あなたの星になりたい

Prelude: マジックアワーのはじまり

 その夜は、踊子アグネアの旅路の中でもっとも輝かしい瞬間となるだろう。
 芸術の都メリーヒルズで開かれた舞踏姫の宴という特別な場で、彼女はスーパースター・ドルシネアから直々に“スター”の称号を認められた。彼女の、希望という光で照らすような踊りは観客のすべてを魅了し、彼女の踊りを見る観客の喜びのすべてが彼女を照らし返す。
 アグネアは幸せだった。そしてこの幸せは今夜限りのものではなく、これからもずっと続けてゆけるものだ。彼女は“スター”になったばかりなのだから。


 あたたかなアンコールが大きな拍手とともに空へ溶けてゆく頃には、もう間もなく夜が明けるかという時刻になっていた。観客がそれぞれの寝所に帰っていくのを見送ったアグネアは、さすがに疲労を溜めた脚を引きずるようにして『月と太陽の舞台』を降りていくのだった。
 いつまでも止まないと思われるほど続いたアンコールに応えるべく、彼女はほとんど夜通し踊り続けたのだ。それでも、アグネアは舞踏姫の宴、ひいては大舞踏祭でスタッフや楽団を務めたたくさんの人々に笑顔でのあいさつを欠かさなかった。だってこんな素敵な舞台で踊りきれたのは、招待してくれたドルシネアや、つまずいた時に大きな声で応援してくれた家族や旅先で出会った人たちのおかげ、だけではない。
 アグネアはこうした祭りを準備する側の苦労もよく知っている。だから、裏方を務めてくれた彼らにもちゃんとお礼を言いたかったのだった。
 しかし、彼女の気力に反して脚の力はもう底を尽きていた。舞台からウル・ステラ祭殿へ降りていく階段の最後のいちだんで、限界を訴えた足がとうとうもつれてしまう。
「ほげっ──!?」
 思わず悲鳴を上げる。だが、体を襲うかと思われた落下の衝撃は訪れなかった。
「大丈夫か、アグネア」
「へ? ……ヒ、ヒカリくんっ!?」
 倒れかけた彼女を、男性の力強い腕と体が支えてくれている。それに驚いて、アグネアは勢いよく飛びのいた。が、その拍子で今度こそその場に転倒してしまう。
 アグネアを助けてくれようとした青年は、こんな彼女のありさまを少しも笑わずに、また手を差し伸べてくれた。
「驚かせて悪かった。怪我はないか?」
「う、うん……ありがとう」
 剣だこのできている硬い手に掴まらせてもらい、アグネアはようやく神殿の石畳の上に立った。硬い手の主である黒髪の青年──剣士ヒカリは、これまでアグネアの長い旅路についてきてくれた七人の仲間のひとりだ。こんな風に、アグネアは何度も彼に助けてもらったものだった。
 ヒカリはまだふらついているアグネアを、黒い瞳で優しく見つめた。彼の瞳の色に気づいて、どきん、とアグネアの心臓が鳴る。
「いい舞台だった、アグネア」
 つぶやくように伝えるヒカリの声は、穏やかだけれど万感の思いを噛みしめるような音をしている。
「“きぼうのうた”……友の想いが詰まった、素晴らしい歌だ」
「ありがとう、ヒカリくん」
 舞台で力の限り歌い続けた大切な歌に詰め込んだものが、彼にも伝わっていたことをアグネアは嬉しく思う。
 スターを目指す旅路で出会ったピアノ弾きのギルからもらったこの曲に、ジゼル座の面々や母ゆかりの街で出会った少女ライラとの触れ合いを通じて得た、踊子として大切にしたい想いを、アグネアは一生懸命に詩に込めた。そうして形作られた希望を声に乗せ、踊りで精一杯表現してみせた。
 全部、みんながいなければできなかったことだ。アグネアの人生という旅路の中で出会った人々の、誰一人が欠けても実現しない舞台だった。
「皆が力を貸したのは、アグネアだからだろう」
 ヒカリがそういうほど、アグネアは自身をたいした人間ではないと思っているけれど。……踊りと夢への想いと根性だけで、ひたむきに歩き続けてきたに過ぎない。
 だからこそ、今夜奇跡のような舞台で踊れたことを、アグネアは心底感謝している。
「なんか、あたしが一番幸せかも」
「いいではないか」
 ヒカリは当然のことだと言わんばかりに微笑んだ。
「自分が幸せでなければ、誰かを幸せになどできない」
 けれどアグネアには、そういう彼自身の瞳がどことなく憂いを帯びて見えた。──それはそうだ、ヒカリはまだ旅の途中。彼がその背中に負った、ク国を取り戻し彼自身が王となるという“夢”は、まだ叶っていない。
 それでも、ヒカリは優しい言葉をかけてくれる。いつだってそうだった、アグネアと出会って、これまでたくさん辛いこともあった旅路のなか、ヒカリはずっとアグネアに優しかった。まるで物語に出てくる王子様のように。


(あたし、幸せだよ。ヒカリくんにもそういうこと、言ってもらえて)
 ヒカリと話す度、アグネアの胸の中にはあたたかいものが灯る。それは心地よく燃える暖炉の火のような、暖かく降り注ぐやわらかな木漏れ日のような。けれど、酸っぱい木いちごを食べたときのような、きゅんと体が竦んでしまうような感覚も。
 その感情を抱くように、アグネアは両手をそっと胸に押し当てた。そして心に誓うのだ、自分や自分の踊りを見てくれる人々の為だけでなく、まだ旅路の半ばにいるヒカリの為にこそ。
「あたし、これからもずっと歌い続けるよ。“きぼうのうた”を!」
 澄んだ声で、高らかに宣言する。この歌がヒカリの未来にまで響き、道行きを照らすことを願って。たとえ“スター”として認められたいまになっても、ヒカリはアグネアにとって、大切な旅の連れなのだから。
 それなのに。


「そなたは、眩しいな」
「え……?」


 ヒカリが、目を細めてアグネアを見つめている。まぶたの奥から覗く黒い瞳がわずかに揺らいでいた。
「あれだけの大観衆を前に踊って……いや、違うな。舞台裏でご家族やジル殿やライラ殿に囲まれているそなたを見たとき、なぜか……そなたがとても遠い存在に、見えたんだ」
「……!」
 アグネアは息を飲んだ。ヒカリの切ない表情が意外だったからではない。それよりも。
「俺とは、やはり違う世界の人なのだ、と」
 ──彼の零した言葉が、アグネアがヒカリに対して常日頃思っていることと、まったく同じだったから。
「そ、んなの……あたしだって」
 一転、アグネアの声が震える。目指していた“スター”になれたはずの踊子が、たちまちただの、十八歳の女の子に変わってしまう。
「どうして、ヒカリくんがそういうこと、言っちゃうの」
 アグネアは笑っていた。泣きそうになりながら、それでも笑ってしまっていた。


 ヒカリこそ、アグネアにとっては雲の上みたいな存在だ。滅びかけた国の運命を背負って、これからその国の一番上に立って導こうとしている王子様は、森の片隅の田舎村で育ったアグネアとは全然違う世界の住人。
 だからこうして一緒にいられるのも、きっと、いや絶対に、ヒカリの“夢”が叶うそのときまでだろう。
「あたしだって、ヒカリくんに、おなじこと思ってるよ……だって、旅が終わったら、ヒカリくんは王様になるんだから」
 二人の、そして八人の旅路が交わってから随分長い時が経った。その果てでアグネアは“スター”になり、同志たる友を集めたヒカリは国を取り戻すべくク国へ戻る。旅は、確実に終わりに近づいている。しかしこれまでの歩みの中、少しずつ育ってきた名前のない思いが、アグネアの心と声を震わせてしまっていた。


「ヒカリくんは絶対にいい王様になって欲しいし、なれるってあたしは信じてるよ。あたしにも、ヒカリくんはいつも優しかったから。……でも、王様になったら、あたしたちもうこうして、一緒に歩いたりできないんだなって、思うと……」
「アグネア……そうか」
 俯いてしまったアグネアの耳に、石畳を踏むやわらかい足音が届く。ヒカリが履く、ヒノエウマ地方の風俗の変わった履物の音だ。
「そなたも、そのように思っていたのだな」
 はっとアグネアが頭を上げると、ほんの一歩もない距離にヒカリの端正な顔があった。どきん、とアグネアの心臓がひっくり返らんばかりに跳ねてしまう。
 ヒカリは真っ直ぐな眉を少し下げて、アグネアを見つめていた。
「俺も同じだ。王になることに躊躇いなどないが……旅が終わる時、そなたと別れることを考えると……たまらない気持ちになる」
 それを聞いた途端、アグネアは信じられないと目を見張ってしまった。互いに違う世界の人間だと思っているのに、互いに対して同じように別れ難くも思っているなんて。まるで喜劇だ、喜んでいいかどうかもわからないほどに。
 アグネアはちいさな、とてもちいさな声で尋ねていた。
「ヒカリくんも、寂しいって思うの? そ、その……王様になって、あたしと、別れること」
「ああ。……惜しいことだと、心から思う」
「そう、なんだ」
 おずおずと返事をすると、足先からじわりと体が熱くなっていくのを感じる。踊りだしたいとも、泣き出したいとも思う。この気持ちは何だろう、こんなにも激しいのに、どうしても形を捉えることができない。
 だけど、目の前のヒカリが同じ思いでいてくれることは、嬉しい、と思った。
 胸の前でぎゅっと両手を握り締めて黙りこくるアグネアに、ふ、とヒカリが微笑む。


「アグネア、ひとつ提案があるのだが」
「……なに?」
「そなたと、俺が、同じ思いでいるのなら。……せめてその時が来るまで、なるべく共に在る、というのは、どうだろうか」


「共に、在る……?」
 ヒカリのいう提案はやけに抽象的で、アグネアは思わず青い瞳をぱちくりと瞬かせた。すると、ヒカリの黒い瞳がわずかに逸らされる。
「たとえば……そうだな、この後宿屋まで一緒に帰る、というのは」
「え、」
「明日から、朝の食事も一緒に摂ろう。そなたが食事当番の時は俺も手伝う。それから、道中もなるべく、話をしよう。俺はもっとそなたの話を聞きたい。そんな風に……旅が終わるまでの時間を大事に使って、そなたと過ごすというのは、どうだろうかと思ったんだ」
 ──アグネアが、よければ。
「ヒカリくん……」
 彼が少し照れくさそうに言葉を重ねるたび、アグネアの胸の内に希望がふくらむようだった。共に在る、それはささやかな時間をふたりで分け合い隣で過ごすこと。ヒカリともうすぐ世界が分かたれてしまうことを惜しむアグネアにとって、これ以上ないほどの提案だった。
「うん、あたし、ヒカリくんと一緒にいるよ。ヒカリくんの夢が叶って、旅が終わるそのときまで」
「そうか。……ありがとう」
 ヒカリがやわらかく微笑んだ。アグネアのためだけに。
 彼の白皙の頬を、夜明けの薄明が照らしつつある。昇りかけた陽の紅い光に縁取られた彼は、アグネアの目にとても美しく映った。


「では宿へ戻ろう。朝餉は共に、とは言ったが、そなたは休んだ方がいいな」
「あはは……さすがに、そうだね。疲れちゃってるかも」
「無理はするな。あぁ、足許に用心せねば」
「うぅ……ありがと」
 疲れた脚で歩こうとするアグネアを支えてくれるヒカリの腕は、やはり力強くて安心する。彼女にとっての魔法の時間は、こうして始まっていったのだった。