1. 『温泉郷の噂』
ハイランド地方エバーホルドの、とある夜。
「お湯が沸く泉だって? なんだそりゃ」
酒場で機嫌よくエールを傾けていた青年、薬師アーフェンが頓狂な声を上げた。
ちょうど彼と同じテーブルに居合わせていた地元の客が、そんなアーフェンに向かって得意げに語る。
「なんだ、あんた温泉のこと知らないのか? 火山とかが近いとね、熱くなった水が噴き出すとこがあるんだよ。ま、天然の風呂ってとこだねえ」
「へええ、オルステラってのはやっぱ広いんだな。んな話初めて聞いたぜ」
「あたしも! 初めて聞いたわ」
隣から、一緒に食事を取っていたアーフェンの旅の連れ、商人トレサも口を出す。
「この近くに温泉があるんですか?」
「ああ、そうだよ。一山越えたあたりにウォームソレイスってとこがあるんだが、あそこは格別だって噂だよ。なんでも、入ると体が元気になるってねえ」
「そうなのか?
アーフェンは俄然興味が湧いた。薬師である彼のこと、治癒が絡むとあれば気にせずにはいられない。
「なんか薬みてえな効果があるのか?」
「そうさね、関節痛だとかそういうのにいいとかって聞いたことあるな。あとそうだ、入ると肌がきれいになるって噂も聞いたぞ。お嬢さんには気になるんじゃないかい?」
話を振られて、トレサは勢い込んで頷いた。
「そりゃもう!」
「だったら、ぜひ行ってみるといいよ。まあ、単純に入ったら気持ちいいし、損はしないよ。きっとね」
アーフェンとトレサは顔を見合わせた。もちろん、二人の間では答えは決まっている。
「──つーわけなんだけど、みんなで行ってみねえか?」
他の旅の連れと合流したアーフェンとトレサは、さっそく皆に温泉郷の噂について話した。すると、剣士オルベリクがこんなことを言い出したのだ。
「ウォームソレイスか、懐かしいな。昔は世話になったものだが……」
「えーっ、オルベリクさん、行ったことあるんですか!」
トレサが大声を上げ、ほかの六人の連れも驚いてオルベリクの方を見やった。
「あぁ。ホルンブルグの騎士だった時に、たまに山間へ遠征しての訓練をすることがあってな。その帰りに、必ず寄っていたんだ。訓練で疲れた体を癒すために」
「じゃあ、関節痛なんかに効くって噂は本当なのか……」
目を輝かせるアーフェンの横で、学者サイラスが面白そうに頷いた。
「ホルンブルグ時代の話を聞けるとは、実に興味深いね。どんな場所だったんだい?」
「コブルストンとあまり変わらないくらいの小さな村だ。『水晶の実り亭』という温泉つきの宿屋があって、俺たちはよくそこに世話になっていた」
「へえ……その時、エアハルトもいたのよね?」
踊子プリムロゼが悪戯っぽく微笑む。
「双璧の騎士が泊まった宿なんて、大した話題になりそうじゃない」
「む……」
「それに、入るとお肌がきれいになるというのはとても気になりますね……」
神官オフィーリアが控えめに、けれど好奇心を抑えきれない声で言う。彼女はトレサと一緒に、アーフェンから美容に良い薬をもらったことがあった。
「でしょー? 気になるわよね、オフィーリアさんも!」
「はい! それに、フロストランドにも温泉はあるんですけれど、わたしは行ったことがないんです。だから、純粋にどんなところか気になります」
年下の女性たちの会話を穏和な表情で聞きながら、オルベリクが言った。
「そうだろうな。それに、俺もウォームソレイスのことは気になっていたんだ。戦乱にあそこも巻き込まれたはずなのだが、無事なのかどうか」
「ふむ、そうだね……どうだろう、今は急ぎの目的もないし、アーフェン君の言う通り皆で行けばいいんじゃないかな。キミはどう思う、ハンイット?」
サイラスが狩人ハンイットに話を振ると、彼女も頷いた。
「そうだな、わたしに異議はない。それに、ちょっとした休暇のようで楽しそうだ」
それを聞いて、トレサが嬉しそうに笑った。
「うん! 休暇、いい響きね! テリオンさんも、いいでしょ?」
笑顔のままトレサが盗賊テリオンの方を振り向けば、彼は例の深いため息とともにぼやいた。
「断ったところで、どうせ引っ張っていくんだろう?」
「よーし、決まりだな!」
アーフェンがぽんと手を叩いた。「じゃ、明日さっそく出発だ! 山を越えるって話だから、今夜はちゃんと休んどこうぜ」
そんな彼の言葉を皮切りに、旅人たちは三々五々寝る支度に入っていく。
未知の土地と温泉にわくわくとはしゃぐ連れをよそに、剣士オルベリクは低く呟いた。
「……俺たちが通っていたときは、温泉が肌にいいという話はなかったような気がするんだがな……」
◆
翌日朝、八人の旅人たちはさっそく温泉のあるという村へ出発した。
一山越える、という話ではあったが、地理勘のあるオルベリクの案内と、そしてたくさんの人に踏み固められた道のおかげで、彼らは思っていたよりも早く目的地へ辿り着くことができた。
山に生い茂った木々の合間に集落の姿を認めた学者サイラスが、手でそれを指し示す。
「見えてきたよ。あれがウォームソレイスかな」
「あぁ、そのはず……」
しかし、答えようとしたオルベリクの言葉が途切れる。そんな様子を怪訝に思ったアーフェンが、どした? と訊ねるが、
「……いや、何でもない。とにかく、あれがウォームソレイスなのには間違いない」
といって、すたすたと山道を歩いていく。アーフェンとサイラスは互いに顔を見合わせたが、それでオルベリクの挙動の意味が分かるわけもなく。
「思ったより早く着いたわね! ほらオフィーリアさん、早くいこっ!」
「あ、ちょ、トレサさんっ!?」
山越えの疲労など感じさせない元気さで、トレサがオフィーリアの手を引っ張り山道を駆け上がる。
こうして、旅人たちはウォームソレイスへ足を踏み入れたのだが──
「……ずいぶんと賑やかな街だな」
「ガウ……」
ハンイットが村を──いや、彼女の言葉通り『街』を見渡しながら呟いた。足元で、雪豹のリンデが少し怯えたように鳴く。テリオンが顔をしかめながら横目でオルベリクを見やった。
「これが『村』なのか? 旦那」
「いや……」
オルベリクも当惑しているようだった。
それもそのはず、旅人八人を真っ先に出迎えたのは、通りに沿って並ぶたくさんの宿だったからだ。明らかに村の──いや、街の住民でないような者たちが石畳で整えられた太い通りを行き来し、彼らを絶好の客と見込んで、声を張り上げながら物を売り歩く商人もいる。
オルベリクが事前に旅人へ話していた小さな山村の印象と、今旅人たちの前に広がる街の景色との間にはずいぶん大きな差があった。
サイラスはそんな街の様子を興味深そうに眺めて言う。
「でも、あなたがウォームソレイスに通っていたのは十年近く前のことなんだろう? それなら、これぐらい発展していても不思議はないんじゃないかな。とりあえず、宿を探すとしないかい?」
「賛成! じゃ、あたし早速行ってくるね」
商人が何を売っているか気にもなるし、と、トレサが例によってとっとと元気な足取りで通りを駆ける。
じゃあ俺も、とアーフェンが後に続き、こうして旅人たちは手分けして通りの宿を一軒一軒当たっていった。
しかし。
「すみません、こちらも八人は難しいそうで」
「私もダメね。断られちゃった」
「っていうか、この通りの宿屋みんな高すぎない?」
一番大きな宿屋から、一晩1,000リーフです、と言われて引き返してきたトレサが不満げに唇を尖らせる。通りの賑わいを裏切らず、実際にこの宿場街は大盛況の様子で、いきなりやってきた旅人八人を泊められる宿はどこにもなさそうだった。
オルベリクはますます戸惑ったように呟いた。
「ここまでとはな……正直、意外だ」
「よっぽど繁盛してんだなあ……まさか、野宿か?」
アーフェンが冗談めかして言うと、プリムロゼが冗談じゃないわとため息をつく。
「山を越えてきた挙句に街中で野宿なんて、いくらなんでもそれは勘弁願いたいわ」
そこへ、ハンイットが首を傾げながら訊ねた。
「しかし、オルベリクが言っていた『水晶の実り亭』はこの通りの宿にはなかった気がするぞ。まさか、潰れてしまったのか?」
「……いや」
オルベリクは記憶をたどって、ゆっくりと首を振る。
「確かに、俺たちが世話になった宿屋はもっと村の奥にあったような気がする。行ってみよう」
というわけで、八人の旅人はぞろぞろと宿屋の並ぶ通りを抜けて行った。その頃には日も傾きかけていて、観光に出ていた人々が足早にそれぞれの宿へ向かっている。
そんな人々の流れに逆らって旅人たちが進むと、じきに視界が広がった。
どうやら村の広場であるらしいその場所には、いくつか屋台の骨組みが立っていたが、やはり夕暮れ時なのか店じまいがされている。行きかう人の姿もさすがにまばらだ。だがそんな中、夕焼け色に染まった空を背景に浮かび上がる像がひときわ目立っていた。
それは山羊の形をしていて、薄暗い今はあまりよく見えないが、精巧な彫刻であることはどうにかうかがわせる。その像を見て、オルベリクは思い出したとばかりに深く頷いた。
「ああ、そうだ。確かに、ウォームソレイスにはこんなものがあったな……こっちだ」
オルベリクが先導して、広場から伸びる細い通りを歩く。
と、彼らの目の前に小ぢんまりとした木造の建物が見えてきた。
「ほう……なるほどね」
建物を見るなり、サイラスがすぐに合点する。こちらの建物は様式も建材も、集落に入ってすぐの宿場街にあった宿より年季が入っていたからだ。
トレサが宿の看板を読んで言う。
「『水晶の実り亭』……よかったわね、潰れてなかったみたい」
「そのようだ。──失礼する」
宿屋の扉をオルベリクが押し開けると、ちりん、と呼び鈴が鳴る。すると、すぐに一人の女性が奥から出てきた。
「おや、お客さんかい……って、あなたは!」
「久しいな。無事なようで何よりだ」
オルベリクが挨拶すると、この宿の主人らしい、赤毛をひっつめにした女性が信じられないとばかりに大きな声を上げた。
「これは、剛剣の騎士様じゃあないですか! あなたこそ無事だったんだね!?」
「ああ。八人なんだが、泊まることは出来るか?」
「ええ、ええ喜んで! ハンナ、お客さんだよ──大急ぎで支度して!」
そんなわけで、旅人たちは無事にウォームソレイスの宿『水晶の実り亭』に落ち着いたのだった。
◆
「いやはや、まさかオルベリクさんにまたお会いできるなんてね……あれからもう十年近くになるかい?」
宿屋『水晶の実り亭』を仕切る女主人は、旅人八人を宿のロビーにしつらえたテーブルに招き、お茶を振舞ってくれた。どうやら、今夜この宿に泊まる客はこの八人の他にいないようだ。
ちなみに、お代は一泊で500リーフとのこと。
「ああ、そのくらいだろうな」
「あたしゃてっきり、あのホルンブルグの内乱でお亡くなりになってしまわれたのだとばかり──本当に、よくご無事でいてくださったよ」
「それは、こちらの台詞だ。この村も戦火に巻き込まれたのだと思っていたのだが……」
「ああ、そうだねえ」
女主人曰く、ここウォームソレイスは直接内乱に巻き込まれたわけではなかった。
それでも、戦いに生き残った兵や住んでいた場所が焼かれて彷徨っていた民間人が駆け込んできたり、食いっぱぐれて山賊に身を落とした者が入り込んできたりと、ホルンブルグ滅亡後の数年はかなり混乱していたらしい。
この『水晶の実り亭』も、ろくにリーフを持たない客をほぼ無償で泊めるなどの人道的な支援を行っており、それもあってしばらくは苦しい生活を強いられていたという。
「それは……大変でしたね」
話を聞いて心を痛めたオフィーリアが呟く。
「そうだね。でも、おかげでまたこうしてオルベリクさんとお会いできたのだから、頑張った甲斐があるってものだよ。訓練帰りの双璧の騎士様がいらしてた時は、本当に楽しい日々だったからねえ」
「へえ~、その時のお話聞いてみたいです」
トレサが興味津々で尋ねれば、女主人も喜んで話し始める。
「ふふ、オルベリクさんの隊はうちを贔屓してくれたからね。訓練がある時期はみんなが泊まれるように、日程を調整して部屋を空けたもんだよ……騎士のみなさんは血気盛んだから、食堂で大食い大会があったり、飲み比べがあったり」
そこまで聞くと、プリムロゼがおかしそうに笑った。
「ふふっ、それじゃあ苦労も多かったんじゃないかしら」
「まあね。でも、オルベリクさんはいつも落ち着いていて、ほかの騎士さんたちをしっかり見てくれていたからね。安心して営業ができたよ。ああ、でも飲み比べに巻き込まれた時は大変なことになっていたねえ」
「お、おい、その辺でいいだろう」
「何だ旦那、なんか恥ずかしい思い出でもあるのか?」
「あんたがそう慌てるとは……珍しいな」
にわかに焦りだしたオルベリクを、アーフェンとテリオンがにやにやと見やる。
旗色が悪くなり始めたオルベリクをからかうように、女主人も大仰な口ぶりで話し続けた。
「まあ、聞きなさんな。オルベリクさんは冷静な方だから、もちろんご自分の飲めるペースは把握してらっしゃる。でもね──」
「……あの、お風呂場の支度、できましたけど」
そこへ唐突に声をかけられ、旅人たちと女主人が一斉に振り返った。赤毛をおさげに編んだ娘が、びっくりしたように立ち竦んでいる。
女主人は苦笑して旅人たちへ指し示した。
「……まあ、続きは今度にしようか。とりあえずはうちの村の名物、楽しんでいっておくれよ」
宿屋『水晶の実り亭』が用意している温泉付きの風呂場は露天に一か所だけだというので、まず男性陣が温泉を堪能することとなった。
プリムロゼ曰く「女は支度に時間がかかるのよ」ということで。
そんなわけで、作法通り服を脱いで男性陣の先頭に立ったアーフェンが、勢いよく風呂場へ続く扉を開けた。
すると──
「うおお、すげえ! なんだここ!」
日が暮れた今外気はかなり冷たいはずなのだが、男性四人の顔にむわっと熱を孕んだ湯気が吹き付けた。その空気を嗅ぐや否や、テリオンが眉をしかめる。
「おい、変なにおいがするぞ……」
卵が腐ったような匂いだ、と呟くテリオンに答えたのはサイラスだ。
「おそらく、温泉の成分によるものだね。火山が近いのであれば、硫黄が含まれているんだと思うよ」
「は? 大丈夫なのか、それは」
「別に、大量に飲んだりしなきゃ問題ないはずだぜ。なあオルベリクの旦那、もう飛び込んじまっていいのか?」
目の前にはもうもうと湯気を上げる、薄く濁った泉が広がっている。これが噂で聞く温泉だろうと、わくわくとはしゃぐアーフェンをオルベリクが低い声で制した。
「待て。まずは体の汚れを落としてからだ。石鹸は用意してくれているだろう?」
「おう、バッチリだぜ。ん、この木のやつ使ってお湯を掬うんだな」
「いきなり全身にかけるなよ。まずは足先や手から少しずつかけろ。そうでないと、場合によっては心の蔵の動きが悪くなるからな」
こうして、男たちはオルベリクの指導のもと、温泉の際に設けられた洗い場で汗を流し、アーフェンの作った石鹸で体をよく洗って旅の汚れを落とす。
そうしてから、いよいよ彼らは温泉の中へ足を踏み入れた。
「ああ~~、いい湯だぁ……」
「いや……まったくだね」
「染み渡るな……」
もくもくと白い湯気が舞う泉から、頭が三つ突き出している。癖っ毛が濡れて垂れ下がった男と、濡れてますます黒髪の艶やかさが増した男、傷も逞しい隆々とした顔立ちが目立つ男。
そんな男どもは一様に顔を真っ赤に茹で上げ、しかもだらしなく表情を緩めてため息をつくのだった。
「お前ら……いくら何でも気を抜きすぎだろう」
ひとり水辺の岩場に腰かけて足だけ泉に浸しているテリオンが、呆れて連れ三人を眺めた。──特に薬屋、あんたいくら何でもおっさん臭いぞ──と口に出すのは、微妙な年齢の者がいるので辛うじて堪えたが。
「よくそうも無防備でいられるな、ただの山の中だぞ」
「なんだよテリオン、入らねえのか?」
癖っ毛を掻き上げて、アーフェンが唇を尖らせた。
「温泉つったら、肩まで浸かって全身をあっためるもんだって聞いたぞ。なあ旦那?」
「ああ」
隆々たる顔つきで重々しく、かつてこの温泉に通っていたオルベリクが答える。
「温泉では、肩まで浸かって百数えるまで出てはいけない。俺は昔父にそう教わった」
それを聞いて、サイラスが緩んでいたはずの秀麗な眉を上げた。青い目を好奇心に光らせ、今は裸の剣士を見やる。
「おやオルベリク、あなたの父君の話を聞くのは初めてのような気がするな。……実に興味深い、ほかに教わったことはあるのかい?」
「そうだな。先ほど教えたかけ湯の話もそうだし、長く楽しむのなら反復して入るのがいい。その方が芯から温まることができるし、体の疲れも取れる」
──珍しくオルベリクがよく喋るな
この先役に立つのかさっぱり不明な蘊蓄をとうとうと語るオルベリクを、テリオンは闇市の値打ちがよくわからない品を見るような目で見ていた。酒が入ったときの笑い上戸くらい珍しい姿ではあったが、下手に関わると面倒なことになりそうだった。
ところで、温泉に浸かっているのが足だけでも、血が巡っているおかげなのか案外体は温まる。それに気づいたテリオンは、そろそろいいだろうと足先を温泉から抜きかけた。
そんな時。
「おいテリオン、ここまで来てそりゃねえだろ?」
いつの間に近くまで来ていたアーフェンが、にやりと唇の端を上げていた。これこそ面倒なことになりそうだ。
「断る」
「百までとは言わねえからよ。そらっ」
人の話を聞け──抗議をする前に、盗賊並みの素早さで腕を引かれたテリオンはざぶんと泉の中に飛び込んでしまった。途端、全身を今まで知らなかった熱さが包む。
「な、気持ちいいだろ?」
湯気の向こうで笑う男に、テリオンは全力で舌打ちした。確かに、これは未知の感覚だ。熱が回って力が抜けていきそうだった。
しかし、不意にテリオンは首の後ろがざわつく感覚を覚えた。
「……!?」
「んあ、どしたテリオン?」
ざば、と立ち上がって辺りを見回す。しかし、今や完全に日も沈んだ挙句、宿の明かりで月や星の光が邪魔されて、周りの様子がほとんど分からない。
「おいオルベリク、何か感じないか」
止む無く盗賊は剣士に硬い声で訊ねる。久しぶりに味わう快楽ですっかり弛緩していた剣士は、ただならぬその様子に一気に顔を引き締めた。
「テリオン? いったいどうしたと──」
サイラスも訊ねかけた言葉が途切れる。今度はアーフェンにも分かった、明らかにこの宿に似つかわしくないものが聞こえる。
魔物の唸り声だ。
「裏山からか……?」
「オルベリク、あなたは武器を取りに行ってくれ。アーフェン君も」
「心得た」
「お、おう……でも先生は」
すぐに風呂場を出たオルベリクだが、アーフェンは躊躇ってしまった。
だって、この場にいる者が全員、武装どころか服装まで解いている。無防備な体に魔物の牙や爪でも受ければひとたまりもない。
テリオンが躊躇うアーフェンを睨んで急かした。
「言っている場合か? とっとと鞄でも取ってこい」
「来た!」
ばり、と音を立てて、唐突にそいつは現れた。
それまで辺りの暗さで見えていなかったが、風呂場と裏山の間には柵が立てられていて、魔物がそれを破ってきたのだ。
猪の姿をした魔物は、温泉に足を突っ込んで構える素っ裸の男三人に向かって、はっきりと敵意を向けている。
「ど、どうすんだよ!?」
「ふむ……この水場では炎は使えない、雷は私たちにも危険が及ぶ。であれば……!」
「おい、避けろ!」
「先生!」
魔物がサイラスに向かって飛び掛かったとほぼ同時、テリオンがサイラスを温泉の中に突き飛ばす。ざぶん、とサイラスとテリオンが温泉へ倒れ込み、魔物は二人をかすめて洗い場の壁に激突した。
洗い場の壁とはすなわち、『水晶の実り亭』の宿の壁である。大きな音とともに、石を積んで作られた壁に大きな穴が開いた。
一方、温泉の中に倒れ込んだサイラスが咳き込みながら起き上がる。
「ごほっ、ごほっ……すまない、テリオン」
「いい。それより、どうする」
何か言いかけていただろう、とテリオンが碧の目だけでサイラスを見やれば、かの学者は秀麗な顔で不敵に笑む。
「テリオン、あの場に鬼火で釘付けにできるかな」
「……やってみよう」
激突の衝撃にくらんでいた魔物が、ゆっくりと起き上がって再び無防備な入浴客に向かってくる。あと少しこの場をしのげれば、もうじきオルベリクや異変を察知した女性陣もやってくるに違いない。
ただし、今この状況を女性陣が見るのは非常にまずいだろうが。
──というアーフェンの明後日な懸念はともかく、再び魔物が地面を蹴ろうとしたまさにその瞬間、
「燃えろ」
低く力のある言葉とともに魔物の目の前へ鬼火が放たれる。毛皮を焼く熱さに、ギャア、と悲鳴を上げて魔物がたたらを踏んだ。
しかし、炎は温泉で湿っているこの場ではそう長くはもたない。また、炎をしのぐならそれこそ温泉に飛び込めばいいだけだ。
もちろん、そうされてはこちらの作戦が成り立たなくなる。
「おらおらっ、こっちだ!」
アーフェンが温泉から上がって、その辺に落ちていた木の桶を魔物へ投擲していた。むろん大した一撃にはならないが、魔物の気を温泉から反らせれば十分だ。テリオンはぎり、と奥歯を噛んだ。
(まだなのか、学者先生……!)
だが、まさにその瞬間だった。にわかに、湯気が勢いよく中空へ舞い上がる。同時に巻き起こる、身が竦むほどの冷気。
「──氷嵐よ、巻き起これ!!」
力ある詠唱とともに、きん、みし、と凄まじい音を立てて氷柱が洗い場に現出する。
サイラスが魔力を集中させて放った超密度の氷が、魔物をあっという間に閉じ込めた。
「無事かッ!?」
そこへ、最低限の服装で剣を携えたオルベリクが戻ってくる。大氷結魔法を放ったサイラスは、乱れた黒髪を掻き上げて微笑み返した。
「この通り、なんとかね」
その笑顔を、もし何も知らない者が見れば間違いなく見惚れてしまったことだろう。
しかしアーフェンは、この時心底他の客がいなくて良かったと思ったのだった。
◆
「……そうかい、そんなことがあったんだね」
宿屋『水晶の実り亭』の食堂に、湯気を上げるご馳走が並ぶ。
茸とベーコンを山羊の乳で煮込んだスープと、獲れたての鹿を香草で焼き、肉汁をベリーと辛子で味付けしたソースをかけたものだ。
新鮮な食材に素朴な味付けが生きる心づくしの夕食を振る舞いながら、宿の女主人は沈痛な面持ちで男性四人の話を聞いていた。食事を取りつつ一緒に聞いていた女性陣も、思わずうわ、と声を漏らす。
「それ、あたしたちの時じゃなくて良かったわね……」
「そうね、魔術書もなしに魔物を氷漬けにできるのなんて、サイラスくらいだもの」
「大変だったんですね……皆さんにお怪我がなくて本当に良かったです」
「こんなことはよくあるのか?」
鹿肉を器用に骨から外しつつ、狩人ハンイットが女主人に尋ねる。さすがに、職業柄こういう事態には敏感だ。
女主人は申し訳なさそうに答えた。
「実は、最近ちょくちょく魔物が村にやってくるようになっていたんだ。表通りの宿でも度々襲われているらしくて……せっかくここ一年でお客がぐっと増えたのにねえ」
「そうだ、それは気になっていたんだ。昔と比べて、ずいぶんと村が大きくなっていたようだが……?」
十年前のウォームソレイスを覚えているオルベリクが聞くと、そうなんだよ、と女主人が勢いを得たように話し始めた。
ウォームソレイスは先に彼女が話した通り、ホルンブルグの内乱を経てから内乱で家や仕事を失った者を受け入れつつ、細々と山の暮らしを営んでいたのだが、ある時とある商人がやってきてから、徐々に温泉を生かした観光地として発展してきたのだという。
商人は温泉の効能に目をつけ、これを広く宣伝すれば多くの人々が訪れ村が豊かになるだろう、と村長を説きつけたのである。
「ふむふむ、この村の温泉の価値を見出して、売ろうとした人がいるのね。いいところに目をつけたわね」
「そうだね。あたしたちにとっちゃあ当たり前のものだけど、外の人にとってはそうじゃないってのを上手く利用しようってことになったのさ。ロドリゴさんが──ああ、ここに来た商人のことだけど、その人が言うように温泉が美肌に効くんなら確かにお客もつくだろうし、ホルンブルグの騎士さんたちも通っていた、って言えば箔もつくしね」
ありがたく宣伝文句にさせてもらっているよ、と女主人が笑い、それを聞いたオルベリクはかすかな苦笑いを浮かべる。
「……まあ、それであなた方の生活がうまくいっているのなら、何も言いはしないさ」
「っていうか、その美肌効果よ肝心なのは! どうだったのテリオンさん」
スープの最後の一滴を平らげたトレサが勢い込んでテリオンに尋ねると、ちょうど茸を飲み込んだところだった盗賊はあからさまに顔をしかめた。
「はぁ? なぜ俺に訊く」
「だって、一番効果が分かりやすそうなんだもの! ねぇ、どうだったの?」
「さり気なくひどい決め付けしてないか、お前……」
「こいつ、足しか浸かってねえからあんま効果ないと思うぞ」
アーフェンが苦笑いしながら注釈を入れると、トレサはもったいない!と唇を尖らせる。勘弁してくれとばかりに、テリオンが女主人へ話の続きを促した。
「それで、村が大きくなった結果があの通りの宿場街か?」
「ああそうさ、全部ロドリゴが手配して作ったんだよ。通りの近くにいい温泉が掘れたとかでね……入り口のすぐ近くに宿があった方が客も逃げないからってさ」
「おかげで、こっちの商売はあがったりよ」
険のある少女の声が割り入ってきて、旅人たちは一斉にそちらを向いた。
見ると、さっき温泉の支度が出来たと知らせてくれた、赤いおさげの少女が果物を載せた盆を握り締めている。
「この宿の方が古くて格もあるのに、入り口の宿場街がお客さん取っちゃうんだから」
「これハンナ、お客さんの前でそういうことを言うもんじゃないよ」
女主人がたしなめると、おさげの少女は黙って果物をテーブルに置いて、さっさと奥の調理場に引っ込んでしまった。
女主人はすまなそうに旅人たちへ頭を下げた。
「ごめんなさいね、あれはうちの娘でして……よく働いてくれているんだけど、その分今の村に思うところがあるようで」
「いやいや、気にしなくていいって」
アーフェンは大げさに手を振って女主人を宥め、サイラスも同調して頷く。
「そうだね。私たちもあの通りでは宿が取れなかった身だから、状況は分かっているつもりだ。けれど、この宿が空いていて本当に良かったよ。いい温泉を頂けたしね」
「それに、ご飯もとても美味しかったですよ。……温泉は次の機会を楽しみにしてますね」
切り分けた鹿肉もスープもきれいに食べ終わったオフィーリアが優しく微笑みかけたところで、女主人も気を取り直したようだった。
「ああ、すまないね。ありがとう……うち以外にも温泉はあるから、楽しんでってね」
結局『水晶の実り亭』の風呂場は、洗い場や壁の破損のせいで使えなくなってしまったのだった。女性陣は汲んだ温泉水だけもらって、各自で身を清めることになっていた。
「でも、やっぱり気になるわね。魔物ってこんな人里にほいほいと下りてくるものなのかしら?」
温泉を楽しみにしていたひとり、プリムロゼが唇を尖らせながら呟く。彼女の疑問に、ハンイットが首を振って否定した。
「もちろん、そんなことはない。魔物が出るようになったのは近頃とおっしゃっていたが、具体的にはいつ頃なんだ?」
「そうさね……大体ここ一年くらいかな。宿場街の宿も被害が出ているし、最近は討伐隊を出すかって話もあるよ」
「なるほど……それは深刻だな。よかったらだが、わたしにも調べさせてもらえないだろうか。個人的に気になるんだ」
「え?」
ハンイットの申し出を聞いて目を丸くした女主人に、オルベリクが言い添える。
「ここにいるハンイットは、黒き森出身の、名うての狩人だ。きっと力になれると思うが……俺も放ってはおきたくないしな」
「そうかい……もし理由が分かったらありがたいよ。ご迷惑をおかけして申し訳ないけれど、そうしてもらえたら助かる」
「よし、引き受けた」
ハンイットが頷き、サイラスが面白そうにぱちぱちと青い目を瞬かせた。
「では、明日は散策がてら、魔物の調査といこうじゃないか」
「なら俺は温泉の薬効を調べてえな。魔物の方は役に立てないだろうし」
「あ、あたしもそっちに乗った!」
「まあ、もともと散策はしてみたかったしね。いいんじゃないかしら」
こうして、ウォームソレイスでの最初の夜が更けていく。
旅人たちはこの村で何を見て、何を体験することになるのか──いまはまだ、立ちこめる湯気の向こうに隠されたままであった。