あなたの星になりたい

1. 王子様とあたし

 アグネアはメリーヒルズの宿で、翌日昼も近い時間に目覚めた。眠い目を擦りながらカーテンを開けたら、お天道様がてっぺん近くまで登っていて大いに焦る。故郷クロップデール村に住んでいた頃から、早朝は朝ごはんやその他の家事に勤しんでいたアグネアとしては、これは大寝坊もいいところだ。
 当然、昨晩帰ってきたときには埋まっていた、旅の仲間の女性三人が使うベッドは空っぽだった。三人とも大舞台を終えたアグネアを気遣って、起こさずにそっとしておいてくれたのだろう。
(みんな、大舞踏祭をそれぞれ楽しんでるのかな?)
 メインステージである舞踏姫の宴こそ昨晩で終わったものの、大舞踏祭そのものが終わったわけではない。確か、後夜祭として出し物や出店はまだあったはずだ。宿の朝食はもうとっくに終わってしまった頃だろうし、出店で軽く何か食べようか。そう思って、アグネアは着替えて髪に櫛を入れ直すと部屋を出た。


 一晩夜通しで踊ったのに足取りは軽くて、アグネアは小さな声でハミングしながら宿を出る。
(ああ、やっぱり賑やかだなあ)
 宿は出し物や出店が並ぶ大通りからは外れた場所に建っているのだが、それでも終わりゆく祭りを惜しむ騒めきは伝わってくる。今日はひとりの観光客としてお祭りを楽しもう──そう思った矢先、アグネアの耳は祭りとはまったく違う音をとらえた。
(風を切る音……あっ)
 アグネアが耳を澄ませたとたん、それはすぐに止んでしまったが。間違いなく、彼女にとっては聞き馴染んだ音だった。もしかして、と思い、アグネアは宿の裏手へと足を向けてみる。すると。
「ほ、ほげっ!!」
 目の前に現れたその人を見て、アグネアは慌てて顔を逸らしてしまった。
 おそらく剣の稽古をしていたであろうヒカリが、汗を拭うためだろうか、井戸の前で上衣を寛げていたところだったから。
「むっ、アグネアか」
「ご、ごめんヒカリくん!」
 顔を思い切り背けながら謝るアグネアに、ヒカリは笑ったようだった。
「いや、構わない。こちらこそ驚かせてしまったようだな」
「ひ、ヒカリくんは悪くないよ……あたしがいきなり来たから」
 もごもごと答えながら、アグネアは胸中に不思議と懐かしさがこみ上げるのを感じていた。


(……前にも、こんなことあったなぁ)
 あれはまだ、旅の連れが八人になったばかりの頃だったはず。そして今思えばあの時から、アグネアはヒカリの存在を強く意識するようになったのだ。
 一緒にいられれば嬉しくて、お話ができると楽しくて。いつまでもこの時間が続けばいいと思ったことは、一度や二度ではない。
 それが、昨晩はなんだかすごいことを二人で約束したような気がする。果たしてあれは夢ではなかっただろうか? 朝焼けの中で見るヒカリは、本当に夢みたいに綺麗でかっこよかったけれど。


 ──などと、ぼうっと物思いに耽りかけたアグネアを、ヒカリの声が呼び戻した。
「それよりアグネア、ゆっくり休めたか」
「う、うん! オーシュットもキャスティさんもソローネさんも、起こさないでいてくれたから。もうすっかり元気だよ」
 答えながら、アグネアはちらりと視線をヒカリの方に戻す。もう大丈夫、ヒカリはちゃんと服を着ている。気まずそうにもじもじするアグネアに、ヒカリは笑いながらこう言った。
「ちょうど稽古を終えたところなんだ。アグネア、良かったら共に何か食べにいかないか」
「! もちろん!」
 アグネアはぱっと顔を輝かせた。
 旅が終わるまで、できるだけ共にいよう──そんな約束は、夢ではなかったのだ。旅をはじめたばかりのあの頃からしたら、信じられないような場面。王子様と田舎者のあたしが、ふたりっきりで肩を並べてお祭りに出掛ける、だなんて。
 二人で出店の並ぶ大通りへ歩いていきながら、アグネアはヒカリとの出会い、そして彼を意識するようになったあの時のことを、思い返していた。


   ◆


 誰もを笑顔にし、幸せにする“スター”を目指し、リーフランドの小さな村クロップデールを飛び出したとき、アグネアはたった一人だった。希望の詰まった財布を大事に握り締め、道なりに森を抜けると赤茶けて乾いた道が印象的なワイルドランド地方に出る。既にその土地はアグネアにとって未知の場所だったが、ここで商人パルテティオと出会えたのは実に幸運と言えただろう。彼はアグネアをひと目見るなり「太陽みてーだ」と褒めてくれた。
 踊りと商売という手段の違いはあっても、人々を幸せにしたいという想いは同じくしていた二人はすぐに意気投合し、旅路を共にすることにしたのだ。パルテティオの商人としての経験や知識、そして何より兄貴分のような気風の良さは、狭い田舎村に育ち世間を知らないアグネアにとって大いに助けになった。
 そうして、兄妹のようにおもしろおかしく旅を続けた二人は、やがてヒノエウマ地方の玄関口、リューの宿場に辿り着く。
 そこで、アグネアは彼と出会ったのだった。


「助力に感謝する」


 ごろつき複数人に絡まれていたのは、艶やかな黒髪を高く結った青年。腰に剣を下げていたので腕が立つのはすぐに見て取れるところではあったが、それでもアグネアは割って入らずにはいられなかった。
 そしてごろつきを追い返したあと、初めて彼女は青年の顔を見て大いに驚いた。まっすぐな眉、切れ長の黒い瞳、すっきりと通った鼻、引き締まった口元。象牙のように白い肌に、真っ赤な衣装が映えている。
 王子様みたいに綺麗なひとだべ……と、アグネアは思わず心の中で呟いていた。そうしたら。
「俺はヒカリという。そなたたちは旅の途中か?」
「ん? ヒカリって聞いたことあるな? あんた……もしかして、ク国の王子様だったりしねーか?」
 パルテティオがそう訊ねた途端、黒髪の青年は驚いたように目を見開いた。そしてアグネアはというと、
「え、えぇええ!? ほ、本物の王子様だべ!?」
 実に素直に、心からの声を上げてしまっていた。
「おい、アグネア。ちょいと声でけーって! 気持ちは分かるけど!」
「……すまない、少々人目につかぬ所で話をさせてくれないか」


 ──そんなわけで、宿場から少し離れた日陰で一通りヒカリの旅立ちの理由を聞き。庶民ふたりは、開いた口が塞がらなくなってしまった。
「おいおい……ク国は戦争好きだって噂で聞いちゃーいたが……」
「大変だったんだべなあ……大変って言っていいのかもわからないくらい……それなのに、あたしったら失礼なこと言っちまって」
 命を追われ、望まぬまま国を飛び出してきた王子に対しあんな声を上げてしまったのは、どう考えても、ものすごく、失礼だった。アグネアはあわあわと両手で顔を覆って己の所業を恥じる。
 だが、ヒカリはそんなことで怒るような人間ではなかった。
「何を言う、そなたが驚くのは当然だ。それに、先ほどは助太刀してくれただろう」
 本当に助かった、かたじけない。ヒカリは真っ直ぐにアグネアを見つめてそう言った。心からの感謝の言葉だった。彼は格好いいだけでない、優しくて温かい心の持ち主なのだとアグネアは直感した。


「あ、あの……もし良かったら、あたしたちと一緒に行かない?」


 思わず零した言葉に、彼女は自分で驚いた。そして連れのパルテティオも、当のヒカリも目を見張った。内心慌てたアグネアだったが、今更取り消すこともできない。
「探したい人、遠いところにいるんだよね? 一人で行くのは大変だと思うし、あたしもパルテティオも急ぎで行くところはないし……どうかなって」
 本当は、ただこの人と一緒にいたい。あとから振り返ればそれだけだった。そう思ったことこそきっと、アグネアの運命を決めたのだ。
 果たしてヒカリは、快くアグネアの思い付きに頷いてくれた。
「こちらこそ。先ほどの戦いは見事だった、そなたさえ良ければ、共に行かせて欲しい」
「! ありがとう……!」
 ぱっと笑顔を見せるアグネアに、ヒカリの方も微笑んで頷く。そんな二人にパルテティオがほんの少し苦笑した。
「俺もいるけどな。いいんじゃねーか、あんたタダモノじゃなさそーだ……王子様ってだけでなくな。俺は人を見る目にも自信あるんだ」
「ほほう、それは光栄だ。そなたは商人のようだが、きっと色々な話を知っているのだな」
「おうよ、任せとけ!」
 ヒカリは王子ではあるが、相当に気安い人物でもあるらしい。パルテティオとも一瞬で打ち解けてみせた様子に、これからの旅が楽しくなりそう、とアグネアの胸が弾む。
「それじゃあ、よろしくね。えっと……」
 気安そうな人物ではあるが、しかし王子様である。何と呼べばいいのか、アグネアは一瞬躊躇った。するとヒカリはアグネアの逡巡を察してこう言ってくれた。
「呼ぶときはヒカリで良い。せっかく旅路を共にするのだ、そなたたちとは対等な友でありたい」
(友達……あたし、王子様と友達になるんだ。旅ってすげえんだべなぁ)
 このときのアグネアの胸の中は、間違いなく希望で満ち溢れていた。スターになるための道には、これからもたくさんの人々や場所と素敵な出会いがあるのに違いないのだと。
 アグネアは満面の笑顔で、はじめて彼の名前を呼んだ。
「うん、よろしくね! ヒカリくん!」
 ──後にパルテティオが、俺の方が年上なのに呼び捨てなのはなんでだろな、などと言ってアグネアをからかうことになるのだけれど。


 そうしてアグネアの旅は続き、歩みを進めるにつれて旅の連れも増えていった。
 記憶を失いながらも人の命を救う信念を貫く薬師キャスティ。
 故郷を救う使命を背負って、でも飄々と伝説の獣を探す狩人オーシュット。
 恩のある教皇が弑された真相を突き止めんとする神官テメノス。
 冷静な頭脳で妻と娘殺しの冤罪に耐え仇討ちを求める学者オズバルド。
 茶目っ気の中に血の匂いと鎖を断ち切る覚悟を秘めた盗賊ソローネ。
 ひとりで始まった旅は、奇縁連ねて八人という大所帯となり、まことに賑やかなものとなった。年若いアグネアを、共に歩く旅人として対等に扱ってくれる彼らと過ごす毎日はとても楽しく、充実していた。
 だが、旅の連れがもたらしたのは楽しい時間だけでなかった。彼らの背負う旅の目的、人生で負った傷、道行きの険しさ。仲間の一人としてそういったものに触れる度、脚が震える経験が増えていく。
(あたし、この大陸のこと、世界のこと、なんにもわかってなかった)
 彼女が目指す“スター”。その輝きが照らすはずのソリスティア大陸は、あちこちに夜の暗さを抱えていた。その闇はアグネアの想像が及ばないほど深く、暗く。それらはやがて、彼女の夢にも陰りを投げかけ始めていた。


 ある日、澄んだ水の流れる川辺でキャンプを張って休んだ翌朝のことだった。今回のキャンプではアグネアとパルテティオが食事当番である。
 商人パルテティオの得意料理は肉野菜炒めだが、今朝は狩人オーシュットのおかげでかなり豪勢だ。なにしろちゃんと肉がある。薬師キャスティが道々摘んできた香草も加わり、旅の途中とは思えないほどの朝食になりそうだ。
 保存用の堅パンを切り分けていたアグネアは、朝の空気に漂ってきた匂いを思い切り吸い込んだ。
「んー、いいにおいしてきたね!」
「だろー? 今日の肉野菜炒めはかなりいけてるぜ」
 得意げに笑うパルテティオにアグネアも笑顔を返す。するとキャスティが声をかけてきた。彼女は彼女で、野営地の片付けを始めていたのだった。
「おはよう二人とも、本当にいい匂いね。お腹が空いてきたわ」
「ふふ、おはようキャスティさん」
「おはようさん! もうすぐ出来るからな」
 そうしてキャンプが賑やかになってくると、他の旅人も起き出してくる。
「おやおや、今日も野菜炒めですか。飽きませんねえ」
 パルテティオの手元を見るなり苦笑したのは神官テメノスだ。しかし口ぶりの割に表情が柔らかいのをアグネアは見逃していない。
「いーだろ、これが一番うまく作れるんだからよ」
 むっ、と唇を尖らせてみせたパルテティオではあるが、こちらも本気で拗ねたわけではない。こんな軽口の応酬ができるほどには、仲間たちもだいぶ互いに慣れてきていた。
「ウマい肉、もっとウマくなるね! いー匂い〜」
「お! オーシュット」
 ぴょこん、と狩人オーシュットが会話に飛び込んでくる。彼女の後ろにはひと仕事したと満足気な“相棒”。オーシュットは朝の狩りをしていたのだ。
「あっ、オーシュットまた獲物とってきてる! すごいね」
「へへー、このぐらい朝飯前だよ! アグねえ」
「……いやー、文化の違いですねぇ」
 さすがに最低限の血抜き腸抜きはしてきているようだが、オーシュットの引きずってきている新鮮な獣を前にテメノスがまたも苦笑する。
「分かっていると思いますが、持ち歩けるように“かこう”しておいてくださいよ、オーシュット」
「わかってるよ〜」
 のんきな口ぶりで応えるオーシュットは、キャンプから少し離れたところで石のナイフを取り出した。おそらく朝食の肉野菜炒めと一緒にこの新鮮な獣も“かこう”して食べてしまうのだろう。


「なあアグネア、旦那とソローネ起こしてきてくれねーか。そういやヒカリもどっか行ってるな」
「うん! もう朝ごはんできるもんね、行ってくるよ」
 肉野菜炒めの最後の仕上げに取りかかったパルテティオに、アグネアは軽く頷いた。学者オズバルドは、たぶん昨日も夜遅くまで火の番をしながら本を読んでいたのだろうし、ソローネも夜に仕事をする盗賊だからなのか、朝はあまり強くない。アグネアは二人がまだ残っているだろうテントへ声をかけにいった。
「なに? ああ、食事だね……この匂いは肉野菜炒めか。飽きないね」
「朝食か。……了解した」
 二人は一応、起きてはいた。まだちょっと眠そうではあったけれど。
 しかし、剣士ヒカリの姿はテントにはなかった。彼と同じテントで眠っていたオズバルドに一応尋ねてみたが、行き先は知らないという。
「どこ行っちゃったんだろ~ヒカリくん……」
 アグネアはうろうろとキャンプの周りを探し歩く。なんとなく川のある方へ足を向けると、聞きなれない風を切るような音がアグネアの耳に届いた。鳥の羽ばたきとも違う音、これはなんだったか。
 音がしたのは川辺の方だった。もしかしたら魔物かもしれないし、とアグネアが用心しながら足を進め、茂みをかき分けると。


「あ、ヒカリく──ほげぇっ!?」
「アグネア?」
 そこに立っていたのは剣士ヒカリだった。ただし、上衣がなく肌が剝き出しになっていた状態で。


「ごご、ごめんっヒカリくん!」
 慌ててアグネアはくるりと後ろを向いた。多分、彼は早朝から河原で剣の稽古をしていて、終わった頃合いに川の水で汗を拭おうとしていたのだ。アグネアが聞きつけた風を切るような音は、ヒカリが剣を素振りしている音だった、というわけだ。
 間の悪いところに出くわしてしまったというのに、ヒカリは至って平然としていた。
「いや、こちらこそ驚かせたようですまない。朝食ができた頃合いか?」
「う、うん。パルテティオが呼んで来いって」
「そうか、ありがとう。──もう大丈夫だ」
 言われて、アグネアはおそるおそる体の向きをもとに戻す。確かに、ヒカリはもうちゃんと服を着ていた。いつもと同じ、きちんと整えられた気品のある姿だ。
 だがアグネアの眼にはまだ、ヒカリの剥き出しだった上半身の印象が強く焼き付いていた。なぜなら彼の白い肌はいたるところ、包帯で覆われ傷が刻まれていたから。普段ヒカリはきっちりと旅装を着込み手や足も防具で覆っていたから、その下にある肌がそんなにも傷だらけだったなんて、アグネアは知らなかったのだ。
「どうした、アグネア。浮かない顔だ」
 俯いてしまったアグネアを、ヒカリが心配して声をかけてくれる。その言葉や声音に込められた優しさはいつもと同じで、だからこそ刻まれた傷の痛みをアグネアは思ってしまう。
「ヒカリくんこそ、大丈夫なの?」
「? 何がだ」
「だって、傷だらけだったから……包帯だって」
「ああ、これは包帯ではない。晒しといって、体の動きを補助するものだから心配しなくて良い」
「で、でも、他にも傷がいっぱいあったべ!? 痛く、ないの……?」
「……」
 ふ、とヒカリが笑った。それはごく自然な表情だった。
「確かに俺は、ク国で剣士を志し争いを経て、多くの傷を負ってきた。だが剣を以て道を拓く覚悟をした以上、これは当然のことだからな。痛みはあっても耐えることはできる」


 ヒカリがその肌に負った傷の分だけ鍛錬があり、戦いがあり、そして血を流してきたのだろう。アグネアが足の裏にまめを作り潰してきたのとは比べ物にならない過酷な経験が、彼の肌には刻まれている。それをアグネアは今日初めて目の当たりにした。
 アグネアからしたら想像もつかないような世界での経験を、ヒカリは当然のものとして微笑んでいる。それこそ絵本に出てくる王子様のような、どこにも陰りのない優しい笑顔だった。どうしてこの人はこんなにもすごいんだろう、これまでの短い旅路の間にも感じてきた歯がゆさにも近い感情が、いままた彼女の胸を震わせる。


「ヒカリくんは……本当に、強いんだね」
「……アグネア?」
 言葉の端も震えてしまって、ヒカリがわずかに眉をひそめた。
「あたしさ、母さんみたいにみんなを幸せにする“スター”になりたいって思って、旅に出たけど……ヒカリくんやキャスティさんや、オズバルドさんとかみんなに会って、あたしがどれだけ向こう見ずに夢を追いかけてたんだろうって、最近思うようになってさ」
 いかに自分がものを知らないで、人々を幸せにすると周囲に言っていたのか。この大陸のそこかしこを包む夜の深さを、アグネアは知らなくてもヒカリや皆は何らかの形で知っている。そのことは、アグネアの夢を追う脚を震わせた。
「生きてりゃ辛いこともあるって分かってて、でもそんな人たちを幸せにしたいってあたし、思ってたのに……みんなと比べたら、あたしなんにもこの世界のこと、知らなかったな、って……」
 旅の仲間たちに、アグネアが感じていたのは引け目のようなものだ。薄々彼女自身自覚していたものの、この後ろめたい感情を言葉にするのはこれが初めてだった。
「こんなあたしでも、スターに本当になれるかな。なっても……いいのかなって、最近思っちゃうの。あはは、おかしいね……何のために旅に出たのってなっちゃうのに」
 そして、初めて人にそんな弱音を零していた。故郷の村で練習を重ねていたときは、何度転んだって泣き言を人に吐いたことはなかったのに。


 ヒカリは静かにアグネアの、本当は言うつもりなどなかった言葉を聞いていた。そんな彼の態度こそ、アグネアから弱音を引き出したのかもしれなかった。あまりに真剣に彼が聞いてくれるものだから、やがてアグネアの方が恥ずかしくなってしまった。
「ご、ごめんね。こんなこと言われても困るよね」
「いいや」
 ヒカリはきっぱりと首を振った。そして真っ直ぐにアグネアに告げた。
「友が悩んでいるのだ、聞くのは当たり前だろう。……そなたも、そんな風に悩むことがあるのだな」
「え? そ、そりゃあ、あたしは平凡な人間だからさ」
「いや、そういうことではないのだ。そなたはいつも笑顔でいるから、……なんというか、想像していなかった」
「へ!?」
 唐突にヒカリから飛び出してきた言葉に、アグネアは奇声を上げてしまった。直後、かっと頬に血が上る感覚に襲われる。だがヒカリはあくまで真摯だった。
「パルテティオがそなたを太陽みたいだと言ったらしいが、俺もそう思う。そなたの踊りには間違いなく、人の心を照らして暖かくしてくれるような、そんな力がある。先日も伝えただろう、ホットだと」
「え、えーと……うん、覚えてるよ」
 忘れられるものか。華やかなニューデルスタの街のスラムに佇む、うらぶれたモントレーンの酒場で踊った後のこと。彼は店主のギルの言葉を真似て、朴訥にアグネアの踊りを褒めてくれた。あの時は照れてしまってお礼も言えなかったが、本当はとても嬉しかった。
「そなたのような力は、誰もが持っているものではない。そなたの踊りを見れば、ク国にいる友も幸せになれるだろうと思ったことはもう何度もある」
「ヒカリくん……」
 褒めすぎだよ、と言いたくなってしまったが、やっぱり嬉しかった。そして同時に、すぐ調子に乗りかける自分が恥ずかしくも思う。けれどヒカリの賞賛はそれで終わらなかった。
「それに、そなたの踊りは事実ギル殿の酒場を希望で照らしたではないか。ギル殿にホットなピアノを弾かせ、集う人々を笑顔にした。もう忘れてしまったのか?」


 ──ヒカリは、本当に励まそうとしてくれていた。勝手に迷って、勝手に弱気になってしまっていただけなのに、こんなにも真剣に。
「自信を持て、アグネア。そなたの踊りと、そなたの人に寄り添う姿勢が、あの酒場に希望の光をもたらしたんだ。たとえ旅路の途中で無力を感じたとしても、そなたが真摯であり続ける限り、その光は消えることはない。俺はそう信じている」
「……」


 ヒカリの言葉を聞き終える頃には、アグネアの胸の内には温かいものが生まれていた。
(あたし、やっぱりまだまだだったね)
 これまで十八年間の人生、何度も転ぶ中で育んできた負けん気が、再び燃え上がりつつあった。何を恐れる必要があったのだろうか、たとえ目の前にどんなに恐ろしい闇があったとしても、できること、やることには変わりはないというのに。
 人々を幸せにしたい、憧れた母さんみたいに。みんなに笑顔になって欲しい、つらいことがあってもその瞬間があれば生きていけるから。
 そんな原点に戻って、ギルの酒場で踊ったように、これからも希望を持って進めばいい。アグネアの迷いはこうして、ヒカリによって照らされたのだ。
「うん……そうだね。そうだよね。あたしにできるのは踊ることだけだもん。だったら……貫き通すしかねえべ!」
「うむ、その意気だアグネア」
 大きく頷いてみせたヒカリがなんだか嬉しそうに見えたのは、アグネアの気のせいだっただろうか。たとえそうでもアグネアは心が弾んで、思い切り笑顔を浮かべていた。
「ありがと、ヒカリくん!」
「いや、そなたの力になれたのなら何よりだ。そういえば、これから朝食だったな」
「え? あーっ、そうだった! 急がねえと肉野菜炒めが冷めちまうべ!」
 当初ヒカリを呼びに来た目的をやっと思い出し、アグネアは慌てて河原を駆けだした。その足取りは踊るように軽く──そして、浮き足だっていて。
「ほげっ!」
「アグネア!? 大丈夫か」
「おーい、おまえらおせーぞ!」
「二人の分、取っておいてあるわよ」
 心配されたり、文句を言われたりしながらも、アグネアは笑顔のままだった。 


   ◆


「──アグネア? どうかしたか」
「え?」
 急に物思いから呼び覚まされて、アグネアははっと顔を上げた。
「やはり、昨晩の疲れが取れていないのではないか?」
 目の前には紙に包まれた、野菜とチーズを挟んだパン。それに心配そうにこちらを見つめるヒカリの顔があった。あんまりにも真っ直ぐ見つめられているものだから、アグネアは動揺してとりあえず目の前にあったパンを引っ掴んでしまった。
 そうだった、いま自分たちはふたりでメリーヒルズの大舞踏祭、その後夜祭を楽しんでいるところだった。
「あ、違うの! ちょっと昔のこと思い出しちゃって、つい」
「昔のこと?」
「うん。ヒカリくんが励ましてくれたおかげで、あたしは“スター”になれたんだなあって」
 答えながら、アグネアはヒカリが買ってきてくれたパンをもぐ、と齧った。空っぽだったお腹に、素朴な軽食が沁みる。
「……そうか」
 ヒカリが落ち着いた声で相槌を打ってくれる。こんな風に彼は、あれからもずっとアグネアのそばにいてくれた。ヨミの弾く琵琶を聴くためにあれこれ調達するのも手伝ってくれたり、本番前にいなくなってしまった座長ジゼルを一緒に探してくれたり。これから踊子を目指そうと一生懸命踊るライラにも、優しい彼はたくさんの拍手を送ってくれた。


 だから、アグネアは旅路の果てまで歩き続けることができた。
 だから、本当はこれからもヒカリと一緒に歩いて行きたい。


 そして今度は、国を取り戻し王となるだろうヒカリの力になりたいと思う。──相変わらずあたしには、踊ることしかできないけれど。
「今度はあたしが、ヒカリくんを応援するね。王様になれるまで……」
「ああ。そなたの気持ち、ありがたく受け取ろう」
「……うん」
 アグネアの想いは、いまも星の光のように彼女の胸中に煌めき、彼女の旅路を導こうとしていた。