2.『温泉郷ウォームソレイス』
あくる朝、山間の合間から太陽が姿を見せる頃。
温泉郷ウォームソレイスの中でも一番古い宿『水晶の実り亭』から出た四人の旅人は、さっそく女主人から勧められた場所を訪れていた。
「はぁ~、これはいい湯だわ」
ほけっと顔を緩ませたトレサが、裸足の脚を温かい湯に浸している。
隣で、オフィーリアも目を細めながら温かさを堪能していた。
「これは……気持ちいいですね。旅の疲れがほぐれていくようで」
「あなたたち、これに昨日浸かってたわけでしょ。羨ましいわ」
プリムロゼがわざとらしい笑顔で隣に腰掛けるアーフェンに迫ると、この中でただひとり温泉を満喫した彼は慌てたように仰け反った。
「い、いやそりゃ気持ちよかったけどよ……ほら、ここにいるうちにまた入るチャンスはあるって、なあ?」
「はい、とても楽しみです。……入れるといいですけれど」
呟きながら、オフィーリアはちゃぷ、と控えめに湯の中で脚を揺らすのだった。
女主人から勧められた場所というのが、村の広場の際に据えられたこの『足湯』である。
温泉を浅く掘った穴に引き、その際に簡単なベンチを据えることで、散策に疲れた人々が気軽に温泉で足を温められるよう工夫してあった。
朝早いうちの方がお客が少なくていいよ、と女主人が教えてくれたので、アーフェンたちは朝食をとるとすぐに広場へやってきたのだった。日が昇りきってまだ間もない今頃はあまり気温が上がっておらず、ひんやりとした空気の中、温かい湯に足を浸すのは気持ちがよかった。
「それにしても、不思議です。足だけしか浸かってないのに、なんだか全身もぽかぽかしてきて」
「そりゃそうだ、足の裏っつうのは心臓から一番遠いとこにあるからな。そこをあっためてやれば、あったかくなった血が全身に巡って、体が芯からあったまるって寸法よ」
得意げに語ったアーフェンを、女性三人が目を丸くして見やる。プリムロゼがへえ、と感心して頷いた。
「なるほどね、いかにもそうらしいわ。さすが薬師先生ってとこね」
「あはは、アーフェンが薬師っぽいこと言ってる~!」
トレサがけたけた笑うので、アーフェンは居心地悪そうに眉をしかめた。
「なんだよ、本当のことだぞ」
そこへ、オフィーリアがにっこりとアーフェンを肯って言うのだった。
「はい、わたしはアーフェンさんの言葉を信じますよ」
「オフィーリア……! お前って奴は本当にいい娘だなあ」
「はいはい。温まってきたし、他のお客さんも来ているし、もう上がりましょ」
プリムロゼの呆れた半眼に、また決まりの悪くなったアーフェンは、情けない声でおう、と頷いた。
というわけで四人は足湯から上がり、温まった体で機嫌良く広場の散策に出るのだった。
村の広場は村落自体の規模に比べるとかなり広く取られていて、そのあちこちに軽食や土産物の屋台が出ている。
温泉宿に泊まる客が散策に出たところで、こうした屋台でしっかりリーフをもらっていくのだろう──と見当をつけた商人トレサは、果たしてどんなものが売られているのか、つぶさに屋台を観察して歩くのだった。
そんな彼女の目に、ある一つの看板が飛び込んできた。
「……化粧、水? 何これ」
思わずつぶやいたトレサが見つめる先は、他のものと比べてやや小さめの屋台だった。
この屋台が売っているらしい商品はただ一つ、透明な液体の詰まった瓶だけである。それが、箱に九本ずつ詰まった状態で綺麗に台の上に並べられていた。
屋台としては一風変わった代物に怪訝な顔をしたトレサへ、屋台の店主らしい男が愛想のいい笑みで話しかける。
「おやおや、かわいらしいお嬢さん。美肌に効く温泉水をさらに加工した、この薬はいかがですか?」
「なんだ、兄ちゃん薬師なのか?」
さっそく興味を持った薬師アーフェンが、トレサの後ろから身を乗り出して尋ねると、化粧水売りの男は鷹揚に頷いた。
「端くれながら。この『化粧水』、肌の乾燥はもちろんのこと、多少の出来物だって治すよ。毎朝毎夕つけるだけで、まるで化粧でもしたように肌の調子を整えるんです。一本300リーフだ、どうですか?」
「げ、300もするの?」
トレサは思わず顔をしかめてしまった。
体力を回復させるブドウが質のいいもので260リーフ、アーフェンが日ごろ調合している、複数人数への使用を考慮した薬も原価が140リーフであることを踏まえると、日常使いのこの薬が300リーフというのはかなりの値段だ。
「へえ、随分自信があるのね、薬師さん」
プリムロゼが尋ねると、薬師はもちろんだと頷いて、流れるような口ぶりで訴える。
「それは、なんといってもこのウォームソレイスの温泉水には肌をきれいにする効果があるんです。私の手業はその効果をほんの後押しするものに過ぎませんよ。この街で温泉に浸かって、その上でこの薬を使って頂ければ、間違いなくあなたの肌はきれいになりますから……。
ただ、この薬の材料となります、特に効果のある温泉水は少々厄介な場所にありまして、その分の手間賃も込みでリーフを頂いております。代わりに、効果はお墨付きですよ」
「ふーん……」
「アーフェンさんのウツクシ草を使った薬と、どっちが効くでしょうかね?」
薬師の口上をうさんくさそうに聞いていた旅人たちだったが、オフィーリアの無邪気なひとことが、アーフェンの薬師としての矜持に火をつけた。
「そりゃあ、……よし兄ちゃん、俺は買うぜ!」
「えーっ、本当に? じゃああたしも」
「ありがとうございます」
結局、アーフェンとトレサ、それからオフィーリアが男から『化粧水』を購入したのだった。
屋台の前から離れたところで、さっそくトレサが化粧水の瓶の蓋を開ける。手のひらに少しだけ中身を取ると、両手に広げて顔に液体を押しつけた。アーフェンが以前ウツクシ草で作った薬を使う時とそっくり同じ手順だ。
水が肌に染みこんだところで、トレサが自分の頬をつつきながら呟く。
「うーん……よく分からないわね」
「そうですね、水で濡らしたっていう感覚はありますけれど……」
同じく化粧水を塗ったオフィーリアも首を傾げる。そんな二人に、プリムロゼが苦笑しながら言った。
「そういうものは、何日か続けてみないと効果は分からないものよ。アーフェンの薬だってそうだったでしょ」
「そうだけど……少なくとも、アーフェンのは薬塗ってるって感じしたわよ、ちょっととろっとしてるし、薬っぽい香りもするし」
「なんとなく、塗ったあともしっとりした感じがしましたよね」
「なんだよ、急に褒めるなよな……」
二人のやりとりに、当の薬師はむずがゆそうに笑う。とたん、トレサが調子に乗らないで、とアーフェンを睨んだ。
「そんなことより、薬師さんとしてはどうなの、この化粧水は?」
「ええ? そうだな……」
といって、アーフェンも化粧水の瓶を開けてみる。
ぱたぱたと手で仰いで薬の匂いを嗅ぎ、それから少量を手に取って、指先でも液体の触り心地を確かめた。そして、昨日全身を浸した温泉の記憶を掘り返し──
「……まあ、化粧『水』ってだけあって、ほんと水っぽいよな。……温泉のお湯と、匂いも触り心地もあんま変わんねえなあ」
「……やっぱり、そう思います? わたしもなんとなく、そうなんじゃないかと……」
歯切れ悪くオフィーリアが言ったところで、さらに声を低めてトレサが呟いた。
「実は、本当に温泉水を詰めただけだったりして」
四人の間に一瞬の沈黙が漂う。そして。
「いや、ねえだろさすがに。うん」
「そうですよね……わたしたちが分からないだけで、ちゃんと効果はあるんですよ」
「さすがに、それで300リーフは大胆すぎるわね」
「そうよねー。詐欺としてはよくある話だけど、温泉水を詰めただけの水を売るなんて」
「──そんなわけないでしょう!」
突然会話に入ってきた女性の怒声に、旅人四人はびくっと固まった。
彼らが振り向くと、そこにはフードを深く被った女性が、口元をわななかせながら立っていた。
アーフェンはその女性を見て、すぐに気づいた。もしかしたらこの女性──
「なあ、あんたもしかして」
「っ……! 突然すみませんでした、失礼します」
といって、彼女は踵を返してしまった。かと思うと、その足で例の屋台へ向かう。
彼女を見て、化粧水売りの男が愛想笑いを浮かべた。
「おや、また買いに来なさったんですね。毎度どうも」
「ええ、私にはもうこれしかないから……ありがとう」
といって、フードの女性はまた小走りで宿場街へ去るのだった。そんな様子を眺めて、プリムロゼが呟く。
「ふうん……あの分じゃ、本当に効果があるのかしらね。随分必死そうだったけど」
「……」
アーフェンもまた女性の背中を目で追っていたのだが、背をかがめて急ぎ足でいく姿に、彼は心を決めた。
「俺、ちょっとあの人に話聞いてくるわ。たぶん、ただ美容に悩んでるんじゃねえ気がすんだ」
「あ、ちょっ、アーフェン!」
トレサが裾を掴む間もなく、アーフェンは女性を追って駆けだしてしまった。
あっという間に小さくなる薬師の背中を、残された女性三人は呆気に取られて見送った。
「……どうしたんでしょう、アーフェンさん」
オフィーリアが心配そうに呟き、プリムロゼはやれやれとため息をついた。
「仕方ないわね、こうなったら私たちだけで散策を続けましょ」
一方その頃、『水晶の実り亭』からは三人と一匹の旅人が出てきたところだった。剣士オルベリク、狩人ハンイットと相棒のリンデ、学者サイラスだ。
彼らはウォームソレイスに魔物が出没するようになった原因を探るべく、まずは村の人々に話を聞いて回ることにした。
「ああ、旅人さんかい? そうか温泉で襲われたのか……そいつは災難だったな」
宿の近くで小さな畑を耕していた農夫にサイラスが話しかけると、気の毒そうな顔をした彼は快くサイラスの質問に答えてくれた。
「確かに、魔物が人里に下りてくるようになったのはここ一年くらいの話だよ。はじめは表通りの宿場街の方に結構来てたから、魔物の住処に街が食い込んじまったせいかと思っていたが……」
「宿場街はもともと村の土地ではなかったのか?」
「うーん、そいつはなんとも言えないね」
山間に築かれたこのウォームソレイスは元々あまり面積が広くなかったのだが、木こりが出入りしていたところに、偶然温泉が掘り当てられたのだそうだ。
これ幸いと、商人がそのあたりの地区を温泉付きの宿を集めた街に仕立て上げたらしい。
「そうか……元々人の出入りがあったところなら、開拓をしたところで魔物の活動範囲に影響はなさそうだが……」
「やっぱり、外の狩人さんもそう思うか。村長たちも原因が分からねえって悩んでたんだけどよ、そうこうするうちに宿場街以外のところにも魔物が出るようになったってわけさ。今じゃ、おちおち外で仕事もできやしないよ」
「それはお気の毒なことだ……しかし、そんな状態で生活はできているのかい?」
サイラスが尋ねると、農夫は「なんとかね」と答えた。
なんでも、温泉郷を築いた商人が最近、対魔物の戦力として傭兵を雇っているとのことだ。
村にもともと住んでいる狩人たちも協力して襲ってきた魔物を退治しているので、そのおかげでなんとか平常の生活を送れているのだという。
「特に強いお方がいてね。なんとその人、ホルンブルグの元騎士様だっていうんだよ」
「なに、ホルンブルグの騎士がか……?」
オルベリクがぴくりと眉を震わせた。不意に顔を険しくさせた彼には気づかず、農夫は朗らかに頷いた。
「ああ、『水晶の実り亭』にも来たことがある顔だって、アンさんが言っていたよ」
アン、というのは『水晶の実り亭』の女主人のことである。
彼女がそういうのなら恐らく間違いはない──オルベリクはそれきり黙り込んだ。
「いやしかし、いくら見回りがいるって言っても、どうしても完璧じゃあないからねえ……困ったもんだよ。こうなると、山の主の祟りなのかなあ」
「ほう、『山の主』かね? それは一体なんのことだい?」
「ああ、昔からこの村の近くの山に住んでるって伝説になってる魔物だよ。広場にある像がそれさね」
「なるほど……それはどんな魔物なんだ?」
「まあ、見たまんまでっかい山羊だろうね。少なくとも像はそういう形になってる。興味があるなら、見に行ってみな」
「ああ、そうしよう。……長々と済まない、話を聞かせてくれてありがとう」
「いいってことよ。じゃあ頑張ってくれな、狩人さん」
そうして農夫と別れ、三人はひとまずその『山の主』の像を調べてみよう、ということになった。伝説であろうと、その伝説は必ず何か元になるものがあるはずだからとサイラスが提案したためだ。
「まあ、周りを闇雲に調べるよりは、少しでも情報は多い方がいい。わたしも行こう」
「……」
ハンイットが頷くのをよそに、オルベリクは相変わらず険しい顔のまま黙っている。そんな彼に、サイラスはすべて分かっているとでもいうように微笑んで見せた。
「オルベリク、気になっているんだろう?」
「……いや、俺は……」
「私たちは二人で調べられるから、あなたは別行動で構わないよ。……昔の知己がいるのなら、顔を見たいと思うのは当然だろう?」
「そうだな、遠慮なく行ってこい。わたしたちなら大丈夫だ」
サイラスとハンイットが揃ってオルベリクに頷いてみせる。オルベリクは二人の連れの顔を見比べ、やがて小さく頭を下げた。
「気遣い、感謝する。……また後で会おう」
「あぁ」
「何かあればどうにか連絡をつけるよ。ゆっくり過ごしてくれたまえ」
こうしてオルベリクは二人(と一匹)と別れ、元ホルンブルグの騎士を探すべく、ウォームソレイスの人々へさらに聞き込みを続けることにしたのだった。
アーフェンと別れた女性三人は、引き続き広場の他の屋台を覗いて回ったり、のどかな山村の道を散歩したりしていた。
そして小腹がそろそろ空いたと思った頃、彼女たちは奇妙なものを見つけたのだった。
道ばたに据えられた木の桶に、どこかから引いてきたらしい温泉が、樋を伝ってひっきりなしに流れ落ちている。そして湯煙がもうもうと舞う桶の中に、蔓を編んで作った籠が温泉に浸るような形で沈んでおり、その籠には卵がたくさん詰められているのだった。
「……なんでしょう、これ?」
オフィーリアが卵の入った籠が沈んでいる桶を覗き込むと、近くで立っていた商人の青年が愛想良く声をかけてきた。
「ああ、それは温泉で茹でてつくったゆで卵さ。普通のゆで卵とはひと味違う、まあ試してみてくれよ」
一つ10リーフだよ、というので、三人は怪訝な顔をしながら青年へ硬貨を渡した。
すると、青年はざるからお玉で卵を掬い上げ、自分が構えている屋台から取り出した器の上で、その卵を割って見せた。
「わっ、何それ!」
トレサが驚いて声を上げた。それも無理はない、卵の殻から転がり出た卵は普通のゆで卵のように固いものではなく、とろんと崩れそうに柔らかかったからだ。
青年は得意げに、木の匙を三人に渡しながら言った。
「な、普通と違うって言ったろ? この特製のソースと、黄身を絡めて食べるといいよ」
「へえ、面白いわね。いただくわ」
「あたしも! いただきまーす」
「! これは……」
一口食べて、三人は独特の歯触りに目を丸くした。白身はぷるぷるとしていて、口に入れた途端とろけてしまう。中に閉じ込められている黄身はそれだけでも濃厚なソースのようで、黄身の甘みと、控えめな塩味と香草で味付けされたソースとが混じり合い、口の中でこの上なく調和する。
食べることが好きなトレサとオフィーリアは大喜びで、もうひとつお願いとまた10リーフを青年に支払った。
「すっごく美味しいです! どうやって作ったんですか!?」
「こんなに柔らかくて美味しい卵、初めて頂きました……!」
「ははは、それが温泉が持つ魔法の力なのさ……っていうのは冗談で、温泉は普通に沸かしたのよりお湯の温度が低くって、それでこうなるんだって聞いたことがあるよ。俺たちにとっては普通だったから、初めて聞いた時はびっくりしたけどね」
「これが普通って、贅沢な生活ね。羨ましいわ」
「へええ……お兄さんは昔からウォームソレイスに住んでるんですか?」
「そうだよ。昔は普通に畜産で生活してたんだが……そこへロドリゴさんがやってきて、いろいろ商売の仕方を教えてくれたのさ。今では温泉宿にこの卵を卸したりして、昔よりずっと豊かになったよ」
「ロドリゴさんが商売のやり方まで教えてくれたんですか!?」
ロドリゴといえば昨日『水晶の実り亭』の女主人も言っていた、ただの山間の集落に過ぎなかったウォームソレイスを温泉郷の街として大きくしたという商人だ。
その商人から商売のやり方を教わったと聞いて、トレサは俄然青年の話に釣り込まれた。
トレサとオフィーリアへもうひとつ卵を渡しながら、青年はロドリゴのしたことを教えてくれた。
「ロドリゴさんはこの村の温泉を本当に気に入ってくれてねえ、こいつは広くオルステラに知ってもらわなきゃ勿体ないって言っていろいろ頑張ってくれたんだよ。お客さんをもてなす用にお洒落な宿を作ったり、風呂場も綺麗なものを作ったりね」
「ふむふむ」
「なるほど? 美的なセンスもあったというわけね。どこか大貴族と交流でもしていたかしら」
そんなプリムロゼの推測を、青年は否定しなかった。
「殊更ロドリゴさんはそういうことを自慢したりしなかったけどね、多分そうだと思うよ。ま、そんなわけで、宿場街ができてから泊まり客に向けた商売も本格化したんだ。そういえば君たちはどこに泊まっているんだい?」
「あちらの方の『水晶の実り亭』というところですよ」
オフィーリアが答えると、青年は急に気まずそうな顔をした。
そして、声の調子を落として囁くようにこう言うのだった。
「あそこか……もちろんいい宿なんだけれど、長く泊まるなら別の宿の方がいいよ。高くつくからさ」
「え、なんでですか?」
怪訝な顔でトレサが聞き返す。というのも、彼女は昨日宿場街で宿を探していた時のことが頭にあったからだ──一泊1,000リーフと聞いて仰天した記憶は今も新しい。
すると、青年は声の調子を落としたまま答えた。
「それはね、この街の温泉宿は数日とか一週間とか、お客さんにゆっくり泊まっていってもらうためのものだからだよ。確かに一泊だと高く見えるけど、もし何日か泊まるなら、一泊あたりの値段が割り引きされるようになっているんだ。
でも『水晶の実り亭』は何日泊まっても一律同じ金額だからね」
その割引額は宿によって異なるが、どの宿でも一週間で割引率が最大になるという。
割引後のお代が元の値段のたった三割になることもあると聞いて、トレサは目を丸くした。
「そ、それは……確かに『水晶の実り亭』よりお得かもしれないわね。これもロドリゴさんが考えた仕組みなの?」
「そうさ。しっかり取るところは取った上で、お客さんも満足に楽しめるよう、ロドリゴさんはきちんと考えてくれているんだよ」
「へええ……温泉の価値に誰より早く気づいた上に、いろんな人に楽しんでもらえるように工夫する腕……本当に只者じゃないわ、ロドリゴさんて人」
ふむふむ、と青年から聞いた話を噛み締めるトレサ。
彼女の頭の中では、このロドリゴという商人の手並みをどう自分の商売に生かすべきか、既に試行錯誤が始まっているに違いない。
青年は感心する彼女の姿を見て誇らしく思ったのか、自慢げにこんなことも言う。
「いやあ、本当にロドリゴさんの商人としての力は素晴らしいものだよ! だって、この温泉街の仕組みやらなんやらを、たった一年で作ったんだからね」
「えっ、そんな短い期間で!?」
「ああ。ロドリゴさんがこの村にやってきたのが二年くらい前だったかな。あの宿場街ができたのは、本当にここ一年くらいの話だよ」
「すごい……!」
(あら、一年……って確か)
目を輝かせるトレサの横で、オフィーリアは何か引っかかるものを覚えた。
(そういえば……宿のご主人からうかがった魔物が出るようになった時期も、一年前だったような)
彼女が記憶を辿ろうとしていると、トレサが目を輝かせながら連れの二人へこう言った。
「あたし、やっぱり商人のロドリゴって人が気になるわ。会えるものなら会ってみたいんだけど、二人はどうする?」
「ふふ、もうすっかり商人さんね」
面白そうに微笑んだプリムロゼは、トレサについていくと言った。
「なんとなく心配だしね……あなたはもうあのウィンダム氏とも立派に話をしていたのだし、大丈夫だと思うけれど」
「何よう、あたしは少なくとも、アーフェンよりは大丈夫よ! そりゃ、プリムロゼお姉様が来てくれたら安心だけど……。オフィーリアさんはどうする?」
「わたしは……そうですね、遠慮させていただこうかと思います。少し気になることもありますし」
「あらら……そう。残念だわ」
「気になることって、何? それもそれで気になるわね」
プリムロゼが心配そうに尋ねるが、オフィーリアは笑顔で手を横に振ってみせた。
「いえ! 大したことじゃないんです、わたしの勘違いかもしれないので……。トレサさんたちのお話、あとで聞かせてくださいね」
「うん、まっかせて~!」
「分かったわ。じゃあ、また後でね。オフィーリア」
トレサ、プリムロゼと別れたオフィーリアは、ひとり山村の小道を引き返していった。胸に抱いた『気になること』を話すべき相手を探そうと思ったのだ。
見知った人がいないかどうか辺りを見回しながら探していたので、すぐ近くにいた人に気づかなかった。
「きゃっ!」
「うわ、」
オフィーリアの小さな悲鳴と被ったのは、声変わりしたばかりと思しき少年の驚いた声だった。
「す、すみません……! 前見てなくて」
大丈夫でしたか、と訊こうとして、彼女は一瞬息を飲んだ。──というのも、ぶつかってしまった少年の顔にはひどい痘痕があったからだ。
「……っ」
オフィーリアの反応を察して、少年は顔をそむけてフードを深く被ってしまった。
彼女はそんな少年に微笑んで、改めて訊ねる。
「ぶつかってしまってごめんなさい。大丈夫でしたか?」
「……おれは平気だ。お姉さんこそ大丈夫なのか?」
「わたしは平気ですよ、ありがとうございます」
「良かった。……じゃあ、おれはこれで」
「あ、待って! 聞きたいことがあるんですけれど」
狩人のようなの身なりと身に着けた道具類から、少年が村の人間だと判断したオフィーリアは、彼からも話を聞こうと思ったのだ。
「な、なに」
「あなたは、この村の人ですよね? 魔物が出ているってことについて、ちょっとうかがいたいんですけど」
「……」
少年はたじろいで黙り込んだ。その理由を察して、オフィーリアも少年の反応を待つ。
その間じっと少年を──フードの下に見え隠れする、ひどい痘痕の顔を見つめていた。
「お姉さん、どういう人なんだ……?」
やがて返ってきた言葉は、警戒心も露わな質問だった。
それも当然だと、オフィーリアは穏やかに自分の身分と事情を明かす。
「わたしはオフィーリア、旅の神官です。仲間のひとりが『水晶の実り亭』のご主人と知り合いで、その縁でこの村に出ている魔物の話を調べているところなんです。
あなたは、たぶんこの村の狩人さんですよね? よかったら、お話をうかがいたいのですけれど」
「……わかった」
少年は硬い声で頷いてくれた。よかった、とオフィーリアは微笑んで尋ねる。
「あなたは、なんてお名前なんですか?」
「……ユリアンだ。オフィーリアさんの言うとおり、この村の狩人だよ。……それで、何が聞きたいんだ?」
そこで、オフィーリアは散策の時心に引っかかっていたことを少年──ユリアンへ打ち明けた。
「魔物が出るようになったのがこの一年くらいの話だと、『水晶の実り亭』のご主人からうかがいました。そして、温泉卵を売っている人からも、あの宿場街ができたのもやはり一年前とうかがいまして……何か関係がないかと思ったんです。
ユリアンさんは、何か心当たりはありませんか?」
「……」
推測はあながち外れてはいないはずだと、オフィーリアは信じていた。
人間の活動範囲が魔物の住んでいるところを侵したせいで、魔物が人間を恨むということは容易に想像できたからだ。そうでなくとも、何かしらのきっかけがあるに違いない。
けれど、ユリアンは小さく首を横に振った。
「……ごめん、おれには分からない。村の討伐隊には参加してないから、どんな魔物が村に来ているのかも知らないし」
「そうなんですか?」
「……入れてもらえないし、話もできないから」
といって、彼はほんの少しだけフードを持ち上げた。
「あ……」
「だから、村に来る魔物がどんな行動をして、どんな理由で来ているのかははっきりと言えない。でも、山の中の魔物の気が立っているのは確かだ」
村の中にはいられないが、代わりに山にこもっているので山にいる魔物のことなら分かる、とユリアンは言う。
「……もしかしたら、『山の主』が怒っているのかもしれない」
「山の主、ですか?」
ユリアンがぽつりと零したのは、オフィーリアが初めて聞く言葉だった。
首を傾げて鸚鵡のように繰り返すと、ユリアンがはっと息を飲む。
「ごめん、もう行かなきゃ。罠の見回りに行くところだったんだ」
にわかに慌てだした少年を引き留めるのは忍びない、そう思ったオフィーリアは彼に頷いてみせた。
「そうでしたか。引き留めてしまってすみませんでした」
「ん。魔物には気をつけて」
といって、狩人の少年はオフィーリアに背を向けて山道を駆けていくのだった。
(やさしい子でしたね)
人から疎まれて暮らしていると思われるのに、見知らぬ旅人である自分にも丁寧に答えてくれた。
きっと彼の傍にはきちんと彼に向き合い、寄り添ってくれる人がいるのだろう。
そして、彼からは貴重な情報を得ることができた。これが答えにつながるかは分からないが、手がかりにしない理由はない。
改めて、オフィーリアは当初の探し人を求めて村の小道を行くのだった。
「これが『山の主』の像……か?」
「そのようだ。確かに、昨日も夕暮れの中でこれを見たね」
ハンイットとサイラス、それから雪豹のリンデは、村の広場の中央に据えられた石像を揃って見上げていた。
これまた石で作られた台座の上で、山羊の形をしたその石像は見事な角を見せつけるように、後ろ脚で立ち上がっている。
しかし奇妙なことに、角には瘤のようなものがたくさんついているのだった。
(この瘤はなんだ……?)
ハンイットは像を見上げながら眩しそうに目を細めた。彼女の足元でリンデも眩しそうにキュウ、と鳴く。朝の早い時間を過ぎて、太陽が瘤をまとった角の後ろにまで昇ってきていたのだ。
やむなく、ハンイットは太陽を避けるため像の裏側に回ってみた。すると、彼女の目は台座にあるものをとらえたのだった。
「サイラス、ここに何か彫ってある」
「何?」
同じく像を見分していたサイラスが、ハンイットの隣から像の台座部分を覗き込む。
彼らの視線の先、台座の面には文字のような細かな線が彫られていた。
「ふーむ……なるほど、この像は随分古いもののようだよ。これは、ホルンブルグの古代文字だ」
「何……?」「ガウ?」
首を傾げたハンイットを真似してか、リンデまでこてんと頭を傾ける。
ホルンブルグ古代文字といえば、ハイランド地方の古い墓やウッドランド地方のダスクバロウ遺跡に使われていた文字だ。
遺跡に刻まれていたあの禍々しい文字は、ハンイットもよく覚えている。
「なんて書いてあるのか……ううむ、削れてしまっているな」
ぶつぶつと学者が何事か呟きながら解読に没頭し始めたので、ハンイットは早々に付き合うのを止め、改めて石像を見上げた。
角を振り上げるように形作られた山羊の像は、おそらく守り神のように扱われているか、畏怖の対象であるように見える佇まいだ。
それにしても、角に鈴なりになっている瘤のようなもの──これはいったいなんだ?
ハンイットは首が痛くなるのも構わずじっと角を観察した。文字と同じく風化してわかりにくいが、瘤は何か植物的な、果実のように見える気がする。
だとしたら、これは。
すると、不意にリンデがハンイットの服の裾を口で引いた。
「狩人さん、『山の主』に興味がおありかね?」
「ん?」
同時にかけられた声に、ハンイットが振り返る。
いつの間にか村人らしい老人が、像を眺め回す旅人の後ろに立っていた。
「ずいぶん熱心に眺めておられましたので」
「あ、ああ……すまない」
老人がかけた声は穏和なものではあったが、その瞳にはどこか鋭い眼光が宿っていて、ハンイットはばつの悪い思いで謝罪の言葉を口にした。
確かに、守り神のように祀られていると思われる像の周りを、よそ者が無遠慮にうろついて──しかも、今は学者が像の台座を触ってはぶつぶつ何事かを呟いている──いれば、怪しまれても仕方がない。
「わたしたちは旅人なんだ。『水晶の実り亭』に泊まっていたら魔物に襲われて……」
事情を説明すると、老人は合点がいったようにゆっくりと頷いた。
「なるほど……それは災難でしたな。確かに、魔物の襲撃は増えているようです。『山の主』の祟りと考えても、おかしくないくらいに」
「やはり、あなたもそうお考えなのか?」
「ふむ……我が孫が狩人でしてな、山歩きをよくしていますが……確かに、山の魔物が最近おかしいという話は聞きます。何か関連があるかもしれないが、『山の主』はあくまで伝説じゃからのう」
「失礼、ご老人。あなたは山の主についてご存じなのかな?」
いつの間にハンイットと老人のやりとりに気づいていたのか、サイラスが会話に入ってきた。
「あの台座のホルンブルグ古代文字は、『山の主』についての逸話を刻んだもののように見えるのだが、掠れて読めなくなってしまっているものだから。もし何事かご存じなら、ぜひ教えていただきたいんだ」
「なるほど。あなたは学者さんのようだね。あれがホルンブルグの古代文字とは知りませんでしたが……『山の主』の伝説なら、いくらか語ることはできます。よろしければ、お聞かせしましょう」
老人が語る『山の主』の伝説は、こんな物語であった──
昔むかしの話、ハイランド地方にひとりの女性の狩人がいた。彼女はあるとき病気にかかってしまい、不幸にも顔にひどい痘痕ができてしまった。
痘痕のせいで醜い顔となった彼女は人に疎まれ、狩りの仲間にも入れてもらえなくなってしまった。
彼女は狩りの腕だけを頼りにひとり山をさまよい、そんなときに『山の主』と出会ったのである。
『山の主』は巨大な山羊であった。怯える彼女だったが『山の主』は彼女に危害を加えることなく、むしろ彼女を導くように歩き出す。
彼女が後を追うと、そこには不思議な泉があった。不思議というのは、その泉に湧くのは水ではなく温かい湯だったからだ。
痘痕の狩人は『山の主』の勧めに従い、その泉で顔を洗った。すると、彼女の痘痕はみるみるうちに消えていき、元の美しい肌に戻ったのであった。
狩人は喜んで『山の主』にお礼を言い、狩りの仲間へ戻っていった。
以来、彼女は山羊を狩ることだけはしなかったという。
「……ほう、痘痕を治す泉か。興味深い。温かい湯が湧くというのは、この村一帯の温泉のことを指しているんですね?」
話を聞いたサイラスの青い瞳は好奇心にきらきらと輝いている。老人はサイラスの言葉を肯ってこう言った。
「おそらく、そうでしょう。この村の温泉が肌によいという話は、この伝説からきているに相違ない」
「それで合点がいったよ。これなら、確かに多くの人が集まるだろうね。とても貴重な、療養地として価値のある場所だ」
「……だが、実際に効果なんてありはしないさ」
老人はそれまでの穏和な語り口とは打って変わっての、苦々しい口調で吐き捨てた。
「もし本当に温泉に痘痕を治す力があるなら、我が孫の痘痕もとっくに治っている」
「……痘痕で悩んでいるのか?」
ハンイットが気遣わしげに尋ねると、老人ははっと我に返ったように息を飲む。
そして、穏和さを取り戻した声で彼女へ答えた。
「ああ、これは失礼。そうです、孫も痘痕で何年も悩んでおりまして……この村の貴重な狩人だというのに、姿の醜さを疎まれて魔物の討伐隊にも入れず、独りで山狩りをしていますよ」
「そうだったのか……気の毒に」
気遣わしげに答えながらも、ハンイットの頭には旅の連れの顔が浮かんでいた。各地で『お代はいらねえ』の金言とともに数々の病気を治療してきた彼なら、きっと力になれるだろう。
それを言おうとした先、サイラスが口を開いた。
「ご老人、私たちの連れには腕のいい薬師がいるんだ。よろしければ貴重なお話の礼を兼ねて紹介したいのだが、どうだろうか?」
ハンイットも同じ思いで老人を見やったが、老人はゆっくりと首を振った。
「いや、気持ちだけ有難く受け取りますよ。わしの話があなた方の役に立てば幸いだ」
では、と老いた語り部は軽く頭を下げ、老人にしてはしっかりとした足取りで二人の前から去っていく。
だが彼の丸まった背中から、彼が抱えている悲しみが見えるようにハンイットは思った。
「肌によいというのは、嘘……本当にそうなのだろうか?」
「いや」
サイラスははっきりと否定を口にした。
「……確かに、今私たちが知る温泉に効果はないのかもしれないね。でも、まったく根拠のない話ではないはずだよ。何しろ、この通り古い時代の像があるのだから」
この像こそは、山の主伝説の証跡だとサイラスは考えていた。ホルンブルグ古代文字で刻まれた逸話は、老人の話と同等の内容──あるいは、もっと具体的な、現実的なものであるとしてもおかしくはない。
「少なくとも、こうして語られるには何かしらの理由があるはずだ。たとえば……あの像の角に幾つもくっついている、果実のような玉とかね」
「……果実か」
ハンイットの頭には、実はある逸話が過っていた。
彼女がかつて幻影の森で対峙した、鹿のような姿をした『森の主』。師匠ザンターが交流していたナタリアからあとで聞いた話によると、森の主の角は、季節によって葉が茂ったり花が咲いたりするそうなのだ。
ひょっとしたら、この『山の主』も似たような魔物なのかもしれない。もし、あの像の角に生えているのが、何かしらの力を秘めた果実であるのなら。
ハンイットは翠の瞳で、風化して瘤になったものをじっと見つめていた。
◆
宿場街を貫く石畳の通りを、たくさんの人々が賑わせている。
物売りが張り切って声を上げ、売り文句と品物に引き寄せられた観光客が物売りの手元を覗き込む。彼らは物売りの見せる品物と売り込みに夢中で、自分たちへ向けられた視線に気づくことはない。
その視線は宿屋と宿屋の隙間の物陰に潜み、行き交う人々の動きを用心深く見分していた。そして視線は、物売りと話をしている観光客の、背負い袋の側面につけられたポケットから、ふくらんだ財布が覗いているのを見つける。
視線の主は足音を潜めて物陰から抜け出し通りの人混みに紛れると、何気ない風を装って獲物に近づき──目にも止まらない早さで、無防備な財布を背負い袋から抜き取った。
彼は素早くポンチョの下へ手に持ったものをしまいこみ、観光客が通りを漂うペースと同じくゆるゆるとした足取りで、宿の裏道へ入っていった。
やがて一軒の宿のゴミ捨て場に身を潜めると、周りに誰もいないことを目と気配で確かめて、それからやっと深く息をつく。
「……ったく、簡単すぎるな」
低い声で盗賊──テリオンはぼやいた。
このウォームソレイスという街ときたら、誰も彼も警戒心というものがないように見える。魔物の襲撃があることは皆知っているはずなのに、のんきなものだ。
温泉の魔力の前には魔物も恐るるに足らずというのか、冗談ではない。
呆れたため息をつきながら、テリオンはいくつか集めた戦利品を検めることにした。
先ほど盗んだような財布もあれば、小さな鞄や布袋まで、品の形はさまざまだ。いずれも中身はリーフだけでも結構な額だったが、他のものもリーフに換算するとさらに儲けが出そうだった。
こうした品々からテリオンが推測するところ、おそらくこの温泉郷に集まる客というのは、何日もの宿泊に耐えうる程度の金持ちしかいないのだろう。であれば、警戒心が薄いのも頷ける。こうした人々は、周りへの警戒というものまで使用人に任せきりだからだ。
つまらん仕事場だ、と胸の内で再度ぼやいたテリオンだったが、ひとつ気になることがあった。
どの観光客の手荷物にも、小さな瓶が入っているのだ。彼は慎重に蓋を開けて、手で扇いで中身の匂いを嗅ぐ──そして気づく、これは覚えのある匂いだった。
卵が腐ったような微かな匂い、昨日入った温泉にそっくりだ。
どの観光客も持っているということは、これはこの温泉郷で売られているものだろうと当たりをつける。
しかしどうしてこんなものをと、呆れたテリオンは思わず声に出して呟いていた。
「……なんで温泉の水なんてもん大事に持ってるんだ?」
「それがあいつらの手口だからよ」
「──!?」
テリオンは息を飲んで振り返った。しまった、戦利品に気を取られて警戒を怠っていた。自分まで温泉街の連中の緩みきった空気に呑まれたかと舌打ちする。
ゴミ捨て場のすぐ前に、赤毛をおさげにした少女が立っていた。
「……おたく、宿屋の……」
「ハンナよ」
少女、ハンナは端的に答えた。
彼女が『水晶の実り亭』の女主人の娘であることを、テリオンは覚えていた。客の邪魔をしないためなのか、給仕にしても裏方の仕事にしても、極力気配を悟られないように立ち回っていたのが印象的だったからだ。
テリオンは口の端に皮肉な笑みを作って言う。
「あんた、盗賊の才能あるぞ」
「それはどうも。でも、本当に才能があったらあたしはとっくに欲しいものを手に入れているわ」
「……」
かさ、とゴミ捨て場からネズミが一匹走り出す足音がした。テリオンは何も言わなかったが、ハンナも何も言おうとしなかった。
「何が望みだ?」
仕方なくテリオンが眉をしかめながら訊くと、ハンナは初めて微かな笑みを見せた。
「……お兄さん、さすが勘がいいのね。あたし、どうしても欲しいものがあるの」
普段のテリオンならにべもなく断るところだ。しかし、この少女はこちらの背後を取ったという実績がある。
ならば、その実績に敬意を表すべきだろう──依頼を受ければ、口止め料の代わりにもなる。
「なるほど。言ってみろ」
「ありがとう。あたしは、本物の『化粧水』を盗んで欲しいのよ」
「『化粧水』……これのことか?」
テリオンが温泉水と思しきものを詰めた瓶を振ってみせると、ハンナはその通りよと頷いた。
「この瓶の中身は真っ赤な偽物なんだから。本物はね──」
少女の言葉を聞いたテリオンは、今この温泉郷で何が起こっているかがおぼろげながら見えてきたような気がした。
脳裏に、今頃ばらばらに動いているだろう旅の連れの面々が思い浮かぶ。
(……こいつは、思ったより厄介なことになりそうだぞ)
「なあ、悪いことは言わねえ。俺に診せてくれ」
「いりません。私にはこの瓶があれば十分ですから」
「ってもよお……」
とある温泉宿の入り口で、薬師アーフェンとフードを被った女性が押し問答を繰り広げていた。
化粧水とやらを買い求めていた女性の挙動がどうしても気になったアーフェンが彼女を追いかけ、追いついたはいいものの、彼女は頑として口を開こうとしないのだった。
「あんた、多分皮膚の病気なんだろ? この『化粧水』、つけ始めてどんぐらいになる?」
女性の、フードの下からわずかに覗く顎や首筋は、湿疹やできものの痕と思しき赤い染みがまだら模様になっていた。これでは確かに外に出にくいだろうと、アーフェンは心を痛める。
せめて『化粧水』は効いているのか、それだけでも確認したい。
そんな薬師の思いが伝わったかどうか、女性は小さな声で答えた。
「……今日で五日よ」
「五日? じゃああんた、その間ずっとこの温泉宿に泊まってんのか?」
女性はこくりと頷いた。それを見てアーフェンは内心呆然とする。確かこの宿、トレサが昨日訪ねていって「一泊1000リーフ」と言われていた宿のはずだ。
それだけの費用を払ってきたというのか、彼女は。
「そうか……そりゃ大変だな」
「でも、これで治るのならいいの。一週間泊まって、毎日温泉に浸かって『化粧水』を使えば治るって、宿の人が請け合ってくれたわ。だから私に構わないで」
「……ってもよお」
一週間耐えなければならないのはつらいだろう、アーフェンはそう思った。
何しろ女性の皮膚病はかなり重そうに見える。改めて観察すれば、彼女の肌にはできものやできものの痕だけでなく、ひっかき傷も見えたからだ。
強い痒みを引き起こす病気は、肌を温めるとかえって症状が強くなる場合がある。そうと知っていたアーフェンは、やはりこのまま女性を見過ごすことはできなかった。
「なあ、やっぱりちゃんと俺に診せてくれないか? これでも俺、オルステラ大陸中を旅してそこそこ薬や病気の知識はあるんだ。連れのできものも治したことがあるし」
「……でも」
「安心しな、あんたからお代は取らねえ。一週間経ちゃ治るってんなら安心だけどよ、それまで痒いまんまってのもつらいだろ? だからよ、そいつをちっと和らげる手伝いだけさせてくんねえか。な?」
最後はぱちりと片目をつぶって、笑顔を向ける。フードで目を隠していても、こちらの意図と思いが正しく伝わることを願って。
果たして、女性はゆっくりと頷いた。
「……分かったわ、なら、お願いする」
「おう、ありがとな! じゃ、さっそく宿の部屋で診察といこう」
というわけで、アーフェンは女性が泊まっていた部屋へ案内してもらった。突然の予定外の来客に宿の使用人に怪訝な目をされたが、薬師の鞄とマントを見せて勘弁してもらう。
そして、部屋で女性がフードを外すと、アーフェンはその症状のひどさに驚いた。
「こいつは……つらかっただろ」
「……」
「待ってな、すぐ薬作ってやる。この湿疹、いつからだ? 何か食べたらひどくなるとか、そういうのはあるか?」
二、三質問をして女性がそれに答えると、アーフェンは頷いてさっそく調合にかかった。
薬鞄から手持ちの薬草をいくつか取り出すと、その辺の廊下を歩いていた使用人を捕まえて、綺麗な井戸水を持ってきてもらう。
「ん、ちょうどウツクシ草があったな。よし、これで……」
薬草をすり潰して井戸水によく溶かしたものを濾紙に通し、きれいにした液体を薬瓶に詰めて女性の前に出してやる。
「よし、これでいい。こいつを……そうだな、試しに手の甲につけてみるか。ちっと楽になるはずだぜ」
アーフェンが薬を調合している間も、女性は痒みに耐えきれず度々皮膚を指先で擦っていたのである。
彼女は半信半疑で、しかし藁にも縋るような心細さを目に浮かべながら、アーフェンが作った薬を言われるがまま手の甲につける。そして薬が皮膚に馴染んで少し経つと、女性が驚いたように声を上げた。
「まあ、肌の痒みが軽くなった気がするわ……!」
女性はアーフェンの作った薬瓶をもう一度開けると、今度は顔や首回りなどにも中身を擦り込んでいく。
薬の効果が湿疹の痒みを癒していくにつれ、女性の湿疹とその痕にまみれた顔が、光を取り戻したように明るくなった。
「驚いたわ、こんなにすぐ痒みが取れるなんて……それに、つけた瞬間もひんやりして気持ちがいいわ」
彼女の反応を見て、アーフェンはひとまず安堵の息をつく。
それからてきぱきと薬の使い方を説明した。
「こいつを一日三回、朝起きたときと昼飯のあと、それから温泉から上がったあとに少しずつ……そうだな、腕一本にプラムの大きさくらいずつ使ってくれ。
皮膚を温めると痒みがひどくなるから本当は温泉も入らない方がいいんだが、そうもいかねえだろうから、せめて出た後は服着てから皮膚を水で濡らした布で冷やした方がいい」
アーフェンの説明を女性はいちいち頷きながら聞き、説明の締めにアーフェンが「大事にな」と言うと、彼女は感極まったように深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます、おかげでとても楽になりました……! 本当のことを言うと、温泉に入っても化粧水をつけても効いている気がしなくて。でも、先生の薬をつけたらすぐに効いて……凄いです」
「あ? いやいや大したことねえって。でも、あんたが楽になって良かったよ」
「大したことがないなんて……あ、そうだ。
実は向かいの部屋の方も、私と同じく皮膚病で悩んでいるんです。もしお時間がありましたら、そちらの方も診てくれませんか?」
「何? そりゃもちろんだ」
女性の依頼にアーフェンが頷くと、彼女はさっそく向かいの部屋からもうひとり患者を連れてきた。
やはり、皮膚を覆うできものと痒みと痛みに悩んでいるとのことで、アーフェンはもう一度問診と調合を行って、薬を渡してやる。
「これは……!」
薬をつけたその患者も、すぐに肌の痒みと、掻きすぎたことによる痛みやほてりが引いていったことに驚き、大いにアーフェンへ感謝した。
そんな様子を見ていた使用人や他の客から噂が広がったのか、やがて宿の他の階からも皮膚病で悩む人々がやってきて、アーフェンに治療を希ったのである。
四人も五人もやってきた患者に、アーフェンは驚いた。
「な……こんなに患者がいるのか?」
「それだけ、ウォームソレイスの温泉の効果を信じてやってくる人が多いんです。私もそのひとりでしたから」
「なんてこった……俺ももっと腕を上げなきゃなんねえな」
こうしてアーフェンはやってきた患者の全員に薬を渡してやったのだが、最後の患者を診たところでちょうどウツクシ草が切れてしまった。
「わりい、これで今日は仕舞いだわ。みんな薬もらえたか?」
「ええ、私で最後のようです。本当にありがとうございます、なんとお礼を申し上げたらいいか」
「お礼だけじゃとても足りませんわ。どうかこれを受け取ってくださいまし」
「ええ!? だからお代はいらねえって……」
嬉しそうな患者たちから、アーフェンの手元へ次々とリーフが渡される。最初こそ断ったアーフェンだったが、あまりにも患者たちが粘るのと、トレサからお金のことについて日々文句を言われていたことを思い出して、結局すべて受け取って宿を出たのであった。
「なんか思いがけずいいことしちまったな……にしても、ウツクシ草切らしちまったのはやべえな。トレサに怒られっかな?」
などと呟きながら出て行く薬師の青年を、宿の受付係がじっと見送っていた。
──その顔が、どこか苦々しげであったのを見た者は誰もいない。