっているから。
そうだと、思っていたのに。
「ですが、薬師にも癒される権利があります」
テメノスの銀灰色の瞳がキャスティを射て、キャスティは息を飲んだ。胸の奥にまで届いた衝撃は、痛みとはまた違う種類のものだった。
いつも飄々と物事を躱す彼の、こんな表情を見るのは、初めてだった。
だが、薬師として長く研鑽してきたキャスティは、ここで素直に折れるような“たま”ではなかった。
「それなら、神官にだって導かれる権利はあるわ」
キャスティの蒼い瞳が負けじと、テメノスを見つめ返す。二つの視線が真っ直ぐにぶつかり合い、そして。
──二人は、泡が弾けたように笑いだした。
「くっくっ、なかなかやりますね、キャスティ」
「ふふっ。……私たち、似た者同士かもしれないわね」
人の身体や心を癒すことを生業としていることも、他人は気遣うのに己のことは顧みないところもそっくりだ。
「考えてもみませんでしたが、案外そうかもしれませんねぇ」
テメノスが愉快そうに笑っている。いつものような皮肉めいたものをまったく含まない笑顔が、キャスティの心を温めた。手に抱えていた薬茶よりも、ずっと。
「ありがとうテメノス、でも今は本当に大丈夫よ」
「まだそんなことを言いますか? 私がこんなに真摯に導きたいと言っているのに」
「ええ。だって、これからいつでも聞いてくれるでしょう?」
というと、テメノスは驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに頷いた。
「勿論です。聖火神に誓って、ね」
「ふふ、あなたがそれを言うとなんだか変な感じするけれど」
「ひどいですねえ」
「でも、本当に信じてるわ。だから私、明日から心置きなく前へ進めるの。こんなに心強いことってないわよ」
「……そうですか」
テメノスがまたふっと笑った。どこか安堵も含んだその表情に、よほど心配させていたのだろうとキャスティは今更思う。
確かに、人なき集落で記憶の残滓と対話する自分の姿がどう他人の目に映るかを考えたら、それもそうかと納得するのだった。
「備えがあるって、とても安心するのよ」
「じゃあ、私はあなたにとっての置き薬というわけだ。構いませんよ、それで」
「あら、いい例えね。だったら、私もあなたにとっての薬瓶になっていいかしら」
片方だけじゃ不公平でしょう? そう念を押せば、彼は観念したとばかりに苦笑した。
「そうですね。……ではその時は、私も自分の話をしましょうか。いつかどこかでは、言葉にすることが必要でしょうからね」
「ええ、そうしてくれたら嬉しいわ。だってお互い様だもの」
互いに支え合ってこその旅の連れだ。たったいま交わされた約束は、ひとりでも多くの人に救いの手をもたらす為に歩み続けてきたキャスティに、新たな力を与える。
救いの手とは、単に体の傷を治したり病を取り除いたりすることだけではない。その手を大切な仲間と分け合うことができるのなら、こんなに嬉しいことはないのだから。
「……あなたは本当に、芯の強い人だ。敵わないな」
「え?」
一斉に上がった仲間たちの騒めきに、神官の低いつぶやきが混じる。聞き取れずに薬師が首を傾げると、彼はなんでもありませんよ、と首を振った。
「いい時間になってきましたから、そろそろ眠りましょう。……彼らも、いい加減静かにした方がいいですね」
「ふふ、それはそうかもね」
アグネアの踊りに喝采する仲間たちを見て、キャスティは微笑んだ。明日も彼らと一緒に旅を続ける、前を向いて歩み続ける。そんな現実に心がしっかりと焦点を合わせたのを感じた。
胸の中にはまだわだかまりがあるけれど、きらりと光を放つ瓶もひとつある。いつか、そしていつでも助けてくれるものを、キャスティは大切に抱えるのだった。
キャスティ3章後のよーわからんショックをテメノスに助けてもらおうと思いました。 テメノスさん、キャスティとのチャットが一貫して優しくて柔らかくて毎回びっくりするんですけどお……
privetter公開: 2023/5/12