君が幸福を願う夜

   *


  薬師アーフェンが宿から出て空を見上げると、すっきりと澄んだ薄青色が広がっていた。昨日の曇り空は跡形もなく、天蓋の端にはようやく登りきったばかりの太陽が眩しく輝いて、祝祭のはじまりを高らかに告げている。
「こりゃあいい天気だぜ! おーいみんな、早く出て来いよー」
「ああ、今行く」
「……朝からうるさいな」
「まったく、アーフェン君は元気だね……っと」
 最後に宿を出たサイラスが、目の前に広がる景色に思わず目を細めた。家々の煉瓦色をした屋根にも、茂った常緑の深い色をした葉にも、灰色の石畳にも雪が降り積もり、陽の光を受けて眩しく煌めいていたからだ。
(これは、大聖堂の景色が楽しみだね)
 昨日見かけた大聖堂周辺の装飾を思い浮かべて、サイラスはひとり笑みを浮かべた。いかにも人々が絆を思い合うのに相応しい、よい天気に恵まれたと思う。
「あ、みんなもう出てきてる! おはようー!」
 少女の元気な声に男性陣が振り向けば、雪道の向こうにトレサ、プリムロゼ、ハンイットの三人がそれぞれ晴れやかな顔で立っていた。トレサが手を振りながら叫ぶ。
「『 この良き絆の日に (ディエス・ノードゥエ) 』!」
「おー、『この良き絆の日に』! みんな元気かー?」
 『円卓の祀り』の日に交わされるお決まりの挨拶を、アーフェンも手を振りながら返す。こうして二日ぶりに旅人たちが合流した。これから皆で揃って、大聖堂で執り行われる式典に参加するのだ。
「あぁ、元気だアーフェン。風邪も引いてない」
「よっし、じゃあ行くとしようぜ」
 こうして旅人たちは大聖堂へ向かった。目抜き通りの道は、前日のうちに雪かきをされたおかげでかなり歩きやすい。それでもところどころ凍ったところはあるので、特に踊子プリムロゼは滑らないよう用心しいしい歩いていた。
 そんな彼女を振り向いて見たアーフェンは、ついに心を決めた。言い出すなら、今しかない。
 急速に鼓動がうるさくなるのを自覚しつつ、歩調を落としてプリムロゼの隣に並ぶ。
「なあ、プリムロゼ。ちょっといいか」
「? 何かしら」
「……今日、だけどよ。式典のあと、ちと時間あるか? ……付き合って欲しいトコ、あんだけど」
 それを聞いたプリムロゼの翠の瞳が、珍しく大きく開かれた。そのせいでいつもより幼く見えた表情に、アーフェンは思わず目を逸らしてしまう。
 今ので、聡いプリムロゼにはきっと分かってしまっただろう。精一杯何気ないように装った誘いに、どんな意味があるか。
 くすりと笑って、彼女は言った。
「それは、デートのお誘いかしら?」
「っ……べ、つに、そういうんじゃねぇけど。……あんたがいねぇとできない買い物があるからよ」
 ああしまった、とアーフェンはすぐ内心で頭を抱えた。嘘は言っていないが、文脈は不自然だし相手にも失礼なような気がする。──素直に言っちまえばよかったのに、ちくしょう。
 羞恥と気まずさに真っ赤になって口ごもってしまう。ダメかも、と諦めが入ったアーフェンだったが。
「分かったわ。ちょっとだけよ」
「ああ、そーだよな……へ?」
 思わず出てしまった間抜けな声に、プリムロゼが小さく吹き出した。
「だって、付き合わないと困るんでしょ? そのくらいの時間はあるわよ」
「……お、おお……わりぃ、ありがとな」
 ──良かった、とりあえず了解が出た! 安堵と驚きと嬉しさとでごっちゃになりながらどうにかお礼だけ言ったアーフェンは、いそいそと前列を歩く男性陣の方へ戻っていった。
 あとは『買い物』がうまくいくかどうか。心配もあるが、その時の彼女の反応を想像すると楽しみで仕方ない。浮かれだした心の中で、アーフェンは呟いた。
(……俺、このあとちゃんと話聞けっかな……)


 サイラスが見込んだ通り、大聖堂の周りに施された十二神に因んだリボンと硝子細工の装飾は、冬の太陽の柔らかな光に照らされて鮮やかに輝いていた。訪れる巡礼客が、みな一度は足を止めて煌く飾りに見入っている。
「これ、夜にも見に来たいなぁ。この硝子細工の上にランタンつくんでしょ?」
「そうね、きっと綺麗だわ。寒いでしょうけど、私も見てみたいわね」
「曇り空の下でも十分綺麗だったけど、やはり光の下で見ると格別だね。眩しいくらいだ」
「ああ、そうだな。こんなに華やかだとは思わなかった」
 七人の旅人たちもそんなことを話しながら、大聖堂の中へ踏み入った。まだ早い時間だからか、礼拝堂の中の空席はたっぷりある。特に熱心な信者に混じってアーフェンがどんどん前列の方へ進んでいくものだから、テリオンが呆れて低くぼやいた。
「おいアーフェン……そんな前行ってどうする」
「だってよ、オフィーリアがあそこに立って説教すんだろ? だったら、顔見知りの俺らが前にいる方が励ましになるじゃねぇか」
「だからって……」
「いーから、お前も来いよ。ほれ、ここ空いてるから」
 といって、テリオンも強引に最前列、アーフェンの隣に座らされてしまう。他の仲間たちも二人に倣って前の方に席を取った。
 説教壇の奥では、オフィーリアの式年奉火で輝きを取り戻した聖火が、清らかな色を湛えながら煌々と燃えている。そのおかげで、石造りの冷えやすい大聖堂も、吐く息が白くならない程度に暖められていた。
 それから一刻程七人が待ち、礼拝堂の壁際に立ち見の巡礼客が出始めた頃になって、ようやく最初の儀式が始まった。
 聖火が燃える音の他は静謐に満ちた礼拝堂の中、讃美歌の合唱、新しい大司教による説教、『円卓の祀り』の逸話を綴った聖典の朗読と、式典はつつがなく進行していく。
 そして、荘厳で長い式典が終わりに差し掛かった頃、ついにこの時が訪れた。
「最後は、本年に見事式年奉火を全うした神官オフィーリア・クレメントによる説話です。ではクレメント神官、お願いします」
「はい」
 静まり返った礼拝堂の中に、彼女の返事は凛と響いた。それから小さな靴音とともに、神官オフィーリアが説教壇に登ってきた。
 その立ち姿に、彼女とともにオルステラ大陸を旅した仲間たちがはっと息を飲む。聖火に照らされた髪は本当の白金のように輝き、茶色の瞳はしっかりと前を見て澄み切っている。白皙の顔は穏やかで、しゃんと伸びた背筋も相まって実に堂々としていた。
 ──が、その時本人は、ほとんど地面を踏んでいる感覚もないくらいに緊張していたのだった。
(……本当に大勢の方が来ています)
 リアナに励ましの意味で叩いてもらった背中の感触は、すぐに忘れてしまった。硬い石の床の上に立っていたはずなのに、まるで雲の上を歩くように心許ない。頭の中にはひたすら、考えてきた言葉の最初のフレーズが木霊している。
 聖火の光に照らされた信者たちの顔には、一様に期待が満ち溢れていた。わたしはそれに応えることができるのか──
 その時、不意にオフィーリア、と呼ばれたような気がした。
 はっと目を向けてみると、信者たちの列の一番前に、馴染んだ顔が並んでいる。今にも身を乗り出しそうなトレサ、励ますように微笑んでいるプリムロゼと、真剣な顔をきりっと向けたハンイット。いつものように泰然としたオルベリクも表情だけは優しい。サイラスは蒼い目を細めながら頷いて、アーフェンは小さく手で頑張れと合図をしている。そして。
(……テリオンさんも、来てくれた……)
 癖のある銀髪の下、碧の瞳がこちらをじっと見つめているのにオフィーリアは気がついた。盗賊である彼はきっとこういった場には来ないだろうと思っていたけれど、確かに彼はここにいて、わたしの話を待ってくれている。
 オフィーリアはふっと微笑みを浮かべた。この時の為に集まってくれた旅の仲間たちの姿が、彼女に勇気を与えてくれた。
 ──ここに来てくれてありがとうございます。わたし頑張ります。最後まで見ててくださいね。
 旅人たちに伝わったかは分からないけれど、それでも構わなかった。彼女は一息つくと、にこやかに初めの言葉を口に乗せる。
「皆様方、『 この良き絆の日に (ディエス・ノードゥエ) 』。わたしはオフィーリア・クレメントと申します。今日という大切な祝祭の日に、皆様と一緒にこの聖火の輝きを見られることを、大変喜ばしく思います」
 オフィーリアの涼やかな声で綴られる言葉に、集まったすべての人々が熱心に耳を傾けた。彼女の話は『円卓の祀り』という日に込められた聖火教の教義に触れながら、次第に彼女自身が果たした式年奉火の話題へ入っていく。
「皆様がご存知の通り、式年奉火の儀式はリバーランドのセントブリッジ、コーストランドのゴールドショアと辿っていき、最後にここ、フレイムグレースに帰ってくる長い旅路を辿ります。オルステラ大陸にはわたしたちの力不足もあり、魔物やその他の危険がたくさんありましたから、決して楽な旅路ではありませんでした。……わたし一人では、とても達成できなかったと思います。
 そんな時、わたしは幸いにしてたくさんの助けをいただくことができました。……各地の教会や信徒の皆様方はもちろんですが、わたしには何よりも心強い、七人の旅の仲間がいてくださったことを皆様にお話ししたいのです」
 とたん、最前列に座っていた仲間たちははっと胸を轟かせた。え、と口を開ける者あり、笑みを深める者あり。それぞれが僅かな反応を見せる中、オフィーリアは大切なものを描くように、言葉を紡いでいく。
「わたしが旅する中で出会った七人は、年齢も、職業も、旅の目的もみんな違っていました。……どんな患者も助けると誓い努力も欠かさない薬師、どんな辛いことがあっても笑顔でみんなを励ましてくれた踊子、……生きる意味を探し続ける優しい剣士に、人の想いを繋ぎ元気を与えてくれた商人、探求を望み持てる知識を多くの人々に役立てた学者、魔物と人の双方に寄り添いみんなを助けてくれた狩人、そして、自由と大切なものを取り戻すべく闘い続けた盗賊」
 聖火の炎が揺れ、礼拝堂はかすかにざわついた。──盗賊だって? けれどオフィーリアは動揺もせずに言葉を続ける。
「……でも、それぞれがお互いのしたいこと、思っている感情を尊重し合い、困った時にはお互いの持てる技と力を出し合って助け合っていました。わたしが助けていただいた時は勿論、わたしの力が共に旅する仲間の役に立てた時は本当に嬉しかったです」
 何か言いたそうなのは信者たちだけでなく、袖の方で待機していた神官たちもだった。式年奉火を達成した神官自らの口で語られた剣呑な事実を前に、出方を考えているという風だ。
 それでもオフィーリアは真っ直ぐ前を見て、熱心に語り続ける。
「旅に出なければ、決して会うことはなかったかもしれない人と出会うことで、この街の神官でいるだけでは絶対に知ることのできなかった、辛く厳しい現実の一端も垣間見ることができました。オルステラ大陸にはもっともっと、聖火の導きが必要だということ……そして、たとえ聖火の導きが届かなくとも、いえ、どんな場所でも、共に生きる人々こそがお互いの導き手となることを、わたしは実感したのです。
 旅の中で出会った、嬉しいこと、辛いこと……美味しい食べ物に、綺麗な景色、そういったものを分かち合える人がいたことは、わたしの長い旅路の中で大きな慰めであり、喜びでした。そのことを肌で知ることが出来た……それが、わたしが式年奉火の儀式で得た、最も大切なものでした」
 礼拝堂が再び静まり返る。オフィーリアの言葉の行く末を感じ取ったかのように。誰もが瞬きも、息をすることも忘れた。
「皆さんもそれぞれ、人生という長い旅路を辿っている最中です。それはひとりひとり異なっていて、旅の果てがどこへ繋がっているかは、誰にも知ることができませんし、その場所へは自分の足でしか、辿り着くことはできません。でも、独りで頑張る必要はないのです。……オルステラ十二神でさえ、力を合わせながらわたしたちを見守って下さっているのですから」
 オフィーリアはここで一息つくと、微笑みを湛えながら集まった人々を見回した。
「だからこそ、わたしは改めて、祈りを捧げたいと思います。皆さんの為に、わたしの大切な仲間たちの為に、……そしてわたし自身の為に。……皆さんの絆と幸福に、聖火の導きがありますように、と」
 手を組み、刹那目を閉じる。──そして、オフィーリアは静かに説教壇を降りて行った。
 礼拝堂には万雷の拍手が鳴り響き、しばらくやむことはなかったのだった。


 式典が無事に終わり、巡礼客たちも大半が帰って、礼拝堂の人影もまばらになった時。
「いや、見事だった。オフィーリア」
「オルベリクさん……! ありがとうございます」
 礼拝堂の隅で一息ついたオフィーリアに話しかけたのは、最後まで残っていた剣士オルベリクだった。
「緊張していただろうに、立派な姿だった」
 彼の言葉に、オフィーリアはほっと心が温かくなるのを感じた。オルベリクの言葉は朴訥だが、だからこそ、聞く人に安心感と彼の正直な心を伝えてくれる。飾らない言葉が本当に嬉しかった。
「いえ、皆さんが聞いてくださったおかげですから。……すごく勇気を頂けました」
「なら、アーフェンの心意気は伝わったということだな」オルベリクはそう言ってふっと笑い、「それにしても、俺たちのことをあんな風に話してくれるとは思わなかった。驚いた」
「……あっ、えっと……どうしても言いたくって……お嫌でしたでしょうか」
「いいや? 前にあなたは俺の剣を優しいと言っただろう。けれど、そう言ったあなたのまなざしが優しいのだということが、よく分かったよ」
「そ、そうでしょうか……」
 オルベリクの剣が優しいと言ったことがあるのは事実だし、今でもオフィーリアはそう思っている。けれどそれは、自分の見方とは関係なくそうなのではないだろうか。たとえばプリムロゼに聞いても、同じような表現をしそうなのに。
 けれどオルベリクは柔らかい表情で頷いた。
「人によって、人の心や行動の受け止め方は違うものだ。……だから、これだけの時間を共にしたあなたからああいう言葉を聞けたのは、皆嬉しかったことだろうよ」
「……それなら、わたしも嬉しいです。皆さんのことを伝えたくって考えた言葉でしたから」
「そうだな、きっと皆にも伝わったさ。……今頃触発されて、それぞれ『幸福を願う』ことをしているんじゃないか」
 オルベリクは窓の外を見やった。式典が終わり、仲間たちはそれぞれの目的に向かって街を歩いている頃だ。
 いくつか思い当たることがあったのか、オフィーリアもくすりと笑った。
「そうですね。皆さん、うまくいくといいんですけど」
「……あなたもな、オフィーリア」
「え?」
 どうして自分の話になるのか、と言いたげに、オフィーリアがきょとんとオルベリクを見上げる。だが、剣士はそれ以上何も言わずただ微笑んで、礼拝堂を出て行ったのだった。


 一方で、礼拝堂を出たサイラスはひとり腕を組みながら、目抜き通りの入り口にじっと佇んでいた。
「さて、今日中に間に合うかな……?」
 昨日一日かけたというのに、彼は『贈り物』の答えを探り出せていなかったのだ。『円卓の祀り』にちなんだ屋台の出店は今日でおしまい。明日にはいつものフレイムグレースに戻るし、旅人たちも次の目的地に向けて出発する。何かをここで買うのなら今日しかない。
 どうしたものかなと物憂げにする表情に、通りを往く女性たちが熱っぽい視線を向けていたのだが、無論彼はそれに気づかない。
 だが、そんな彼に臆せず話しかけた女性がいた。
「……おい、サイラス。こんなところでぼうっとして、どうしたんだ?」
「ん? ……おや、ハンイット君かい」
 仲間の姿にサイラスは物憂い表情を崩した。もしかしたら相談できるかもしれないと思って、状況を説明する。
「いや、実はね、皆に『円卓の祀り』に因んで贈り物をしたいと思っていたのだけど、なかなかいいアイデアが出なくてね。困っていたところだったんだよ」
「……そうなのか?」ハンイットが意外そうに首を傾げた。「あなたはそういうことは得意だと思っていたんだが」
「はは、アーフェン君にも同じことを言われたよ。でも、案外難しいものだね」
「……そうだな。わたしもずっと、実は困っていたから」
「なるほど。じゃあキミは答えを見つけられたんだね?」
 ハンイットの過去形の言葉を聞きとめたサイラスが尋ねる。果たしてハンイットはこくりと小さく頷いた。
「方向性は。……でも具体的にはまだ決まっていないんだ。サイラス、もし時間があるならわたしに手を貸してくれないか?」
「おや? それは興味深いね。キミが私に頼み事とは珍しい、ぜひ聞かせてくれ」
「ありがとう。あなたが『贈り物』を探すついでできることだけで構わない。……実は」
 かくかくしかじか、とハンイットが説明すると、サイラスは目を輝かせた。──実に彼女らしい、いいアイデアじゃないか。
「それは素晴らしいね、私も楽しみだよ。ぜひ手伝わせてもらいたい」
 快く返事を貰えてハンイットもほっとしたのか、目元を緩ませた。サイラスの知識と探求心があれば、ハンイットのアイデアはより良い形になるだろう。
「共同で贈り物というのも『円卓の祀り』らしくていいかもしれないな。少しずるいかもしれないが……こういうのは気持ち、そういうことだと思うね」
「あぁ、わたしもそれでいいと思う。あなたの協力があればきっと良い形になるだろうから」
「よし、じゃあ早速取り掛かるとしようか」
 二人は頷き合うと、どうやってアイデアの実現に取り掛かろうかを、つぶさに検討し始めたのだった。


「それで、アーフェン? 一体どこへ行こうっていうの?」
「おう。そんな遠くねえぞ」
 朝に交わした約束の通り、アーフェンとプリムロゼは連れ立って大聖堂を離れていくところだった。
 プリムロゼがこちらを見上げているのは分かっていても、どうしても顔が見られないアーフェンは、ぶっきらぼうに一言だけ返してどんどん進んでいく。──ただし、重いブーツに慣れない彼女のために、しっかり歩調を落としながら。
「買い物なら目抜き通りでしょう?」
 彼が賑やかな屋台の通りを離れていくのに気づいて、プリムロゼは首を傾げた。
「いや、場所はもう決まってんだ」
 アーフェンが向かった先は、祝祭に合わせて立てられた屋台が集まった場所でなく、フレイムグレースに元から構えられた店が並ぶ通りだった。
 その一軒の前にまで来た時、ようやく立ち止まる。看板に象られたかたちを見て、プリムロゼが呟いた。
「……靴……?」
「じゃ、入るぞ」
 端的に告げて、アーフェンはその店の扉を押し開ける。店内には品物を油の染みた手拭いで磨いている職人がいて、アーフェンに気づくとニヤリと笑みを浮かべた。
「お、来たな色男。待ってたぜ」
「ちょっ……その言い方やめろって親父さん、そんなんじゃねぇから」
「……どういうことかしら?」
 腕を組んだプリムロゼが聞く。アーフェンはまた赤くなり始めた頬を手のひらで押さえつけながら、ようやく目的を明かすのだった。
「なんつーか、その……『円卓の祀り』だからよ。だから俺なりの、あんたの『幸福を願う』気持ちを、ってな」
「え……?」
 ちょうどその時、職人が紙でできた箱を奥から取り出してきたところだった。あんたから渡しな、と職人がアーフェンに箱を押し付けたので、アーフェンはそれを当惑するプリムロゼに差し出した。
「雪ん中でも平気だっつー、動きやすい靴だ。ブーツは重いの分かってるけど、サンダルじゃやっぱ足にも傷つくしよ」
「……。開けて、いいかしら」
「おう、もちろん」
 プリムロゼが箱を開ける間、アーフェンはいても立ってもいられなかった。今のところのプリムロゼの反応では、迷惑だったかそうでないかも分からない。やきもきする中箱が開き、さらに包み紙がプリムロゼの細い指で開かれる。すると──
「……これ……!」
 中に入っていたのは、よくなめした柔らかい革で作られた、足首までを覆う短いブーツだった。茶色の革はプリムロゼの鳶色の髪と似た色をして、それが蝋をしっかりつけた糸で縫い合わせている。縫い合わせた糸もデザインのひとつで、足の甲に開いた花のような模様を描いている。そしてその花の中心に、丸くカットした赤い石がひとつ、はめ込まれているのだった。
 プリムロゼは一言も言葉を発さない。縫い留められたように、翠の瞳がじっと靴を眺めていた。アーフェンが恐る恐る尋ねる。
「……き、気に入らねぇ、か……?」
 だがプリムロゼは答えず、そっと箱を床に下ろした。そして職人の方を向いて聞く。
「これ、履いてみても構わないかしら」
「ああ、勿論だ。合わないところがあれば直すよ」
「ありがとう」
 そしてプリムロゼは履いていたブーツを脱ぐと、新しい靴に素早く履き替えた。呆気に取られるアーフェンを尻目に、新しい靴で店内を一周。かと思いきや、その靴先が唐突に跳ねた。
「……!」
 アーフェンと職人が同時に息を飲む。プリムロゼは店の真ん中でステップを二、三歩分踏み、その場でくるりとターンを決めたのだ。軽やかに着地した時、彼女はその美しい顔に柔らかな微笑みを湛えていた。
「これ、動きやすくて踊るのも苦にならないわ。本当にぴったり」
 それを聞いて、アーフェンが大きく息をつき、職人がほっと笑みを浮かべた。
「そいつは良かった。一晩かけて調整した甲斐があったよ」
「調整?」
 また首を傾げたプリムロゼに、職人はひらりと一枚の紙を掲げてみせた。そこには足の型と、長さを示す目方を記されている。
「昨日はびっくりしたんだぜ、この兄ちゃんがよ、若ぇ商人の嬢ちゃんと一緒になって、この足に合う女物の靴はねえかって言ってくるもんだからよ」
 そういって職人が呵々と笑えば、また照れの入ったアーフェンががりがりと頭を掻く。
 アーフェンは、一行がフロストランドへ入る前にプリムロゼが間に合わせ用のブーツを調達した時、具合がどうかを見ると言って彼女の足の型を取っていたのだ。もちろんそのことを覚えていたプリムロゼは、そういうことねと合点がいく。同時に、どうして昨日の昼にトレサがアーフェンと一緒にいたのかも、その夜にトレサが意味ありげに仄めかしたことにも納得がいった。
「あなた、その時から考えてたのね? びっくりしたわ」
「おう……お前がサンダルを気に入ってたのは分かってたけど、それだとどうしても旅するんじゃ困るだろ、と思ってよ」
 プリムロゼの踊りに対する拘りも矜持も、アーフェンは知っている。それでも、彼女が自分の道を歩いていく手段は、踊子のサンダルだけでないことを分かって欲しかったのだ。
「たまには違うの履いたっていいだろ。サンダル履けねぇ時だけでいいから、使ってくんねえかな。……迷惑じゃなければ」
「……そんなことないわ。……ありがとう」
「……おうよ」
 本当に嬉しそうに微笑んだ踊子と、やっぱり照れて顔を明後日に向ける青年を見ながら、店主である職人は「めでたしだな」と呟くのだった。
 店を出る時も、プリムロゼは貰った新しい靴を履いたままだった。急ごしらえだったにもかかわらず彼女の足に合った靴は、たとえ寒い雪道でもプリムロゼの足取りを邪魔しない。むしろ、暖かく包み込んで支えてくれるような気さえする──足だけでなく、履く人の心のことも。
(いつもそうやって、アーフェンは私の傍にいてくれてたわね)
 彼が旅の仲間でなかったとして、果たして私は旅の目的を遂げられただろうか。プリムロゼが一番辛かった時、少ない言葉とよく効く薬で彼女の傷に寄り添ってくれていたのは紛れもなく、この照れ屋でお人好しな青年だった。
「ねえアーフェン、実は私からも渡したいものがあるの」
「へ?」
 自分の目的が果たせたことですっかり気が抜けていたアーフェンは、唐突な申し出に素っ頓狂な声を上げる。
「これは私なりに、あなたへの感謝の気持ちと……それから、幸福を願う気持ち、よ」
 そう言ってプリムロゼが小さな紙包みを差し出してきた。目を白黒させながら、アーフェンはそれを受け取る。包みを開けてみると、そこには琥珀色の何かが入った小さな瓶が出てきた。
「……整髪料……?」
「だって、あなたいつも髪が適当なんだもの。せっかく男前の顔してるのに勿体ないわ」
「はぇっ!?」
 突然の誉め言葉に、アーフェンはあやうく瓶を取り落としかけた。彼女から見た目のことを言われるのは初めてだったのだ。
「きちんと整えたらもっと格好良くなるわよ。いざという時に必ず役に立つし、貰ってちょうだい」
「そ、そりゃ……せっかくくれんだし、貰うけど……俺、そういうのやったことねぇしなあ……」
 といって、無造作に束ねた癖のある髪をがりがりと掻くアーフェンだった。今まで彼は髪を整えたり服装に気を遣ったりというのを考えたことがなかった。これからだって、そういう『整える』場面があるとは思えない。
 眉をしかめたアーフェンを見て、プリムロゼはくすりと笑った。
「だったら、初めは私がやってあげるわよ。そう難しいことじゃないし」
「……ほんとか?」
「ええ、本当よ。やり方も教えてあげる」
「そっか。……そりゃ間違いねえな。じゃあ、そん時は頼むぜ」
 任せなさい、とプリムロゼが腰に手を当てる。それがどこかの商人の少女がする仕草のようで、アーフェンは吹き出してしまった。分かっていてその仕草をしたプリムロゼも、一緒になってくすくすと笑う。
 そうして二人で笑い合ったあとで、プリムロゼがこう言った。
「ところでアーフェン、このあとまだ時間あるかしら」
「ん? 別に暇だけど……なんでだ?」
「せっかく新しい靴貰ったんだもの、もう少し歩いてみたいのよ。……付き合ってくれない?」
「……」
 アーフェンは目を瞠った。上目遣いでこちらを見るプリムロゼの表情がいつもと違う気がしたのだ。──これは、ひょっとして。
「そいつは、デートの誘い……ってことなのか?」
「もう、わざわざ聞くなんて野暮な男ね。……まあ、そう取ってもらっても構わないけれど」
「!」
「私から誘うなんて滅多にないんだから。……さあ、どうする?」
 どうする、なんて聞かれても、アーフェンが答えたい言葉などひとつしかありえなかった。
「勿論、付き合うぜ。……断るかよ」
 それを聞いて、プリムロゼは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ、ありがと。……じゃあ、まずあっちの目抜き通りに行きましょう。美味しいクラップフェンがあるのよ」
「へえ、そいつはいいな。ハンイットのとどっちが美味いかな?」
「それは食べてのお楽しみね」
 と言って、プリムロゼが先に立って石畳を歩きだす。だが、そこは運悪く溶けた雪が凍ったところだったのだ。
「っ!」
 声にならない声を上げて、氷に足を取られたプリムロゼがよろめく。彼女自身倒れるかと思ったその時、アーフェンが腕を掴んで支えてくれた。
「……大丈夫か?」
 助けてもらったというのに、プリムロゼは礼も言えなかった。張り切っていた分だけ羞恥も大きく、じわりと頬が赤くなってしまう。
 そんな様子が可愛らしいなと思ってしまったアーフェンは、わざと仕方ねえなと呟いてみせた。そして。
「ほれ、これ掴んでろって」
 プリムロゼに向かって、大きな左手が差し出される。彼女が見上げると、苦笑したようなアーフェンの表情が、年下のくせに妙に男らしく見えた。
 そんな顔をされて断れる女なんかいないわ──そんなことを言い訳のように内心で呟くと、プリムロゼは差し出された手に自分の右手を重ねた。
「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。しっかりエスコートしてよね」
「おう、任せとけ。店はどっちだって?」
 プリムロゼが指で方向を示し、二人で連れ立ってそちらの方へ歩き出す。
 繋いだ手は温かく、並んだ足取りは確かだ。凍った道も人混みで思うように歩けない道でも、今なら転ぶ気がしなかった。


 雪道など慣れたつもりでいた。だから、少し過信してしまったのかもしれない。
「……、困った。買い過ぎたか」
 両腕に荷物を抱えたまま、狩人ハンイットは通りの真ん中で立ち尽くした。腕の中の紙袋には、目抜き通りの店で買い求めたものがいっぱいに詰まっていた──にんじん、じゃがいも、蕪といった根菜類から林檎やオレンジなどの果実、それから普段のフレイムグレースには売られていないような、温かい地方で育つ葉物野菜やハーブの類、などなど。
 重さは問題ない。日頃から鍛えているし、狩りでしとめた獣はこの荷物のざっと倍は重いのだから。だが、雪と張った氷で滑る石畳という足場の悪さの中、視界が買い求めた品に塞がれて見えないということが問題なのだ。うっかり転んで食材を台無しにしようものなら勿体なくて仕方ない。既に二、三度転びかけた今、どうしたものかと立ち止まってしまったのだった。
(しかし、サイラスも別の方に行ってもらっているからな……手伝ってもらうのも難しい)
 そもそも学者の力ではこれだけの荷物を持つこと自体難しかっただろうが、幸か不幸かハンイットの頭にそのことは浮かばなかった。ともあれ、どうにかしてこの荷物は持ち帰らねばならない。用心しながらハンイットが足を運び始めた、その時だった。
「あ、しまった!?」
 紙袋の口からひとつ、林檎が転がり落ちてしまった。幸い、雪の深いところに飛び込んだそれは割れこそしなかったが、この荷物を抱えた状態で落ちた物を拾うのは至難に近い。
(っ、勿体ないことを……)
 内心嘆きながら、どうにか拾ってみようと試みたハンイットが膝を曲げると、横合いから大きな手がぬっと伸びてきた。
「!?」
「誰かと思ったら、お前か」
 頭上から降ってきた男の声はどこかで聞いたことがあった。はっと顔を上げると、毛皮をまとった武骨な顔の大男が立っている。
「……お前は、アレーク……」
「雪道の上でそんなに荷物を抱えるものではない」
 言いながら、大男アレークは拾った林檎を、ハンイットの紙袋の中に押し込んでくれた。
「あ、あぁ、すまない」
「……俺が持とう。どこへ行くところだ」
 その申し出をハンイットはありがたく受けることにして、紙袋をアレークに預けた。大男はこともなげに紙袋を片腕で受け取り、大股の確かな足取りで歩きだす。
「お前たちも、ここにいたんだな。……巡礼か」
「そんなところだ。仲間のひとりが神官で、今日説話をしてくれたから。……アレークは聞いてなかったか?」
「……俺がここに着いたのは、ついさっきだ。突然スサンナ様が、出店のクラップフェンが食べたいと言い出して」
「クラップフェンを?」
 まったく予想していなかった理由に、ハンイットは目を瞬かせた。白雪の村スティルスノウで占い師ことスサンナに仕えているはずのアレークが、どうしてこんなところで一人でいるのかは不思議に思ってはいたが。
「ついでにお参りの一つでもしてこいと言われて、村を追い出された」
 その言い草に、ハンイットは思わず喉を鳴らして笑った。
「追い出されたって……。確かに、プリムロゼに勧められてさっきサイラスと食べたところだけど、あれは美味しかった。スサンナさんが食べたがるのも無理はないのかな」
「……?」
 アレークの片眉がぴくりと上がった。彼女の口から飛び出した名前が気になったのだ。
 サイラスといったら、確か学者をしている、同性から見ても整った顔立ちの男だったはずだ。──二人で食べたのか?
 詳しく聞くべきか否か、アレークが迷っていると。
「おーい、ハンイット君!」
「あ、サイラス」
 まさにその学者サイラスが、彼もまた両腕に大量の食材を抱えながらいそいそと雪道を歩いてくるところだった。ハンイットの姿を見つけ、ほっとしたように整った表情を笑みの形に緩める。
「そちらの首尾はどうだい?」
「あぁ、悪くない。サイラスの方は……っ、それよく見つけてきたな」
「ああ、ニジザケかい? 雪を使って凍らせていたらしいんだよ、悪くなりかけだからと店主も安く譲ってくれてね」
「それは良かった。これで主菜がちゃんとしたものになる」
「お役に立てたなら幸いだ。……ああハンイット君、クラップフェンの材料は忘れていないよね? さっきの店のも良かったが、やはりキミが作ったものを食べたいからね」
「分かってるさ、ちゃんと買ったからそう急くな」
 次々と繰り出される和やかな会話を聞きながら、アレークの表情はどんどん険しくなっていく。これが嫉妬というやつか、彼の人生の中で初めて体験する感情の嵐に彼自身がついていけない。
 その時、不意にサイラスが蒼い目をアレークの方に向けた。
「おや、あなたは……確かスティルスノウの」
「……あぁ、アレークだ」
「アレークはわたしの荷物を代わりに持ってくれたんだ」
 ハンイットが事情を説明すると、サイラスは「それはありがとう」とにこやかに礼を言った。
「この足場では大荷物は辛いだろうからね、助かったよ」
「……」
「何か礼をしたいところだが……そうだハンイット君、アレークさんも私たちの晩餐に招待したらどうかな」
「っ!?」
「あぁ、それは良いな。せっかくの『円卓の祀り』なのだし」
「……!!」
 アレークは思わぬ展開に目を剥いた。──二人連れではなかったのか。呆然とするアレークに向かって、ハンイットは至って普通にこう言った。
「今日の夜はエリザの家で、わたしたちの旅連れみんなで夕食をとるんだ。良かったら、あなたも来ないか?」
「……」
 アレークは今初めてすべてを理解した気がした。きっと占い師スサンナはこの展開を見通していたに違いない。だからクラップフェンが食べたいだなんて、まったく意味の無い頼み事をしたのだろう。
(……まったく、あの方には敵わんな)
 内心の苦笑は表に出すことなく、アレークはその誘いに素直に応じたのだった。


 屋台の店主から渡された木のマグから、白い湯気がふわりと上がる。同時に、ハーブのつんとした香りと柑橘の柔らかな香り、そして温められた葡萄酒の芳醇な香りが、プリムロゼの冷えた鼻先に優しく触れた。
(あったかい、いい匂いだわ)
 せっかくいい香りだというのに、隣に立つ青年はもう半分くらい飲んでしまったらしい。相好を崩した顔で店主に絡んでいた。
「っかー、あったまるぜ〜! 親父さんありがとな」
「はは、そう言ってもらえると俺もあったまるよ。そちらのお姉さんは? 熱過ぎなかったかな」
「平気よ」
 そう言って、プリムロゼもこくりと一口ホットワインを飲み込む。たっぷりと蜂蜜を加えて甘く作られたそれは、一口飲んだだけで、冷えた身体をお腹の芯から温めてくれる。
 あれからプリムロゼはアーフェンと二人、屋台を見て回ったり大聖堂に戻って華やかな装飾を眺めたりと、存分に祝祭を楽しんだ。幸い新しい靴は靴擦れを起こすことなく、今もしっかりとプリムロゼの足元を支えてくれている。
「美味しいわ。雪国で飲むホットワインってどうしてこんなに美味しいのかしら」
「そりゃあ、厳しい寒さの中でも生き延びようとする強さと優しさがいっぱいに詰まってるからね。お姉さんどこの人?」
「出身はフラットランドよ。長いことサンランドで働いていたけれど」
「そりゃこの寒さは堪えるだろうなあ。お兄さん、ちゃんと気をつけてやんなよ? 寒さは女の敵だって、うちの女房もよく言ってるんだ」
「おう、分かってるぜ。俺だって薬師だからな」
 そう言ってアーフェンが大きな声で笑った。調子いいんだからと苦笑しながら、プリムロゼはもう一口ホットワインを口に含む。
 けれど多分、気をつけてくれているのは本当だった。アーフェンは折を見ては、こうやって温かい飲み物や食べ物を売っている屋台に連れて来てくれていたからだ。それが薬師としての立場によるのか、それ以外にも何かあるのか──分かってしまうような気もするけれど、まだ分からないでいたい気もする。そんな曖昧な状態が、プリムロゼの心の底に隠した柔らかい部分を甘く突くのだった。
 だが、そんな楽しい時間もそろそろ終わりだった。日は傾いてきて、冷え込みも増してきている。それに、今夜はみんなでエリザの家で夕食を取る約束だった。ハンイットが腕を振るってくれると聞いていたので、プリムロゼはもちろん、アーフェンも夕食を楽しみにしていた。
 ホットワインを飲み終わると、二人はお互いに名残惜しがっていることをなんとなく感じながら、傾いた西陽の差す中エリザ家の方へ戻っていった。あんなに賑わっていた目抜き通りも今では人通りが減り、屋台の中には店仕舞いが始まったものすらある。
 そんな時、アーフェンが何かを見つけたのか急に立ち止まった。
「あら、どうしたの?」
「いや、あいつ……」大聖堂へ続く石段の下に立つ、黒いフードを被った男をアーフェンが指して言う。
「ひょっとして、オーゲンじゃ……」
「え?」
 プリムロゼがそちらの方を見る間もなく、アーフェンはとっとと駆け出していく。
「おーい、オーゲン……オーゲン!」
「……アーフェン君?」
 黒いフードの男はこちらに気づいて振り返った。憂いを帯びた低い声に、浅い皺の刻まれた顔立ちは、確かにプリムロゼも知る凄腕の薬師のものだった。
「まさかこんなとこで会うとはな。元気か?」
「ああ、今のところは。……しぶとく生き延びてしまっているよ」
「まーた、そーゆーこと言うんだからよ。あんたも巡礼か?」
 そういえばオーゲンは聖火教を信じていただろうかと思いつつ、アーフェンは聞いてみた。おそらく違うとは思うが──
「……いや、たまたま近くを通ったから、少し寄ってみただけだ。……昔、妻と来たことがあったから」
「!」
 アーフェンははっと息を飲んだ。オーゲンは心無い患者に命を奪われた妻を、今でも深く愛しているのだ。いつだったか、妻の墓に備える花を探していた時のオーゲンの姿を、アーフェンは思い出した。
「奥さんとは、『円卓の祀り』の時期にここへ来たのかしら?」
 追いついてきていたプリムロゼが尋ねると、オーゲンが頷く。
「私は興味なかったのが……妻が大聖堂を見たいというのでね。式典にも出て……今と同じような飾り付けだった。懐かしい」
「それで、見に来てたのか」
「まあ、そんなところだ。……もう、宿に戻るところだが」
 ふ、とため息をついて、オーゲンが薄い笑みを浮かべた。その顔は穏やかではあるけれど、ひどく歳を重ねたような影が差している。
 アーフェンとプリムロゼは同時にお互いと顔を見合わせた。交わった視線と表情で、お互いが同じことを考えていることを悟る。いいよな、いいわと簡単に頷きあうと、アーフェンが言った。
「なあオーゲン。俺たち、これから皆で夕飯食うんだ。うちの料理自慢の狩人が腕振るってくれてさ。……せっかく『円卓の祀り』に会えたんだしよ、たまには一緒に飯食わねえか?」
「みんなで一緒に食べた方が美味しいわよ。どう?」
 オーゲンははっと顔を上げて、並んで笑顔を浮かべる二人を見つめた。まだ若い二人の後ろには、暖かな色をした光が差している。──これから歩んでいくのだろう旅路の先を照らす、希望と喜びの色をした光が。
「……いや、遠慮しておくよ。私がいたら邪魔になる」
「またそういうこと……んなことねぇってのに」
 アーフェンがあからさまにため息をつくが、オーゲンはなお首を横に振った。
「それに、今夜は静かに過ごしたいんだ。久しぶりにゆっくり妻のことを思い出せたから」
「っても……」
「そういうことなら仕方ないわね」
 プリムロゼがさっと手をアーフェンの前に差し出して、言い募ろうとした彼を制した。
「それこそ、私たちがお邪魔したら悪いもの。……会えて嬉しかったわ、オーゲンさん。縁があったらまたどこかで会いましょ」
「……仕方ねぇなあ。次会うまで死ぬんじゃねえぞ」
「ふ、死んだら会うも何もないだろうに。……だが、誘ってくれたことには礼を言うよ」
 ありがとう、と言ってオーゲンが微笑む。その顔にはもうさっきまでのような影はなく、毒気を抜かれたアーフェンは半ば呆れたように笑った。
「ははっ、まさかあんたから礼を聞けるとはな。『円卓の祀り』の奇蹟さまさまだぜ」
「ふふ、またの機会が楽しみになったわね。……それじゃ、おやすみなさいオーゲンさん。『この良き絆の日に』」
「……ああ、おやすみ」
 小さく頷くと、オーゲンは二人に背を向けて宿のある通りへ歩き去っていったのだった。
 黒いフードの背中を見送りながら、アーフェンがふんと鼻を鳴らす。
「あーあ、やっぱつまんねえやつだったな。あいつ」
「そういうこと言わないの。それだけ大事だったんでしょう、奥さんのこと」
「……そうなんだろうけどよ」
 言いながら、ちらりと横目でプリムロゼを見るアーフェンだった。もしかしたらこの先いつか、オーゲンのように懐かしむ日が来るのだろうか──彼女と初めて二人で過ごした、今日という祝祭の日を。
 すると不意にプリムロゼと視線が合って、アーフェンの心臓が一瞬どきりと大きく跳ねた。
「ほら、私たちも帰るわよ。夕食に遅れたら大変だわ」
「お、おお。そーだな」
 彼女の言葉に、アーフェンはぶんぶんと首を振って感傷を追い払った。日はどんどん陰り、街にはランタンの灯がついて、夜が足早に迫っていることを示していた。早く帰らなければ足元が危うくなってしまう。
 楽しかった時に未練を残しながらも、アーフェンは心の中に一つだけ確信があった。もし今日という日を懐かしく思う時が来ても、その時の自分は間違いなく幸せだということだ。そう、今別れたばかりの、彼にとってもうひとつの人生の目標となった、厳しくも優しい薬師のように。
(こいつにとっても、そうだったらいいな)
 冷えた空気の中で、隣を歩く彼女から温もりが微かに伝わってくる。たったそれだけのことが、どんなに幸せか。
 ──プリムロゼ・エゼルアートという女性が、今この場も、あとで今日という日を思い返してくれた時にも、どうか幸福でありますように。
 次第に大きくなる家の明かりを望みながら、アーフェンは心から願うのだった。