4.『夜霧は明けて』

 明くる朝、山間に太陽の端が顔を出す頃。
 日差しが山に遮られているせいでまだ薄暗い中、ウォームソレイスの古い宿『水晶の実り亭』の前に数人の旅人が集まっていた。


「みんな、身支度はできたか?」
 狩りの支度を調えたハンイットが、宿の前に集まった仲間たちを見回す。それに薬師アーフェンが、鞄を肩に担ぎ直しながらおう、と応える。
「……おい、オフィーリアはどこだ?」
 瞼を擦っていた盗賊テリオンが、ここにいなければならない連れが一人足りないことに気づく。
 言われて、ハンイットがそういえば、と首を捻る。
「わたしより早く起きていたのは確かだが……リンデ、知らないか?」
「グル……」
 リンデの弱々しい反応に、どうやら彼女も知らないのだとハンイットは理解する。困ったな、と周りを見回したところで、


「皆さん、すみません……!」
 当のオフィーリアが小走りでやってきた──それも、村の広場へ続く道の方からだ。後ろに、フードを被った誰かを連れている。


「オフィーリア! いったいどこへ行っていたんだ? それに、後ろのその人は?」
「ごめんなさいハンイットさん、この人は……」
 オフィーリアが事情を説明しようとしたところへ、宿からもう一人バスケットを抱えたおさげの少女、ハンナが現れた。
「皆さん、お昼の差し入れを……って、ユリアン!? どうして!」
 彼女はオフィーリアが連れてきた、フードを被った少年の姿を見て声を上げた。テリオンがちらりとハンナへ一瞥して訊ねる。
「なんだ、知り合いか?」
「う、うん……あたしの幼馴染よ。ユリアン、なんで……」
 ハンナに聞かれて、フードの少年──ユリアンはぶっきらぼうに、しかし戸惑いは隠せないまま答えた。
「……このお姉さんに頼まれたんだよ。『山の主』を探しに行くんだって……おれの力が必要だってきかなくて」
 ユリアンの言葉を引き取って、オフィーリアは彼をハンイットへ紹介した。


「ハンイットさん、この方はずっと山で狩りをしている人で、この辺の山の魔物にも詳しい方なんです。きっと、わたしたちの力になってくれると思いますよ」
 ハンイットはその少年のフードの下が痘痕だらけなのにすぐ気づいたが、敢えてそれについて尋ねはしなかった。代わりに、片手を差し出してこう言った。
「そうか、それは頼もしい。わたしは狩人ハンイットだ、そしてこっちは相棒のリンデ。いきなりで申し訳ないが、力を貸してくれ」
「ガウ!」
 挨拶がわりに吠えた雪豹にユリアンは少し戸惑ったようだが、それでも何も言わずハンイットの差し出された手を握り返した。そこへ、薬師アーフェンも人なつこくユリアンへ声をかけた。
「俺は薬師のアーフェンっつって、オフィーリアの旅の連れってとこだ。今日はよろしく頼むな」
「……あ、ああ……よろしく」
「あと、こっちはテリオンな。そういや、なんか名前似てんな?」
「ふん、どうでもいいことを」
 盗賊の青年はアーフェンにひと睨みくれてやったものの、ユリアンに対しては特に何も言わず、挨拶代わりに頷いてみせただけだった。


 彼らが突然の同行者をあっさり受け入れたのは、オフィーリアと共に旅をしていればこういうことがよくあることだった故だが、ユリアンにとっては大いに戸惑うべき事態であった。
 何しろ、彼は同じ街の住人からも、見た目の醜さゆえに遠ざけられていたのだから。
 彼と古い知り合いのハンナも同じ心境のようで、出かける前にと持ち物の確認をし合う旅人たちをしばし呆然と眺めていたが、やがて自分が外へ出てきた本来の目的をはっと思い出す。
「あ、あの旅人さんたち、これ、お昼に持って行って欲しいんですけれど」
「ん? あぁ、手間をかけさせたな。ありがとう」
 ハンイットが振り返ってハンナから差し出された布包みを受け取る。できたてなのか、布包みはまだほんのりと温かかった。
「干し果物を入れた焼き菓子です、日持ちするので。……来るって知ってたら、ユリアンのも作ったのに」
「え、ええ……いいよ。おれは自分で食料用意してる」
「……。気をつけてね」
 しっかりとユリアンの顔──フードに隠されてはいるが──を見て言ったハンナに、ユリアンは何も答えずそっと首を横に向けた。
 そんな様子を見て、アーフェンがにやりと口の端に笑みを浮かべる。
「へえ、いいねぇ」
 思わず下世話な呟きを漏らすと、テリオンが呆れた顔で思い切りアーフェンの足を踏んだ。んぎゃ、と早朝の静寂に呻き声が響く。


「ありがとうございます、ハンナさん。それでは、行ってきますね」
 オフィーリアが改めて挨拶すると、ハンナが無事に帰ってきてねと応じる。しかし、なお心配そうな彼女へ、仕方ないなとテリオンが声をかけた。
「そんなに心配しなくとも、あんたの依頼はこなしてやるよ」
「……え、」
「『本物』は、何も屋敷にしかないわけじゃないらしいぞ。うちの学者先生の推測が正しければな」
「……っ」
「屋敷の方はあいつらに任せておけ。報酬は弾めよ」
「……とびっきりの温泉をご馳走してあげるわ」
「フッ、そいつはもう十分だ」
 と、テリオンが片頬を上げたところで、何してんだよとアーフェンから声がかかる。そこで、彼は葡萄色のマフラーを翻して山へと向かう。
 日の昇りきらない山中はまだ夜闇同然で、その中へ消えていく四人と一匹の旅人、そして一人の幼馴染を、宿屋の娘はいつまでも見送っていた。


 村の狩人以外ほとんど誰も足を踏み入れない山中は、街へ来るまでの山道と違い、歩きにくいことこの上なかった。激しい起伏に深く茂る藪、至るところ張り巡らされている木の根が、旅人たちの足を捕え行く手を遮る。
 地元馴染みの狩人ユリアンの案内がなければ、とても満足に探索などできなかっただろう。
 うってつけの案内人を見つけてきたオフィーリアに、ハンイットは心から感謝した。そして、薄暗がりの中でも的確に獣道を見つけていく当の少年狩人にも。


「あなたはすごいな。この山の獣道はほとんど把握しているのか?」
「……別に、全部じゃない。この辺はおれの狩場だから、慣れているだけで」
「だが、動物の徴の見つけ方、方角の定め方──ひとつひとつ的確で、丁寧だ。お前には才能があるし……それに、きっと素晴らしい師匠に恵まれたんだな」
「……」
 ハンイットの温みを帯びた言葉に、少年狩人の痘痕だらけの顔が少し赤くなる。それでも、彼はこれまでで一番芯のある声で答えた。
「ああ。おれのじいちゃんは、村で……いや、この地方じゃ一番の狩人だ」
 それを聞いて、ハンイットは思い当たることがあった。
 確か昨日会った老人が、孫の痘痕のことを何か言っていなかったか。もしハンイットの推測が正しいなら、あの老人の話にも、年の割にしっかりした足取りにも納得がいく。
 ──いい師弟関係、いや家族……なのだろうな。
 ハンイットの頬に、わずかな微笑みが浮かんだ。
「そうか。……では、あなたのおじいさんの力も借りるつもりで、あなたのことも頼りにしよう」
「……」
 ユリアンはただ黙って頷いた。そんな様子を、彼をここまで『導いた』オフィーリアが嬉しそうに眺めている。


 そこへ、アーフェンが無邪気に狩人の少年へ訊ねた。
「なあユリアン。あんた『山の主』の居場所に心当たりってあんのか?」
 途端、狩人の脚がぴたりと止まった。さっと振り返って旅人たちを見やる──痘痕だらけの顔が晒されるのも構わず。
 四人の連れへ向けられた緑の瞳には、鋭い眼光が宿っている。
 その剣幕に、思わず訊ねたアーフェンの足が止まった。続けて、他の旅人たちも足を止める。


「……その前に、訊いておきたい。あんたたちがなんで『山の主』を探しているのか」


 それを聞いて、アーフェンたちは顔を見合わせた。テリオンがやれやれ、とため息をついてオフィーリアを見やる。
「おい、オフィーリア……あんた、なんて言ってこいつを連れてきた?」
「え、えっと……『山の主』を探したいので、力を貸してください……と」
「それだけか?」
「は、はい。その時はユリアンくんも特に何も言っていなかったのですが……」
 戸惑うオフィーリアだったが、答えはユリアンが自ら教えてくれた。
「その時は、探しに行くのがオフィーリアさんだけじゃないと思ったから聞かなかっただけだ。山に入ろうとするやつ全員から、おれが直接聞かないと納得できないと思ったから。
 ……『山の主』はウォームソレイスと、この山の守り神だ。よそものがわざわざ探しに来たなら、警戒するのが筋だろう」
「……そうだな、お前の言う通りだ」
 ユリアンの主張にハンイットは深く頷いた。
 石像に象って祀るくらいなのだ、たとえ伝説なのだとしても、ウォームソレイスの人々にとって『山の主』が心の拠り所であることには違いない。
 そんな地元の住民に、理由も明かさないまま力だけ借りようとするのは、礼にも義にも反する。
 アーフェンも同じ結論に辿り着いたのだろう、ハンイットが言葉を選ぶ間にもう口を開いていた。
「俺たちは『本物』の薬を探しに来たんだ。ロドリゴっつう商人がこの温泉の売りにしてる、美肌に効く薬ってやつをな。……俺たちの連れの先生曰く、商売には『山の主』の伝説が関係してるっていうんだ」
「……『本物』だって……?」
「ああ、お前だって知ってるんだろ。山の主に案内された狩人さんが、顔の痘痕を治したって話と……そいつにあやかって作った温泉と『化粧水』に、同じ効果なんかねえってことも」
「……」


 ユリアンの脳裏に、ある光景が浮かんだ。
 唯一自分と仲良くしてくれている幼馴染が、もしかしたら治るかもしれないの──といって、なけなしのリーフをはたいて、新しく来た商人が売り出した小瓶を持ってきたあの日を。


「温泉も化粧水も、肌に効果がねえっつうならこの村の商売はとっくに潰れてる。だが、そうじゃない。今もウォームソレイスの宿場街が成り立ってんのは、それなりに理由があるはずなんだ」
 薬師の青年が語る言葉は、ユリアン自身も考えていたことだ。
 自分に効果が現われない薬を、なぜこの街へ来る人々はありがたがって買っていくのか? 知りたいと思ってはいた、けれど調べる機会なんてなかった。
 だって、自分の話を聞いてくれるのは狩りの師匠たる祖父、幼馴染とその母親である古い宿の主人ぐらいだったから。
「それに、わたしはこの街に魔物が出るようになった理由は『山の主』が関係していると思っている」
 ハンイットが狩人の視点で、別の理由を話し始めた。
「わたしたちも魔物に襲われたんだ。だから、昨日からいろいろ調べさせてもらっていた。だがこの村の住民たちは、魔物の住処を無闇に侵してはいない。
 それなのに魔物がここを襲うのは、この街の住民が別の形で『山の主』に何かしらの危害を加えている……そんな可能性があると思ったからだ」
「……!」
「だからこそ、わたしはこの山に詳しいお前の力と知恵を借りたいんだ。……頼む、力を貸してくれないか」


 雪豹を連れた狩人が深く頭を下げ、薬師の青年も榛色の瞳を真っ直ぐにユリアンへ向けて同じように訴える。
 戸惑ったユリアンはちらりと他の二人の連れの方へ視線を向ける。
「わたしも、アーフェンさんとハンイットさんと同じです。困っている人がいるのなら……それに、もしもこの街が間違った方向へ進んでいるのなら、そうならないように助けたいと思っています」
 神官の娘が穏やかな表情ながら毅然と言い切ると、盗賊の青年はぶっきらぼうに一言だけユリアンへ言ってよこす。
「俺は、あの宿屋の娘に『本物』を依頼されたからな」
「……そうか、ハンナが、か」
 ユリアンが、初めてふっと唇に笑みを浮かべた。顔に痘痕さえなければ、どきりとさせられそうなほどの優しい表情で。
 しばらく考え込んでいたユリアンだったが、やがて彼は深くフードを被り直す。そして旅人たちに向けて「わかった」と頷いてみせた。


「本当のことを言うと、おれも心当たりがあるわけじゃないんだ」
 なお藪を掻き分けながら、ユリアンはぽつぽつとウォームソレイスの裏に広がるこの山について説明し始めた。
 この山の狩人は、山で暮らす動物や魔物たちを積極的に追って矢で射止めるのではなく、罠を使って捕らえるのがやり方なのだという。さもなければ、足場が悪すぎて狩りなどできないからだ。
 そして、彼ら狩人にはそれぞれ持ち場が受け継がれていて、その持ち場の中で罠を仕掛け、獲物を捕らえるのが決まりだということだ。
 ユリアンに受け継がれた『持ち場』は、ウォームソレイスの狩人たちの活動範囲の中でも一番外側、つまり一番山奥にあった。
「ほかの狩人からも『山の主』の噂を聞いたことがない。本当に『山の主』がいるのなら、おれたちの狩場より奥にいるはずだ。……ハンイットさんって、言ったっけ」
「あぁ」
「もし分かるなら、ゴート種の足跡に気を付けて欲しい。『山の主』は、伝説通りならゴート種の仲間だから」
「わかった。……リンデ」
 狩人ハンイットが傍らの相棒を呼べば、雪豹リンデがガウ、と応えて一行の先頭へ行く。
 そうしてしばらく山を登り続けてから、ユリアンが後ろを行く旅人たちに声をかける。
「この辺りがおれの持ち場の境界だ。おれも覚えておくけど、あんたたちも把握しておいてくれ。もし迷っても戻れるように」
「おう、丁度あそこにでっけえうろのあるハイランドカエデがあるからな、覚えとくぜ」
「太陽の位置からすると、あちらが南なので……大丈夫だと思います。太陽が見えないほど鬱蒼としてなくてよかったですね」


 といった会話を交わしてから、一刻ほど。
 一行は主にユリアンの勘とリンデの嗅覚を頼って山の探索を続けていた。ゴート種の生き物である、という手がかりにならなさそうな手がかりだけでの探索であるだけに、本当のところを言えば、ハンイットはほとんど狩りの成果を期待していなかった。
 今日の行動の肝心要は商人の屋敷を攻略しようとする連れの方で、自分たちは命を狙われていると思われる薬師アーフェンの避難──といったら本人は怒るだろうが──が主目的だ。
 『山の主』については、トレサ風に言えば「見つかれば儲けもの」程度に思っていたのが本心である。
 しかし、転機は突然訪れた。リンデがガウ、と何かを知らせるように吠える。


「どうした、リンデ」
 足を速めてユリアンを追い越すと、相棒は藪の向こうを睨んで立ち止まっている。
「……あの向こうに何かあるのか?」
 リンデの反応からそうと判断して、ハンイットは後ろを振り返ってテリオンを手の仕草で呼ぶ。彼女の意図を察したテリオンは盗賊の身のこなしを発揮して、ほとんど音を立てずにハンイットへ近づいた。
 ただならぬ気配を感じて、アーフェンとオフィーリア、そしてユリアンまでもが足を止める。
 たちまち森は静まり返って、山風が木々を揺らすざわざわとした気配だけが周囲に満ちた。
「人のにおいがすると? この獣道からか?」
「……なんだって」
 ユリアンがぼそりと呟いた。彼の常識に照らし合わせて考えれば、ここまでウォームソレイスから離れている山奥はもう野生の動物と魔物たちの領域で、人間が活動するような場所ではない。
 今まで一行が襲われなかったのは、狩人ふたりが魔物たちの徴を見極めて巧みに道を選んでいたのと、旅人たちができるだけ静かに移動していたこと、そして残りの大部分は幸運に助けられてのものだ。
 しかし、もしもそれが幸運のせいじゃないのだとしたら?
「……確かめる必要があるな」
 ハンイットが低く呟き、全員がこくりと無言で頷く。
 彼らが見据える森の向こうは低木と藪に隠されて、一行にまだ何も語ろうとはしなかった。


   ◆


 皿の上に垂らした液体が、ちりちりと音を立てて蒸発していく。しばらくそのまま眺めていると、水分は消えては白い粉のようなものが残った。
 学者サイラスはその残留物を矯めつ眇めつし、やがて薬匙に何か液体を取ると、白い残留物にかけた。とたん、しゅうっと音を立てて粉が溶け、鼻を突くような匂いが漂う。
「トレサ君、少し風を呼んでくれないか」
「あ、はい!」
 同じ部屋にいたトレサは立てた指先にほんの少しだけ魔力を込めて、開け放してあった窓から微風を呼ぶ。
 部屋の中の空気が入れ替わり、部屋に漂っていた鼻を突く匂いが消え、そうしてようやく学者は深々と息をするのだった。
「ふう、これで確認ができたよ。協力ありがとう、トレサ君」
「いいですけど……さっきから何やってたんですか、先生?」
 太陽が昇って街が目覚め始めたところで、いよいよ屋敷へ乗り込むべくトレサがサイラスを呼びに行ったところ、この通りサイラスが怪しげな実験をしていた、というわけだ。


 サイラスは簡易な机の上に出していた道具──陶器の皿、小さなランプ、なにやら薄い紙と小さな瓶、といったものを片付けながらトレサに答えた。
「温泉の湯と『化粧水』がまったく同一のものであるか、確認していたんだよ。濾したときの色、蒸発させて残ったものの色や形、酢や石灰水をかけた時の反応、どれもこの二つの液体はまったく同じだったから、間違いない。
 ……少なくとも『化粧水』は温泉水をただ詰めただけのもので、何かしらの薬効は追加されていないと思われる」
「へぇ~、そんな方法があったのね。さすが学者さんだわ。このことを言ったら……みんな詐欺だって、わかってくれるのかしら」
 トレサの言葉が力なくしぼむ。彼女の心配を正しく察して、サイラスは微笑んだ。
「いや、おそらく不十分だろうね。これはあくまでただの物証に過ぎない。……本当に説得をするのなら、もう少し材料が必要だ。誤った商品の売り方を正し、その上でウォームソレイスの人々に納得してもらうためには」
 それを聞いて、トレサはぱっと顔を上げた。
「じゃあ、さっそく出発しないとね、先生! もうオルベリクさんもプリムロゼさんも外にいるわよ」
「あぁ、行こう」
 サイラスは涼しげな美貌に挑戦的な笑みをつくり、ローブの裾を捌いて立ち上がる。トレサも重いリュックを背負いなおして、しっかりとした足取りで宿の廊下を駆けた。


 ──目標は旅の薬師、『黄金色の鹿角亭』に立ち寄って治療をした男だ
 ──麦色の髪を縛って、薬師ギルドのマントを羽織っている。典型的な薬師の格好だな
 ──探すのは容易だろうが……目標にはおそらく連れがいる、十分用心しろよ
 ──ああ。もちろん通常の魔物への警戒も怠るな


 剣士オルベリクは宿場街の人混みに紛れて気配を潜めつつ、低い声で囁き交わされる怪しげな会話を拾い聞きしていた。
 どうやら、商人ロドリゴの手の者は想像以上に数が多いようだ。もしかすると、宿場街に集まった宿を経営しているのも、おそらくは。
「そんな顔で立ってたら、観光客には見えないわよ」
 不意に隣に立った赤い衣装の踊子に、剣士はふっと意識を目の前に戻した。プリムロゼはなにやら、器に盛った白い食べ物を抱えている。
「なんだ? それは」
「温泉で茹でた卵。結構いけるわよ?」
 といって、プリムロゼがぐいと器を目の前に突き出してくる。
 断るわけにもいかないのでやむなくオルベリクはそれを受け取り、行儀はよくないのだろうが持ち歩けるということはそういうものだと飲み込んで、薄い色のスープに浮かんだ白い物体を匙で掬って口に入れてみた。
「む……これは、なんというか……面妖な」
「美味しいでしょ。『化粧水』と違って、こっちは本物よ」
「……そうだな」
 どこに敵が潜んでいるかも分からないというのに、傲然と問題の品物について言い切るプリムロゼに内心呆れながら、オルベリクはふた匙めを口に入れた。彼女は彼女なりに、この一連の事件について相当思うところがあるらしい。


 そこへ、聞き慣れた黒靴のこつこつ鳴る音と、リュックの重みが伝わるぱたぱたという足音が聞こえてきた。
 温泉卵の最後の一口をさっさと飲み込んだところで、リュックを背負った若い商人の娘が声を上げる。
「あーっ、オルベリクさん温泉卵食べてる! いいなぁ」
「むっ……」
「あらトレサ、それに先生。遅かったわね」
「あぁすまない、少し物的証拠について調べていてね。……しかし、本番はここからだ」
 といって、学者サイラスは横目で宿場街の中でも一番大きな建屋を見上げた。
 『黄金色の鹿角亭』という看板を掲げたその宿屋は、昨日アーフェンが謎の刺客に襲われた裏路地にその背面を接している。そしてさらに前日、トレサが空き部屋を尋ねて「一泊1,000リーフです」という理不尽な値段をふっかけてきた宿でもある。
「オルベリク、キミから見てこの宿屋はどうだい?」
「そうだな、ただの高級な宿屋というところか。……専門の衛視を雇える程度の、な」
「ほうほう、それはさぞかし居心地がいいことだろうね。じゃあトレサ君、打ち合わせ通り頼むよ。この作戦はキミの手にかかっている」
「はいはいっ、まかせて! あたしもぜひじっくりお話聞いてみたいからね」
 トレサはやる気十分、と胸の前で拳を握って見せるのだった。


 ちりんりん、といつもより威勢よく呼び鈴が鳴る。宿の受付係はその音に顔を上げると、訪れた人物の顔に見覚えがあることに気づく。
「こんにちは! 今日も繁盛していそうね」
 二日前の夕方に空き部屋を尋ねた、大きなリュックに黄色い羽飾りのついた帽子が目立つ商人の娘が、見た目のはつらつさを裏切らない声で話しかける。
「これはこれは。あれからウォームソレイスを楽しんでおいでですか」
「とっても。だからもっと楽しむためにここへ来たんです」
「そうですか。やはりこの宿に泊まりたくなりましたか? なんといっても、うちは最高のおもてなしをしていますから」
「うん、聞いたわ。一週間泊まると安くなるって。どうしてそういう仕組みなんですか?」
「──」
 一瞬、受付係の言葉が途切れた。目の前の若い商人は、あくまで純粋な顔をして質問を重ねる。
「あたし、これでも商人なので。いい商売のやり方を勉強させて欲しいんです。お話聞かせてもらう代わりに、今晩ちゃんとリーフを払って泊まってもいいですし──」
「わかりました。では、我が宿の主人を呼んできましょう。きっと有意義な話し合いができるはずですから。……お連れ様もどうぞこちらに」


 といって、受付係は通りがかった使用人に何事かを囁くと、受付をその使用人に任せ、彼は自ら持ち場を離れて旅人たちを案内した。ある空き部屋にトレサたちを招き入れると、しばらくお待ちください、といって部屋を出ていく。
 やがて部屋を訪れたのは、いかにも気のいい顔をした恰幅のよい男であった。彼は揉み手をしながら低姿勢でトレサに挨拶した。
「これはこれは、ようこそ『黄金色の鹿角亭』へおいでくださいました。旅の商人さんなのですか?」
「はい! 昨日一日過ごしてみて、とっても素敵な温泉と街だなって思って……だから、どんなふうに商売のこと考えているのか、聞きたいと思ったんです」
「そうですか……しかしそれなら、ロドリゴさんご本人に聞かれるのが良いと思いますよ。あの人がこの宿場街の商売をすべて考えたんですから」
「うーん、実はロドリゴさんに昨日会ったんですけど、忙しくってあんまり教えてもらえななかったんですよね。あなたが考えてることだけでもいいんですけど」
「……」
「どの宿でも、割引は一週間までなんですよね。何か意味はあるんでしょうか」
 トレサの質問に、宿の主人は実に歯切れ悪く答えるのだった。


「一週間なのは……それが、温泉がもたらす美肌効果が現れるのが、一週間だからです」
「一週間、きっかりなんですか? どの宿も?」
「そ、そのようです」
「そうなんだ……それはそれですごいわね。普通、ああいうお薬って効くまでに個人差あるわよね、プリムロゼさん?」
 同意を求められ、同席していたプリムロゼがこくりと頷いた。
「そうね。すぐ効く人もいれば、全然効かない人もいる……普通はね」
「と、言われましても……実際、一週間経つとぴたりと皮膚病も収まるんですよ。それと、一週間泊まって下さるお客様には、最後の晩にサービスで特別の『化粧水』を差し上げることになっているのですが」
「「それだわ!」」
 女性二人の声がきれいに重なる。その勢いに、宿の主人であるらしい男はぽかんと口を開け──直後、表情が青ざめていく。
「ど、どういうことです……?」
「とぼけないで頂ける? つまり、ここでは一週間泊まった人だけに『本物』の化粧水をあげているということでしょう、温泉水を詰めただけの紛い物じゃなくて」
「え……?」
 哀れな『黄金色の鹿角亭』の主人は絶句して女性客二人へ問い返す。
「本物とか紛い物とか、何の話をしているのでしょう……? というか、大変申し上げにくいのですが……私はもともとこの村で農夫をやっていた者でして、この宿へは土地を貸しているのと売り上げの確認をしているくらいで……実際、宿を運営しているのは──」
 主人の告白を聞いて、トレサとプリムロゼは弾かれたように立ち上がった。


 男は持ち場を離れると、周りの従業員に怪しまれないぎりぎりの速さで裏口へ急いだ。むろん、この目で見たものを、伝令のために出入りしている仲間へ伝えるためだ。
 昨日すんでのところで始末し損ねた、あの薬師の連れが現れたのだから。
 しかし、その裏口を出た瞬間──彼の前に現れたのは、仲間の姿ではなかった。
「どうやら、本命はこちらだったようだね」
 端正な顔に、涼しげな青の瞳。秀麗な笑みを浮かべた学者然としたその姿に、『黄金色の鹿角亭』受付係を務める男は歯噛みした。
「本命? 何の話ですか? ……あなたこそ、このような宿の裏路地で何をしておいでですか。怪しまれても仕方ありませんよ」
 表面上は受付係の表情を作って答える男だったが、こめかみから冷や汗が滲む感覚を覚えていた。
 学者サイラスの青い瞳には、冷厳ささえ思わせる焔が燃えていたからだ。
 ──線の細い、ただの学者のくせに。なんて威圧感だ。


「あなたたちのことは、昨日の時点で怪しいと踏んでいたのだよ。昨日宿の裏であんな騒ぎがあったのに、様子見に出る人もいなかったのはなぜだろう……とね」
 サイラスはあくまで秀麗な微笑みを保ったまま、平然と言葉を重ねる。まるで授業の内容がわからぬ生徒に、懇切丁寧な指導を行うかのように。
 彼の片手には半分開いた本が抱えられていて、あたりには魔力がぱち、ぱちと弾ける音が断続的に木霊していた。
 受付係の男は再度奥歯を噛んだ。おそらく、ここで待機していたはずの仲間は、この学者の魔法によって黙らされたのだ。
「いくら裏路地だからといって、魔物の襲撃を恐れる人々が、雪豹の吠える声を聞いて警戒しないはずがない。唯一の例外は、この宿を統制する者が、建物のすぐ裏手で予定されている騒ぎをすべて承知だった場合だ」
「何のことやら……」
 とぼけて時間を稼ぎながらも、男は冷静に状況を見定めた。
 ここは裏路地、とはいっても面している建物は自分の働く宿だけだ。反対側は人の出入りしない裏山で、もちろん外から見られることのないよう、宿の客たちが利用する露天風呂からも見えないよう、植樹した木と柵で死角になっている。
 男の耳に、宿の中を行き来する人の他に足音は聞こえない。ならば、敵は目の前のこの男ひとり。見た目通りの学者ならば、たとえ強力な魔法の使い手であっても、発動よりも先に刺せばいいだけの話。
「キミの本当の雇い主は、この宿の主人……ではないね? もしも昨日の刺客のような者たちと連絡が取れるのなら、商人ロドリゴ氏。そうだね」
 それは質問ではなく断定の口調だった。確信を得たとばかり、彼は笑みを深くする。
 ──刺すなら、油断した今だ。受付係だった男の唇に醜悪な笑みが浮かぶ。
「だったら、……なんだっていうんだッ!?」
 受付係だった男の腰に手がかかった。直後、サイラスが溜めていた魔力の解放を始める。
 だが、運動的な反射が不得手なサイラスの解放より、男の短剣の方が早い──


「させないわ!」


 ぎんっ、と鈍い音が裏路地に響いた。男の手から短剣が弾け飛び、意識がそちらにとられる。
 瞬間、男を焼けつくような雷撃が貫いた。サイラスは突然変化した状況に驚くことなく、冷静に魔力の開放をしてのけたのだ。
「ぐふっ……!」
 呻き声を上げた男が倒れ伏し、その服の裾をすかさず別の短剣が縫い留める。
「まったく、気の短い男はこれだから」
「プリムロゼ君……!」
 開いていた魔術書の雷撃魔法の頁を閉じ、サイラスはまさしく雷撃の如き奇襲を見舞った赤い衣装の踊子を称えた。
「いや、まったくいいタイミングだった。素晴らしい舞だったよ」
「ふふっ、お褒めの言葉ありがとう。……でも、ちょっと油断してたんじゃないかしら?」
 踊子プリムロゼの脚の下で動けぬままにいる男をサイラスは一瞥し、それから苦笑を浮かべた。
 警戒はしていたつもりだったが、まさか相手がここまで素早い動きができるとは思っていなかったのだ。
「サイラス先生っ、大丈夫ですか!?」
 トレサが心配そうに叫びながら駆けつけてくる。そのあとを追いかけてきた宿屋の主人が、目の前の有様を見た途端ひっと悲鳴を上げた。
「こ、これはいったい……!?」
「この人はね、私たちの仲間を襲ったのよ。彼が真実に気づいたから」
「し、真実ですって……」
 哀れな主人は、目の前の状況と同じくらい、プリムロゼの向ける冷徹な瞳に竦み上がっているようだった。
 それを宥めるように、サイラスが穏やかさを取り戻した声で告げる。
「あなたも真実を知りたいのであれば、ぜひ私たちと一緒に来て欲しい。──ロドリゴ氏の屋敷にね」
「……」
 主人は青ざめた顔のまま、ごくりと喉を鳴らすのだった。


「……そうか、ご苦労だったな」
 トレサからあらましを聞いたオルベリクは、宿の倉庫にふんじばって置いておかれた元受付係の男と、サイラスがあらかじめ排除していた、昨日アーフェンを襲った者たち(スイミンカの薬で眠らされている)を一瞥して頷いた。
 彼は今まで、単身でロドリゴの屋敷まで下見に行っていたのである。
「こうなれば、もうのんびりしている時間はないな。そういう人間がいつもの持ち場から消えたとなれば、商人の陣営も黙ってはいないだろう」
「屋敷の方はどうだったの?」
「門衛は交代していたし、昨日は見張りがなかった屋敷の塀のあたりにも警備がありそうだ。用心棒の姿は見えなかったが……」
「きっと、ロドリゴさんの近くにいるのね」
「おそらくは。……まあ、まず正攻法での侵入は望めないだろうな。だが、正面から突入するのも相手の戦力が見えぬ以上、できるならやめておいた方がよかろう」
「うーん……別にあたしたち、ロドリゴさんをやっつけたいわけじゃないもんね……」
 腕を組んで考え込むトレサの肩に、ぽんと手が置かれた。それまでじっと二人の話を聞いていた、踊子プリムロゼである。
「そういうことなら、私の出番ね」
「え? でも門番さん、もう昨日の人じゃないし……」
 どうするの?と問うトレサと、視線だけで訊ねるオルベリクへ、プリムロゼは艶っぽい微笑みで答える。
「私たちが真実を知っていて、都合の悪い人はもうひとりいるでしょう?」
「……えっと、誰だっけ──あ」


 というわけで、プリムロゼはトレサだけを連れて村の広場を訪れていた。
 オルベリクはまた一人で屋敷の方へ先回りさせ、サイラスは別にやることがあるので『黄金色の鹿角亭』に置いてきている。
「今日もいるわね」
 広場の一角、昨日も訪れたある場所を見据えるプリムロゼの視線は、まるで女豹の如くである。
 作戦実施への緊張と、プリムロゼの臨戦態勢の両方に身を強張らせながら、トレサは気を付けてね、とプリムロゼへ囁いた。
 トレサは万が一のことがあったときの、プリムロゼの護衛役だ。けれどプリムロゼのまなざしを見る限り、自分の出番はないように思えた。
「じゃ、そこで待っててね。行ってくるわ」
 といって、プリムロゼはつかつかと例の屋台の方へ歩いていく。
 屋台の主は赤い踊子の衣装に気づくと、ぎょっと──注意深く見ていないと分からない程度ではあったが──目を剥いた。
 おそらく、もうプリムロゼが昨日『黄金色の鹿角亭』で治療をしていた薬師の連れだというのは知られているはずだ。


「こんにちは。今日も商売繁盛かしら?」
「いらっしゃいませ。昨日『化粧水』を買われたお連れ様の調子はいかがです?」
「そうね、まずまずってところよ。……つけ始めたのが、昨日ですものね」
 『昨日』という言葉をことさら強調するように、プリムロゼは息を含ませた艶っぽい声で店主の薬師に話しかける。薬師の男は少し顔を引きつらせながら、それでも営業用の文句を返した。
「そうですね……けれど、一週間つけ続ければ実感できるはずですよ」
「それよ、その一週間……っていうところよ。実はね私たち、もう明日この街を出ないといけないの」
 プリムロゼはしなやかな指先で、屋台に並べられた瓶をそっと撫でてみせる。エメラルドグリーンの瞳が光り、上目遣いの視線が薬師の男を射る。
「だから、もっと効く薬が必要なのよね。……あるんでしょう、本当は?」
「そんな、特別のものなど……。この薬は、使用期間が命なんですよ」
「でも……ここだけの話。一週間泊まった人にはサービスで『特別な』化粧水がもらえるって、聞いたわよ」
「──」
 返す言葉に窮した男に向かって、プリムロゼはよく手入れされた鳶色の髪を掻き上げてみせた。髪につけた香水がふわりとあたりに香る。


「もし『特別な』化粧水をいただけるのなら……お礼に、今夜はあなたの為だけに踊ってあげるわ。個人的に、じっくりと」
「……」
「それに、私が知っていることも……街の人には、言わないであげるわよ。私の連れにも、言い含めてあげるし」
 男の視線の先で、華奢な首と白い胸元を彩る豪奢な首飾りがしゃらり、と揺れた。
「ね、私の踊り、見てみたいでしょ……?」
 まるで月夜が覆う褥で聞くが如くの、甘やかな声が男の耳元へ囁かれる。生唾を飲むごくりとした音が、広場の喧騒の中で奇妙に大きく響いた。


「……。では『特別に』ご案内しましょう。お約束は、守っていただけますね」
「ふふ、もちろん。……最高の夜をお届けしてあげるわ」
 薬師の男が屋台から出てきた。不在中の店番は誰かに任せるようで、その辺で別の商品を売っていた物売りと二、三話す。それから、薬師の男はプリムロゼと連れだって広場を離れて行った。
(こ、こわー……)
 一部始終を見守っていたトレサは思わず身震いをしていた。
 昨日の門番を篭絡していた時も同じようなことをしていたプリムロゼだが、今日のは久々に見る本気の“誘惑”だ。
 ──あたしにはとてもあんなことできないわ、っていうかプリムロゼさんにもあんまりそういうことして欲しくないんだけど。
 プリムロゼとて、好き好んでやっているわけではあるまい。つまりそれだけ、彼女もこの事件に対して本気で怒っているということだ。
 だったら、ますます気合を入れなければ。トレサは深呼吸をひとつして、プリムロゼたちに気取られるぬよう用心しつつ、二人の後をつけていった。


   ◆


「ここは……野営地か?」
 その場所を見るなり、ハンイットが眉を寄せた。
 リンデが「人のにおいがする」と警戒の声を上げた藪を掻き分けた先、五人と一匹が辿り着いたのは小さな空地だった。ここだけぽっかりと穴が開いたように木立に空白ができていて、生えているのも背の低い草花だけだ。
 周囲の木々が生い茂る風景とはまるで雰囲気の異なる場所を、彼らは怪訝な顔をしながら見回した。
「焚火の跡がある。煙は立ってないし冷え切ってるから、ここで火を焚いた誰かは近くにいない、とは思うけど……」
「煮炊きの道具は放置されてるな。普通片付けるだろ?」
「おいおい、まさか、誰かここで寝泊まりしてんじゃねえだろな」
「でも、なんとなく生活感がありますよね……」
 オフィーリアが気味悪そうに自分の肩を抱く。他の四人にしても似たような感想だった。山里から相当距離のあるこの場所で、誰が、なんのために留まっているというのだろう。


 テリオンが険しい目で辺りを見回して、それからはあっとため息をついた。
「……俺は周囲を探索してくる。何か妙な匂いがするからな」
「おれも行く。テリオンさんだけだと山はつらいだろ」
 ユリアンが手を上げると、テリオンは黙って頷いた。
 山慣れしている者の同行は確かにありがたい。残りの連れに関しては、ハンイットがいれば問題なかろう。
「それなら、リンデも連れて行くといい。きっと役に立つ」
「ガウッ」
 雪豹が一声吠えて、空地を離れる二人のあとをついていく。残ったハンイット、アーフェン、オフィーリアはもう少しこの空地を調べることにした。
「誰か、焚火をしていた人たちが帰ってくるかもしれませんしね」
「話ができる相手だといいんだけどなぁ……」
「ウォームソレイスの住民ではないだろうからな……まともな相手だと思うのは難しいところだ」
「だよなあ……」
 いっそどこかに隠れて様子をうかがった方がいいかもしれない、と思ったハンイットだが、それはそれで見つかったときに言い訳ができないなとも思う。
 ならば、ここに留まっている誰かが何をしているのか、それとなく調べてみるより他にない。
 もしここを拠点に誰かが狩りをしているのなら、獲物を解体する作業はここでおそらく行っているはずだ。血抜きは狩ったその場で行うにしても、山里からこんなに深い場所から獲物を丸のまま持ち帰るのは無理がある。
 しかし、この空き地には獲物を解体しているような跡も、道具もないように見える。
(狩りが目的ではないのか……?)
 だったら、こんな山奥で何を。
 ますます色濃くなる不穏な気配に、ハンイットは神経がぴりぴりと尖っていく感覚を覚えるのだった。


 一方、別行動に出た盗賊テリオンと狩人ユリアン、それに雪豹リンデは、小さな野営地の周辺に細い、しかしはっきりとした道を見つけていた。
「どうだ、ユリアン」
「獣道……に見えるけど、たぶん、動物や魔物の作った道じゃない」
 草や藪の倒された跡を見ながらユリアンが呟くと、リンデが控えめにグル、と唸った。まるでユリアンに同意するように聞こえるのが、ユリアンには不思議だった。
 飼い主──いや相棒であるというハンイットとは明確に意思を通わせていたようだが、この雪豹は彼女以外の人間のいうことも理解しているようだ。
「……賢いんだな、この雪豹」
「気に入ったか?」
 テリオンが(まったく珍しいことに)どこか愉快そうに聞くのでユリアンが頷くと、雪豹はガウ、とさっきよりも高い声で唸った。それも、リンデがちゃんと嬉しがっているようにユリアンには聞こえたのだった。
「で、あんたはこれをどう見る」
「あの狩人っぽい人たちが、ここを使ってどこかと往復しているのかもしれない。もしかしたら、ウォームソレイスのどこかに繋がってるのかも」
「……なるほど、いかにもあり得そうだ。だとしたら、この道を利用している奴らはここで何をしているか、だな」
「ああ」


 ユリアンが頷いて、人間が踏み固めたらしい道を山の深い方へ遡っていく。
 その身のこなしがやはり卓越していて、草木が生い茂り落葉が降り積もっている中においてもほとんど足音がしない。その静かさたるや、一番用心している時のテリオンに迫るほどだ。
「……静かだな」
「何が」
「あんたの歩く足音だよ。やはり、狩りに必要だからか?」
「……そうだけど」
 変なことを聞く、と言いたげにユリアンが頷く。その答えを聞いたテリオンは、密かに気になっていたことをもう一つ訊ねた。
「ハンナといったな、あの宿屋の娘。……あいつもなかなかの足さばきだったよ」
「え?」
「俺の背後を取ったからな。何か秘密がありそうだとは思っていたが、あんたの足音とよく似ていた」
「……そうか。あいつとは昔よく山歩きしたから、その時に身に着けたんだろう」
「なるほど、納得いったよ」
 それきり、テリオンはふつりと口を閉ざす。
 ──あの娘へは、盗賊の才能というより狩人の才能があると言うべきだったのだろう。どうでもいいことではあるが──。
 そう、どうでもいいことであるはずなのに、どこかそれが愉快なことのように思える。テリオンはそんな自分のことを悪くない、と思った。悪くないと思えるそのこと自体も。
(……まぁ、俺があの娘の依頼を引き受けたのは、気まぐれだがな)
 それは、テリオンが請け負った仕事にある種の思い入れが芽生えた瞬間だったのだが、言い訳一つで見なかったことにして。
 目の前の道を探索するユリアンに代わり、テリオンは周りの様子をうかがうことに注力する。
 夜闇の中でも遠くまで利く彼の眼は、きらりと光るものを見出した。


「おい、止まってくれ」
「なんだ」
 足を止めたユリアンを追い越して、テリオンは草葉の陰に落ちていたその物体を拾い上げる。大きさはテリオンの手のひらより小さいくらいだろうか。形は林檎によく似ていたが、色はちょっと他にないほど特異なものだった。
 その物体は、水晶のように透き通っていたのである。
「……それはなんだ?」
 後ろから覗き込んできたユリアンが不思議そうに首を傾げた。こいつも知らないのか、とテリオンは少しだけ落胆する。
「分からん。だが、見た目は木の実に見えるな」
「だったら、この辺にそいつが成ってる木があるはずだけど」
 といって、ユリアンは奇妙な木の実の在りかを探ろうと、顔を上げて周りを見回す。が、周囲のある箇所へ目を向けた途端、彼は凍り付いたように立ち尽くした。
「……おい、どうした」
「っ……」
 テリオンが呼びかけると、ユリアンは弾かれたように駆けだした。すぐ後をリンデが追い、テリオンもちっ、と軽く舌打ちをしながらも一人と一匹の後を追いかけた。


 ユリアンが血相を変えた理由は、すぐに分かった。
 一本の木の根元で、大きな獣が一頭死んでいたのである。それも首に綱が巻かれ、木に縛り付けられた哀れな姿で。
「……ひどい」
 ユリアンは明らかに人間の仕業と思われる獣の死体を前に立ち竦んだ。肉を食用にするなら欠かせない作業である、血抜きも腸抜きもされていない、殺されたそのままの状態だ。
 追いついた雪豹のリンデも、哀れな犠牲を前にグルゥ、と唸った。彼女も腹を立てているのだ──ひとつの命が、いたずらに奪われたことを見てとって。
「おい、これはどういうことだ」
 立ち尽くすユリアンに、テリオンは短く訊ねた。狩りの作法については詳しく知らない盗賊であっても、この殺された獣の状態がただごとではないことは分かる。
「……たぶん、角だけが目当てで殺されたんだ」
 ユリアンは静かな憤りに声を震わせながら答えた。
「こいつはゴート種の魔物だ。でも、角だけがない……ここに折られた跡がある」
「そうか。なら、これはほかの魔物や動物の仕業ではないな」
「……ああ」
「こんな雑な仕事をした人間が、どこへ行ったかは分かるか」
「……そうだな」
 テリオンの質問に、ユリアンはいくらか冷静さを取り戻したようだ。
 もうずいぶんこの少年狩人になついたらしいリンデが彼を慰めるように擦り寄ったので、ユリアンは雪豹の頭をひと撫でしてそれに応えてから、視線を獣から離し、周囲の様子を鋭い目で探索し始める。


 狩人が周辺に足跡がないかを調べている間、テリオンは油断なくあたりを警戒していた。
 というのも、彼の盗賊として培ってきた勘が警戒を促していたからだ。首筋がざわつく感覚、つい二日前温泉で感じたあの感覚を何倍もしたような、危険をうかがわせる匂い。
 ──何かが、いる。それもすぐ近くに。
「テリオンさん」
「っ……!」
 ユリアンに呼ばれて、はっと盗賊は我に返る。そのぐらい緊張していたのだ。だがその緊張の理由が不明なのが、ますます気味が悪い。
 テリオンは緊張を払うように軽く頭を振ってから、ユリアンに応えた。
「どうした」
「足跡、あっちの方だ。……たぶん、あの空地に続いてる」
「なんだと?」
 だとしたら、この獣を狩りの範疇から明らかに外れた殺し方をした誰かは、ハンイットたちが残っているだろう空地に向かったことになる。
(なら、俺のこの感覚はそれを示しているのか?)
「……戻るべき、かな」
「どうだろうな。ただの人間相手なら、あいつらもそうそう遅れは取らないだろうが──」
 言いかけたところで、テリオンの首筋にざわっと産毛が逆立つような感覚が走った。
 同時に、ぱき、と何かが地面を踏みしめる音。
「──ッ!」
 ユリアンもリンデも迫り来た異様な気配に気づいて振り返る。そして、二人と一匹は目の前に現れたものに息を飲んだ。
(こいつが、か……!?)
 落ちた太枝をものともしない大きな蹄、見上げるほどの巨体、何本も枝分かれした角、そしてその角から『生えている』何か。
 “それ”を見た瞬間、テリオンはその獣がなんなのか、ほとんど確信を得たと思った。


 ──こいつが、こいつこそが、『山の主』だ。
 テリオンの手に握られていた水晶の実りが、きらりと光を放った。


   ◆


 踊子プリムロゼが“誘惑”した『化粧水』売りの薬師は、意外なことにプリムロゼを屋敷の裏手へ導いた。
「表は不埒な奴を捕まえるので、今ピリピリしてますからね。こちらの方がゆっくりできますよ」
 そういう薬師の顔は、今や下心を隠しもしていない。心底から滲みそうになる嫌悪感を笑顔の裏に隠しながら、プリムロゼはふうん、と相槌を打った。
「どんな奴なのかしら、その不埒な奴っていうのは」
「あなたが気にする必要はありませんよ。……ま、客を不当な手段で横取りする輩、といったところですね」
「そう」
(不当な手段を取っているのはどっちかしら)
 プリムロゼをここへ案内している時点で、この男は自分がしている“商売”を認めたようなものだ。いったい、どの口がそんな図々しいことを言えたものか。
 話せば話すほどこの男の前で平静でいられなくなりそうなので、それ以上彼女は口を開くのをやめた。


 薬師の男は屋敷の周りに張り巡らされた塀の、さらに外側──一見してただの納屋にしか見えない掘っ立て小屋の前まで辿り着くと、こちらです、と例の下心を隠さない笑みで頷いて見せた。
「へえ、随分凝った仕掛けね」
「万が一の時に安全に逃げられるように……とのことらしいですよ。ああ見えて、ロドリゴさんは用心深いですからねぇ」
(つまり、最初から不正を働く気だったということじゃない)
 わざわざそういう経路を用意しておくというのは、初めから後ろめたい行為をすることを織り込み済みで、この屋敷の主はウォームソレイスにやってきたということだ。
 とんだ詐欺師ね、とプリムロゼはこれ以上立てようのない腹をまた立てるのだった。
 掘っ立て小屋の戸を開けると、中は本当にただの変哲もない納屋に見えた。だが薬師の男が、土間の隅に設けられた上げ蓋を開けると、地下へと続く階段が現れた。
 内心プリムロゼはこの小屋から屋敷への道が続く、というのも嘘なのではないかと思っていたのだが、はっきりとした証が確認できたことでひとつ決断する。
 ──ここまで案内してくれれば、十分よ。腰に隠した短剣に、彼女はそっと手をかけた。


 上げ蓋を固定しながら、男が逸る声でプリムロゼへ言う。
「ちょいと狭いですが、我慢して下さいよ。ここを通れば、あなたの望み通りの美肌が手に入りますからね」
「ええ、分かったわ。……ありがと、詐欺師さん?」
「な、ぐぁ……!!」
 プリムロゼの不穏な囁きに男が振り返った瞬間、彼女の構えた短剣の柄が男の急所を穿った。不意打ちを食らって気絶した男が、地下へ続く蓋のすぐそばにどうと倒れ伏す。
 念のため素早く男の手足を縛り猿轡を噛ませると、プリムロゼは掘っ立て小屋から外へ出て、裏山の方に向かって大きく合図をしてみせた。すると、裏山に生い茂った木々の陰から、青いサーコートの剣士と黄色い羽の帽子を被った商人の娘がそろそろと出てきたのだった。
「プリムロゼさん、大丈夫だった?」
「思ったより早かったな」
 オルベリクとトレサは、プリムロゼが屋敷の入口を確保することを信じて、彼女の後を追ってきていたのだった。
 オルベリクは土間の隅で転がっている男を見やると、少し憐れみを覚えたような顔で「……こいつか」と呟いた。
「うわぁ、お気の毒様ね」
 既に顔を見知っていたトレサも、思い切り顔をしかめながら言う。
 プリムロゼはもはや自分で倒した男を一顧だにしない。
「さて、こいつが開けてくれた入口がここよ。多分、屋敷の中に繋がっているはずだわ」
「分かった」
「それはいいけど……大丈夫かしら、この人」
 トレサは気絶したままの男を見やって言った。手足を縛られたうえ猿轡まで噛まされては、気絶から復帰したとしても当分何もできないだろうが。
「……大丈夫だろう、多分。命を心配するほどの長期戦にはならんだろうからな」
「……それもそっか」
 トレサは簡単に頷いた。リバーフォードの領主の館に侵入したときと違って、別に自分たちは相手を滅ぼしたいわけではないのだ。結果的にそうなってしまうかもしれない、というのは置いておいて。
 念のため掘っ立て小屋の戸はきっちり閉めておいて、男の身柄も納屋の隅に積まれた干し草の間に隠し、ここで何が起きたのか簡単には分からないようにしておく。そうしてからやっと、三人は地下へ足を踏み入れたのだった。


「って、屋敷に入ったはいいけど……ロドリゴさんどこにいるのかしら」
 体についた埃をぱっぱっと払いながら、トレサは極限まで潜めた声で呟いた。
 屋敷の地下は幸いにも大して広くはなく、懲罰室と思われる空間がひとつと、それよりは広そうな食料の貯蔵庫があっただけで、複雑に入り組んではいなかった。
 そんなわけで、三人は物置に使われているような部屋へ埃まみれになりながら上がってきたのだが、問題はここからどうするか、であった。
「ふむ……確かに、昨日ロドリゴと会ったのは応接室のようだったからな」
「まあ、でも普通は上の方……よね。偉い人の部屋って」
「どうかしらね? 仕事熱心な人なら、執務室は一階にあるんじゃない?」
「うーん……」
「いざとなれば、使用人か誰かを人質に取るか」
「……ほんとに?」
 オルベリクの物騒な提案に、女性二人が揃って胡乱気な目を向ける。
 これが屋敷の主か、また屋敷そのものを制圧するための戦いならそれも有効な手段と言えそうだったが──
「いや、それは最終手段だな」
 オルベリクも失言を認めて首を振る。それでも、代替案に大してさっきと変わらないようなことを言うのだった。
「しかし、軽く騒ぎを起こしてやれば、少なくともあいつはおびき寄せられるだろう」
「……あー、それはそうかも」
 『あいつ』とはもちろん、元ホルンブルグの騎士にして今は商人ロドリゴの用心棒を務める男、アルノルトのことだ。
 絶えずロドリゴについていた彼は、ロドリゴと再び会うなら必ず三人の前に現れるはずだ。うまくしたら、屋敷の主の場所も分かるかもしれない。
「じゃ、決まりね。行きましょ」
 今はこれ以上の案も浮かばないので、三人はオルベリクを先頭に部屋を出た──が。


「……!」
「!!」


 部屋を出た途端、廊下を掃除していたメイドとばっちり目が合ってしまったのである。
(しまった、足音を十分にうかがっていなかった)
 と、オルベリクが思わず反省した──思考が凍結したともいう──瞬間に、
「きゃああああ!!」
「きゃーっ!?」
 メイドが悲鳴を上げ、それに驚いたトレサもついでに悲鳴を上げる。
 二つ同時に響いた、絹を割くような叫び声にハッと我を取り戻したオルベリクは、目にも止まらない速さでメイドに手刀を決めた。
 歴戦の剣士の手刀をまともに喰らった彼女は、ぷつりと声を途切れさせて絨毯の張られた廊下にどさりと崩れ落ちる。
 しかし、当然いまのやりとりで屋敷が黙ってくれるはずもなく。


「なんだ!?」
「何の悲鳴!?」


「……まっずーい」
 トレサの顔が引きつった。オルベリクが眉をしかめ、プリムロゼがやれやれと苦笑する。
「こうなったら、やることは一つじゃない?」
「ああ、そうだな……。うむ、──走れ」
「りょーかーいっ!!」
 トレサの抑えた声による気合とともに、侵入者三人は一斉に走り出した。
 やっぱりテリオンさんこっちの方が良かったかも、と思ったトレサだがもう今更どうにもならない。
 本来こういう隠密行動が大得意なはずの彼は、今頃山で『狩り』をしているはずだ。今は、自分たちでできることをやるしかない。
 と、思っていたら。
「うわ、なんだッ!?」
「っ、ごめんなさい!」
 廊下の角を曲がった途端使用人に出くわし、トレサは反射的に槍の柄でごつんと彼の頭を殴り倒していた。
 これまでの旅路で剣士オルベリクが槍を仕込んだだけあり打ちどころは的確で、哀れ使用人も気絶してばたんと床に倒れ伏す。
「あら、トレサもなかなか上手ね」
 こんな状況だというのに、トレサの手並みを見たプリムロゼが愉快そうに笑った。
「プリムロゼさん、なんで楽しそうなんですか……」
「あら、だってお金持ちの屋敷に侵入するなんて、滅多に出来ない体験じゃない? 本でも劇でも物語の定番よ」
「それは物語だからいいんじゃないですかぁ」
 これもプリムロゼ一流の舞台度胸なのだろうか、トレサ自身は捕まったらどうしようと心臓がドキドキしてたまらないのに。
 その不安を裏付けるように、今立っている廊下の向かいの角から「探せ」だの「どこ行った」だのと騒ぐ声が聞こえてくる。そしてそんな騒ぎは、三人が走ってきた方の廊下からも。
 挟まれたか、とオルベリクが悟り、女性二人に向かって抑えた声で呼んだ。
「おい、こっちの扉でやり過ごすぞ」
 今度はちゃんと聞き耳をして、物音はしなかった。だからこそオルベリクは、狭い廊下での挟み撃ちを避けるべく目の前の扉を開いたのだ。
 しかし、剣士は悟る。物音がしなかったのはその部屋に誰もいなかったからではなく、その部屋が普通の部屋よりも遥かに広い空間だったから、ということを。


「……招かれざる客は、あなただったか。“剛剣の騎士”オルベリク」


 向かいには大きな扉、両側には二階へ上がるための階段が伸びる、吹き抜けのエントランスホール。
 その中央に、剣と鎧で武装した男が立っていた。
「……っ、お前は……!」
 兜の下から覗くは、ぎらりと光る青い瞳。
 元ホルンブルグ騎士、アルノルトがたったひとりでオルベリクたちを出迎えたのだった。