あなたの星になりたい

2. 名付けられぬ想いを抱いて

 アグネア一行の旅は続く。その中で神官テメノスがとうとう聖堂騎士団との因縁の決着をつけ、また狩人オーシュットが伝説の獣たちとともに災いから故郷を守り抜いた。
 トト・ハハ島で締めくくられた二つの結末。それらを越えた後、テメノスは何か難しい顔で何かを考え込んでいた。──月影教、そして“緋月の夜”。アグネアには別々の事柄に見える二つの影が、テメノスの冴えた頭脳にはおぼろげにでも何か繋がっているように見えるらしい。同じく物事の繋がりを解き明かすのが得意な学者オズバルドと、時々相談しているところを見かける。


「テメノスさん、最近ずっと難しい顔してますよね。ソローネさん、何か知ってる?」
 西大陸へ向かう船の上で、ひとり海を眺めるソローネに尋ねてみる。彼女は海風に煽られる黒髪をかき上げながら、いいや、と首を振った。
「別に、何も。名探偵ははっきりした手がかりを掴むまで口が重いからね」
「そうですか……」
 旅の果てを越えた今でも、アグネアには難しいことはあまりわからない。でも、何かを気にし続けているらしい仲間のことは心配だ。眉を寄せるアグネアの、その頬をソローネが不意に軽くつまんだ。
「んに!? ひょろーにぇふぁん!?」
「あんたまで難しい顔しなくていいんだよ、“スター”さん」
 ソローネは百面相になるアグネアを見て、心底おかしそうにくすくす笑っていた。
「心配しないでも、テメノスも先生も必要な時にはアグネアにちゃんと何考えてるか話すよ。それまでは自由に過ごすことだね」
「ソローネさん……」
 こういうとき、ソローネが本当の姉だったら良かったのになとアグネアは思う。故郷ではずっと姉としてパーラや村の子供たちの面倒を見ていたから、年上の女性に親しく付き合ってもらうのはとても嬉しかった。
 でもきっと、この楽しい時間もあと少しなのだろう。ソローネだって、旅の果てを迎えさらにその先を見出そうとしている。
 と、ソローネがくいっと指を明後日の方に曲げてみせた。
「それにさ、ほら。あそこでプリンスが寂しそうにしてるよ。傍に行ってやったら」
 思わず、アグネアの頬がさっと赤くなった。ソローネの指す“プリンス”とは誰のことか、それは甲板のもう一方の端で黒髪を靡かせているヒカリに他ならない。
「へ!? なんでそんな」
 素っ頓狂な声ではまるで抗議にならない。ソローネはそれこそとぼけたように眉を上げながらこう言った。
「だってあんたら、付き合ってるんじゃないの?」
「ち、ちち、ちげぇってば!! ヒカリくんとはそんなんじゃ……!」
 言いながら、真っ赤ないまの顔で言ってもソローネは信じてくれないだろうな、とも思う。でも、本当に──恋人とか、そんなふうな関係なんかじゃないのに。
「でも、いつも一緒にいるじゃん。仲はいいんでしょ」
「そ、そうかも……しれないけど……」
 知らず、踊子のドレスの裾をぎゅっと掴んでいた。そんなアグネアを、ソローネはそれ以上追及しなかった。ぽんぽん、と茶目っ気たっぷりにアグネアの俯いた頭を撫でて、小気味よい音で靴を鳴らしながら甲板から船室の方へ降りていく。


(付き合う、だなんて。……あたしは、そんなつもりじゃ)
 ちらりと、アグネアは甲板の反対側に一人佇むヒカリを見やる。旅が終わるまで、ただ一緒にいたいという思いが同じなだけの二人、それがあたしたち。
 その関係に名前をつけることは、してはいけないような気がしていた。
 名前のつけられない想いだけが、ヒカリとアグネアを繋ぐ唯一だった。


 船を降りた先の港町カナルブラインで、アグネアら八人の旅人は数日を過ごすことにした。いくら商人パルテティオの気楽な私船の上だとしても、海に揺られるという行為は体に無理のかかるものだ。これから西大陸を進むのに、陸の上で少し休むのに越したことはない。
 とはいえ、旅人たちは一晩眠ったあとは街でそれぞれ思い思いに過ごしていた。東大陸で仕入れた品を売るもの、かつて面倒を見た患者へ挨拶に回るもの、日がな一日海の波を眺めるもの。
 アグネアはといえば、酒場のマスターに交渉して今夜は酒場で踊らせてもらうことになっていた。カナルブラインの酒場はヴァイオリン弾きがついていたり、人魚のような舞が人気の踊子が根城にしたりしていて、結構栄えているのだ。
 そんな条件の下でも、メリーヒルズの大舞踏祭で活躍した踊子といえば十分に箔がついた。そしてもちろん、踊れば彼女の笑顔とさわやかな歌声はたちまち多くの人を魅了する。こうして踊子アグネアは、カナルブラインの酒場に集う目の肥えた客にも大歓迎されたのである。


「まだまだ! 膝が折れるまで踊るよっ!」
 杯を上げて囃し立てる観客たちに応えれば、さらに喝采が返ってくる。大舞踏祭とは違う、観客の距離の近さ──彼女が最も慣れ親しんだものだ──を、アグネアは心から楽しんでいた。そうして何度目かの『きぼうのうた』を歌おうとしたときだ。
(あっ……)
 店内を照らすランプの光が届くか届かないか、そんな壁際にヒカリの姿を見つけた。さっきまではいなかったはずなのに。
 こちらを、舞台を見つめる黒い瞳と目が合いそうになって、アグネアは慌てて目を逸らした。これ以上彼を意識したら、たぶん踊れなくなってしまう気がして。
 誤魔化すように目を閉じて、アグネアは『きぼうのうた』を唄い始める。それで、今夜の踊りはここまでにしようと決めた。


「また今度踊りに来てくれよ」
「ぜひっ! ありがとうございます」
 大舞踏祭で活躍し、ドルシネアに認められた“スター”アグネアの踊りは、今夜の酒場の儲けへ大いに貢献したらしい。満足気なマスターと挨拶したアグネアは、小走りでずっと待っていてくれた彼の元へ向かった。
「お、お待たせ、ヒカリくん」
「いや、気にするな。少しでもそなたの踊りを見られて良かった」
 謝ったのに、そんな風に返されたら何も言えない。アグネアは照れて手のひらをほっぺに押し当てるばかりだった。
「さあ、宿へ帰ろう」
「う、うん! そうだね」
 さっとヒカリが酒場の扉を開けてくれて、アグネアはどぎまぎしつつ夜闇に沈んだ街へ出ていった。
 八人の旅人の中では一番の年下であるアグネアだが、職業的にはどうしても宿への帰りが他の旅人より遅くなることが多い。それを心配したのはキャスティだったかパルテティオだったか、ともかくそのうち、酒場で働くアグネアを旅人たちが交代で迎えに行く習慣ができていた。
 何かと集団行動(もしくは完全な個人行動)が多い旅の中、舞台からの帰り道は仲間と一対一で話すことの出来る数少ない機会で、アグネアはこうした時間を楽しみにしていた。一見とっつきにくそうだったオズバルドでさえ、迎えに来てくれたときにはアグネアの取り留めのない話を聞いて、ぽつぽつと独特な回答をしてくれたものだ。
 けれど、今は。
 あの約束をした日から、アグネアをこうして迎えに来てくれるのはほとんどヒカリだった。
 月の光を浴びながら、夜闇の道を隣り合って歩く。暗い夜でも、隣に彼がいるだけでどこよりも安心できた。彼の剣はどんな脅威も払えることをアグネアは知っていたし、たとえ躓いても、彼は自分を絶対に置いていかないと信頼していたから。
 ヒカリにだけそういう風に思う自分が、アグネアには不思議でもあった。


「──でね、マスターさんが何回注意してもおっきい声で歌うから、あたし一緒にセッションしちゃうことにしたの」
「ほう、うまくいったのか?」
 今日あった、舞台に飛び込んできた酔客とのエピソードを聞いて、ヒカリがおかしそうに笑う。
「盛り上がったよ〜! あの人、酔っ払ってなかったらきっともっといい声だったと思うんだ」
「ふふ、そなたらしいな」
 はた、と視線が合った。月光を受けて微かに煌めく瞳に、心臓が突拍子にどきっと跳ねる。どれだけ共にいる時を重ねても、アグネアはいつまでも彼の優しいまなざしに慣れることはなかった。彼の漆黒の瞳は夜空のように澄んでいて、星のように冴え冴えとした光を抱いている。そんな特別な瞳が自身へ向けられる度、アグネアの心と体は熱を上げた。強くて優しい彼が自分を気にかけてくれることが伝わってきて、それだけで足が浮いてしまいそうになる。
 だが、その熱を自覚した途端、いつもひやりとした感覚がアグネアの心に触れるのも事実だった。瞳の奥に彼がどんな想いを抱いているのか、それに向き合うことを恐れていたのかもしれない。
 正直アグネアは、彼が言い出した『約束』が、これほど続くとは思ってもいなかった。
「……ヒカリくんは、さ」
「ん?」


 ──他のみんなに断って、あたしのこと迎えにきてくれてるの?
 ──どうして、あたしとこうして一緒にいたいと思ってくれてるの?
 胸の底から、泡のように浮かぶ困惑にも似た疑問。口にしかけて、アグネアは勢いよく首を振った。
「ううん、なんでもない!」
 もしも同じことを訊かれたら、自分は答えを返すことができないだろうから。いや、返したところで二人の未来が変わることはないと解っていたから。


「そうか? もし困ったことがあるなら、いつでも言ってくれ。俺でよければ力になろう」
「大丈夫だよ! ヒカリくんのそういう気持ちだけであたし嬉しいんだ」
「……そうか」
 嬉しいのは本当だった。でも、気遣っていると言わせてしまっているようにも感じて申し訳ない。ならばこうして一緒にいることを断ればいいのに、それはしたくない。
 やっぱり、ヒカリの顔を見て、声を聞いて、心を通わせることは喜びなのだ。自分のやるべきことをしっかりこなして、そのうえでヒカリと一緒にいられる日々が、本当に幸せだと思う。


 それからの短い帰途の間にも、明日の宿の朝食は何だろうかとか、ヒカリが今日試合した相手のことなど、他愛のないことを話した。平凡なありふれた話なのに、とりとめなく言葉を交わすだけで元気になれた。そんな楽しい時間はあっという間に過ぎて、二人は宿屋に帰りつく。
 ヒカリはきちんとアグネアを、旅の仲間の女性陣で取っている部屋の前まで送ってくれた。
「では、また明日だな。おやすみ、アグネア」
「うん。送ってくれてありがと、ヒカリくん。おやすみなさい」
 そしてアグネアは静かに部屋の扉を開けた。だいぶ夜も更けていたから、ソローネはともかくオーシュットやキャスティはそろそろ寝ているだろう。
 と、思ったのに、部屋の隅にはランプの灯りのもと、薬師キャスティがなにやら作業をしていた。もちろんオーシュットはすやすやと寝息を立てていたし、ソローネはやはり不在であった。
 部屋の戸が開いたのにすぐ気づいて、彼女はアグネアの方に頭を向けた。
「あら、アグネアちゃん。お帰りなさい」
「ただいま……まだ起きてたんだね、キャスティさん」
「ええ、久しぶりに会う患者さんがいたから」
 キャスティの目の前にはいくつか薬草と薬瓶、乳鉢に乳棒が置かれていた。傍らには冷めたお茶のカップもある。だがキャスティは調薬の道具を片付け始めた。
「お仕事終わったの?」
「今日はもう大丈夫なのよ。アグネアちゃんを待ってただけなの」
 といってキャスティがアグネアの方を見てにっこりと笑う。面倒見の良いこの女性は、帰りが遅いアグネアを心配してくれていたのだ。
「あ……ごめんなさい、待たせて」
「ふふ、構わないわ。起きているぶんにはやることはあるしね。……まあでも、ヒカリくんがついているから取り越し苦労だったかしらね」
 急に彼の名前が出てきて、アグネアは大いに動揺してしまった。
「え、ええっと……」
「今夜も迎えに行ってたんでしょう? 良かったわね、アグネアちゃん」
「……うぅ」
 キャスティの懐の深い微笑みの前では、アグネアは何も反論できなかった。良かったわね、という一言だけで、自分の気持ちもばれてしまっているのだと知る。少なくとも、自分がヒカリと一緒にいることを望んでいるということは。
 固まってしまったアグネアの肩に、椅子から立ったキャスティがそっと触れる。
「今まで旅をしていて、アグネアちゃんにはいろいろつらいこともあったと思う」
「え……」
「でも、アグネアちゃんはいつも笑顔を絶やさないでスターになれたんだから、本当にすごいわ。きっと、ヒカリくんの存在が大きかったんだろうなって思うのよ」
「キャスティさん……」
 キャスティの眼から見て、ヒカリとアグネアの距離はそんな風に見えていたのか。それをどう受け取ったらいいのか、アグネアにはわからなかったが、ひとつ言いたいことはすぐに思い浮かんだ。


「ヒカリくんだけのおかげじゃないです……キャスティさんも、みんなもいたからあたし、頑張れたんです」
 誰が欠けてもアグネアの旅は目的を果たせなかっただろう。もちろん目の前にいるキャスティだって、傷ついた足を治療してくれたり、母のように心配してくれたりと、たくさんアグネアを癒し支えてくれた。
「……だから、本当は少し、これからが怖いんです」
 ぽつりと零してしまったのは、ヒカリにはきっと言えないこと。
「この旅は、いつか絶対に終わってしまうから。そうしたらみんな、別々の道を歩いていくでしょ? ……その時も、あたしは笑顔で、スターで、いられるのかなって」
「……そうね」
 キャスティの手が、今度はアグネアの癖っ毛を撫でる。その仕草は母の面影を思わせた。
「確かに、みんなそれぞれの旅がある。アグネアちゃんの言う通り……きっと、その時は寂しくなるでしょうね」
 気遣わしげにキャスティはアグネアの憂いを受け止めてくれたけれど、同じことをヒカリから言われたとしたら、自分は耐えられるだろうか。
 別れがあると分かっていたから、アグネアは彼と一緒にいたいと思った。そして彼も共にあろうと言ってくれた。
 でも、本当は終わりたくなんかない。終わってしまったら、笑顔にすらなれないかもしれなくて。
「本当は、ずっと……」
 その先は、キャスティにさえ、言えない。
 衣装の裾を握り締めて立ち尽くしていると、薬師の声がふいに明るくなった。
「でもね、アグネアちゃん」
 それはまるで、消えかけている灯火に息を吹きかけて、再び明かりを大きくするように。
「人の縁は、そんなにもろくはないものだから。お互いに思い合ってさえいれば、永遠に別れてしまうなんてことはないのよ──たとえ、死の門が間を分かっていたとしても」
「……!」
 アグネアははっと顔を上げた。キャスティの蒼い目は澄んだ青空のように希望に満ちている。
「キャスティさんの、大切な人たちも……?」
「ええ。彼らのまなざしは、私の心のそばにある。私たちはいつも一緒よ」


 エイル薬師団。キャスティがかつて長を務め精力的に活動した、そして今は存在しない仲間たち。
 彼らは志をキャスティに託して、そして彼女は仲間たちの想いを抱き、また人を救う道を歩み続けようとしている。
 そんなキャスティの凛とした生き方は、今のアグネアには月の光みたいに眩しかった。


「そっか……キャスティさんはすごいな。あたし、まだそんな風に考えられないです」
「そうかもしれないわね。でも、その時になったらアグネアちゃんも必ず、乗り越えられると思う。私はそう信じているわ」
 はっきりと言い切るキャスティの芯の強さが、アグネアの脚に力を与えようとしてくれていた。
「あなたには、みんなに希望を与える力がある。それはどんな薬にもできないことだから」
 自信を持って、と薬師がもつ慈愛の声が言う。
 だからアグネアは頷いた。たとえ今は彼女の望むように自信を持てなかったとしても、薬瓶のように彼女の声と言葉を大切にしようと思った。