あなたの星になりたい

3. 砂漠で光る星になれたら

 ヒカリの祖国、ク国はもうすぐそこまで迫っていた。
 少し時を遡ったある日、ワイルドランド地方の奥地にひっそりと建つ遺跡にて、学者オズバルドは彼の方程式に対する“根源”を見出し、愛する娘を救い出した──しかしそこで彼が対峙したのは“暗黒”の力。それを目の当たりにした神官テメノスには、またも思うところがあったようだ。その夜は遅くまで彼自身の手記をもとに、ソローネのいう“名探偵”状態に入り込んで、薬師キャスティには半ば呆れ混じりに心配されていた。
 そして、ヒカリもその“暗黒”を前にして何かを感じていたのを、アグネアは知っている。刀の柄を硬く握り締め、黒い眼を開いて立ち尽くす姿は、戦いを前にした時とはまた違う緊張感を漂わせていた。
 彼が内なる何かと闘っているのだろうということも、アグネアはなんとなく感じていた。もしかしたらそれが、テメノスやオズバルドが出会ってきた“暗黒”と関係のあることなのかもしれない。けれど結局アグネアは、ヒカリの心の内に何が存在していたのかを、結末の時を迎えるまで知ることはなかった。二人で一緒にいる時、ヒカリは一切“陰”を見せなかったからだ。
 そしてその結末の時を、アグネアはいよいよ迎えようとしている。彼女たち八人の旅人の歩みの前には、ヒノエウマ地方の砂礫に覆われた地平線が見えていた。


 ク国の燃え果てた城下街を望む一帯に、小さな村をつくるほどの人が集まっていた。だというのに人の声は密やかで、砂とともに吹き荒れる風の音の方が余程大きい。もちろん、笑顔などひとつもない。誰しもがこれから起こることに備えて、己の身を強張らせている。
 踊子アグネアでさえも、例外ではなかった。これは今まで彼女が体験してきた、目の前の障害を乗り越えるための戦いとは訳が違った。
「うう……あたしも絶対ついてくって、言ったはいいけど……やっぱり緊張するよ」
 ぽつりと独り言を零しつつ、アグネアは野営地の端で手持ち無沙汰に佇むばかりだった。
「ま、私らは素人だからね。できることは限られるんだし、今はじっとしてるしかないよ」
 同じく片隅に立っていたソローネが、そわそわと落ち着かないアグネアを見て苦笑する。他の旅の仲間たちは、ク国を取り戻さんとする兵たちにそれぞれの形で協力すべく、あちらこちらに散らばっていた。
 薬師キャスティは、もちろん薬師として怪我の治療の準備に。神官テメノスも回復魔法が得意なので、そちらを手伝うとのこと。
 学者オズバルドは、今回総大将となるヒカリや軍師カザンに呼ばれて、作戦に知恵を貸しているらしい。
 商人パルテティオは、あちらこちらから調達してきた軍事物資の振り分けに目利きの力を生かしているようだ。
 狩人オーシュットも特に任された役目はないのだが、彼女のことだろう、砂漠で食える魔物を見繕いに行っているに違いない。もちろん食料の調達は軍事行動の上でも大事な仕事である。
 そんなわけで、己の特技と戦の準備が合わないアグネアとソローネの二人は、野営の構築が済んで戦の準備にかかる人々を前に、手をこまねいていたというわけだ。


(でも、あたしだって、やれることがあるはず……)
 アグネアが最も得意とし、(たの) みにしてきたのはもちろん踊りだ。踊ることで今までの旅のように、ク国を取り戻したい人々に希望を与えることができるだろうか。いや、さすがに今は踊りを見てくれる程手の空いている人間はいないだろう。
 彼女の頭にあったのは、いつかヒカリと大闘技場を擁する街で話した、あるもののことだった。


「アグネア。あんた、ほんとはやりたいことあるんじゃない」
「……ソローネさん」
 さすが、アグネアにとって姉ともいえるソローネは鋭かった。そしてどこか愉快そうでもあった。
「多分、あんたのやることならプリンスだって喜ぶと思うよ」
「もうっ、またそういうこと言って……でも、そうだといいな」
「で、何企んでんの。私にも一口乗せさせてよ、暇だし」
 そこでアグネアはこそこそとソローネに耳打ちをした。なるほどね、と盗賊は軽く頷いて、あっさりこう言った。
「だったら、あのつるつる頭の人にでも聞いてみれば? 確かパルテティオと物資のことあれこれしてたよ」
「つ、つる……っ」
 ソローネの口さがなさに、思わず引きつった笑みが浮かんでしまったアグネアだったが、おかげでソローネが誰を指しているのかはすぐに分かった。確かに、あの人なら戦を率いる立場であり、ヒカリと仲がよいだろうと思われるし、かついかにも気安そうな人物だ。
 きちんと“整えた”頭を夕陽に照らされたその人物は、商人パルテティオの黄色い帽子と並んで非常によく目立った。アグネアは迷わず、彼のもとへ駆けていった。


「いやあアグネア殿! 踊りが得意だと殿下から伺ってはいましたが、貴殿にこんな特技があったとは!」
 やがて陽も沈もうかというとき、ヒカリの重臣ベンケイは 呵々 (かか) とアグネアの隣で笑っていた。横で商人パルテティオが苦笑し、盗賊ソローネは呆れたように首を振っている。今日のこの短い間に、ヒカリがこれまでの旅路で折に触れて語ってきた重臣の声の大きさを、二人とも存分に知ったというところだろう。
 アグネアも彼の勢いに気圧されながらも、なんとか目的を達成していた。ぶっつけではあったものの当事国の人間に目の前の成果を褒められて、少し照れくさい。
「え、へへ……特技というほどのものでは。家でいつもやってましたし」
「しかし、我らの大事な食事のことを、まさか他国のお嬢さんに思い出させてもらうとは」
 彼らの目の前では、鍋がくつくつと湯気を上げながら煮えていた。落ち着いた鈍い紅色のそれは、ク国で穫れる最も一般的な穀物でつくった“アズキガユ”だ。
 戦の前に、亡き友を想っていただくとても大事な料理。そうヒカリに教わってから、アグネアはいつかこの料理を彼に作ってあげられたら、と思っていた。
「きっと、喜ぶと思います。ヒカリ様だけでなく、ここに集った多くの者たちも」
 ベンケイはしんみりと呟いた。きっと彼も今日の為に誰よりも心を砕いて、戦の準備をしてきたのだろう。戦の前の伝統食に思いが至らなくなるほどに。
「そうだと嬉しいです。……ほんとは、あたしの思い付きで大事な食料を無駄にするのもどうかなあって、思っちゃったりもしたんですけど……」
「無駄なものですか。元々我らは明日で全てを決するつもりで作戦を立てていたのです」
 アグネアの心配にベンケイが請け合った。
 今回の戦は領土の拡大を目的とするような戦略的なものではなく、遥かに衝動的な 政変 (クーデター) だ。地の利も戦力的な優位も明らかに攻め込まれる側のムゲン将軍にあり、もしも短期決戦に持ち込めなければ、その時点でヒカリたちの負けも同然であると重臣は語る。
「まさかムゲンが籠城などという手段は取らんでしょうからな、意味がない」
「そ、そういうものですか……」
「失敬、戦に親しまぬ者には少し難しい話でしたな。……だが、だからこそこのアズキガユには意味がある」


「そーそー、腹が減ったらいくさはできぬって言うしさ!」


 ぴょこんと獣の耳が会話に飛び込んできて、アグネアは思わず横へ飛びしざってしまった。
「わあっ、オーシュット!?」
「お~、相変わらずアグねえの飯はウマそうだね~」
 突然乱入した狩人オーシュットは、すんすんとうまそうに鍋から漂う匂いをかいでいた。右手にはなにやら甲殻類のようなものを鷲掴みにしている。会話を邪魔されてもベンケイは嫌な顔ひとつせずに、狩人の獲物を見つけて相好を崩した。
「おお、それはサソリですな。尾を落として姿揚げにすれば滋養もたっぷりですぞ」
「おっちゃんさっすが~。いっぱい取ってきたからみんなで食おうなー」
 いつもののんびりとした調子でベンケイに蠍を押し付けたオーシュットが、ふいにくるりとアグネアの方を向いた。
「アグねえも食べる?」
「え? えーとぉ」
 狩人のまんまるい目はきらきらしていた。常ならオーシュットの獲物は喜んで調理するところだが、ちょっとさすがに、見た目が──本当に食べていいの、それ?
 それに、とアグネアはちらりと人混みの方を見る。戦場を見回って作戦を立てていた面々が野営地に帰着しつつあった、その中にはもちろん総大将であるヒカリもいる。彼らに、彼に、あたたかいこの料理を持っていきたい気持ちもあって。
 答えに窮していると、オーシュットはにかっと笑って言った。
「ま、わたしがウマく“かこう”しといてやるよ」
 アグねえはいっといで、と、オーシュットはまるですべてお見通しとも言わんばかりに、アグネアの背中のあたりを軽く押した。
「う、うん。……ありがと、楽しみにしてるね」
 実際、狩人はすべて「かぎつけていた」のかもしれない。彼女にはそういうところがある。ちょっと恥ずかしいなあ、と思いながらも、アグネアは器にできたての粥をよそい始めた。


 踊子アグネアが野営地のあちこちへアズキガユを持っていくと、兵士たちはさまざまな顔を見せた。
 単純に温かい飯を喜ぶ者から、懐かしさに目を細めるもの、そしてうっすらと涙を浮かべる者まで。彼らは概ねアグネアの供する料理を喜んでくれた。
 礼を述べる彼らに笑顔を返しながら、アグネアはこの人たちが無事に帰れますようにと心の中で祈るのだった。
 彼らはヒカリのいう“友”なのだ。だから誰もいなくなって欲しくないと思った。
 そんな中、天幕の内のひとつを訪ねると、そこには学者オズバルドがいた。相変わらず彼は自分の手記を覗き込んでいたが、アグネアが声を掛けるとすぐに顔を上げた。きっとお腹が空いていたのだろう、軍師カザンに連れられてあちこち歩いていたようなので。
「オズバルドさん、ご飯食べます?」
「……貰おう」
 椀を素直に受け取って、かと思うと彼の鋭い目が瞬く。
「実践したんだな」
 その一言に、アグネアは頬を染めた。
「はい……時間、かかっちゃいましたけど」
「東大陸ではほとんど出回らない食材だっただろうからな。仕方あるまい」
「あの、あの時は本当にありがとう」


 アグネアがアズキガユを知ったのは、大闘技場だけでなく大図書館も擁する街モンテワイズでのことだった。
 ひょんなことでオズバルドに図書館内を案内しようと言われたとき、もしかしたらと思い彼に尋ねたのだ──ヒノエウマ地方の料理のレシピを書いた本はないか、と。
 とっつきにくい見た目をしていても意外と付き合いの良い彼は、司書に尋ねてまで一緒に本を探してくれたのだが、さすがに東大陸最大の図書館でも、西大陸の最も西方に位置するヒノエウマ地方について記した書物というのは相当に限られていた。アズキガユそのものについても文化や習俗を収集した書物にわずかに記述があった程度で、ましてや詳細なレシピにまで言及している料理本などあるはずもなかった。
 唯一それらしいもの、といって司書が見つけ出してくれたのは、何とヒノエウマ地方独特の言語と文字で書かれたもので、装丁すらアグネアには見慣れない紐綴じであった。誰か物好きが古本市に出したものの、誰も買い取る者がおらず図書館に寄付されたようだ。
『あちゃあ……絶対書いてそうだけど、読めないですよね』
『……』
『できれば、自分で調べたかったんだけどなあ……』
 もちろんヒカリに聞けば教えてくれたに違いない。でも、あの時のアグネアはなぜかそうするのがとても恥ずかしいような気がしたのだ。もじもじしていると、オズバルドはふむ、とため息をついた。
 かと思うと、アグネアと司書の双方にこう言った。
『しばらく俺に預からせてくれ』
『え?』『返却期限を守ってくれれば構いませんよ』
 目を白黒させながら本をオズバルドに預けて、数日。
 次の旅の目的のためモンテワイズを出なければならなくなったちょうどその日の朝、学者は一枚の書付をアグネアによこした。それはアズキガユの作り方を、ヒノエウマの独特な言語からソリスティアの共通語に訳したものだった。もちろん訳者はオズバルドである。
『わあ……ありがとうございます!』
『構わん。翻訳は良いプラクティスになる』
 以来、アグネアはずっと大切にレシピを持ち歩いていたのだった。ヒカリに作ってあげられる機会があれば、と。


 そして今、己の訳したレシピから作られた料理を、オズバルドは頂くことになったわけである。アグネアの礼には黙って匙を口に入れることで返した彼は、そのまま黙々とアズキガユを食べ続けた。
 一気に半分も食べ終わって一息ついたのを見て、アグネアは思い切って尋ねてみた。
「あの……おいしくなかったですか?」
 するとオズバルドは目だけアグネアに向けて聞き返した。「何故そう思った?」
「い、いや……オズバルドさん、ずっと眉間に皺寄ってたから」
「そうか?」
 どうやら自覚がなかったらしい彼は、軽く首を振ってからこう言った。
「いや、ずっと考えていた。……聞いていいか、アグネア」
「え? もちろん、なんでも!」
 オズバルドがアグネアに何かを尋ねるなどとても珍しい。なんだろう、と首をかしげると、彼はまたとんでもないことを聞いてきた。
「おまえをここまで駆り立てた“根源”は、何だ?」
「へっ!?」
「類似していると推測したのだ。……俺の方程式に当てはまった“根源”と、おまえを馴染まぬ国の料理に駆り立てた理由が」
「え、えーと……」


 アグネアは答えに困った。そして顔はまたアズキガユ並みに赤くなっていた。
 オズバルドが旅の果てでついに完成させた究極魔法、その方程式に当てはまるだろう“根源”が何であったかなんていうのはアグネアにだってわかる。それは彼の、娘や妻に対する深い愛情に他ならない。けれど当のオズバルドにはその思いがなぜ“根源”足り得るのか、未だにわからずにいるらしい。
 誰かのために何かをしたい、それが力になるというのはアグネアにとっては自然なことだった。踊りでみんなを幸せにしてきた、そんな母の背中をずっと見て育ってきたアグネアには。
 だから、アズキガユを作りたいと思った。ただそれだけなのだ。


「そ、それ、言わないとダメですか……」
 だけど、どうしてこんなに恥ずかしいんだろう。誰かのために何かをしたい、そう思うのは自然なことのはずなのに?
「聞かせて欲しい。他方面からのアプローチが必要なのだ」
 オズバルドがアグネアに何かを頼むなどとても珍しい。それにとってもお世話になったのは確かだ、だから彼女は理由の分からない恥ずかしさを堪えて答えた。
「ヒカリくんに、無事に帰ってきて欲しいから……ヒカリくんだけじゃなくて、これから戦いに行くヒカリくんの友だち、みんなにも」
 答えを聞いたオズバルドは、彼女の答えを咀嚼するように長い沈黙を経て、やがて頷いた。
「……ふむ、そうか。“根源”は料理の味にも影響を与えるのだろうか」
「え?」
「済まないが器を下げてもらえるか。俺は研究に戻る」
 といって、オズバルドはいつのまに食べきったのか、きれいに空となった器をアグネアに返した。
「ヒカリもあの軍師と共に司令の天幕へ戻っているころだ。行くといい」
 そして、彼は己の書きつけた手記に再び没頭しようとするのだった。
「え、あ、はい! ありがとう!」
 アグネアは恩人に頭を下げると、衣装の裾を翻して慌てて鍋のところへ戻っていった。


 そして温め直した粥を持ってアグネアが一番大きな天幕へ駆けつけると、ヒカリはすぐに気づいてアグネアに微笑みかけた。かたわらに軍師カザンの姿もあって、アグネアは慌ただしく彼に会釈した。
「ああ、いいよお嬢さん。鷲は最後に戦場を見回って来よう」
「え? あ、すみませんお邪魔しちゃって」
「なあに構わん構わん」
 そして軍師はヒカリに意味ありげな笑みを投げて、ふらふらと夕闇の中に消えていくのだった。片手になぜか杯を携えながら。
「い、いいのかな」
「本人がああ言うのだ、気にするな」
 どこか呆れた様子のヒカリもそういうので、じゃあ遠慮なく……とアグネアは器を乗せたお盆をヒカリに差し出した。
「あの、アズキガユ作ってみたの。……食べる?」
「勿論だ。そなたがあの料理を作っていると聞いて、楽しみにしていたんだ」
 ヒカリは本当に嬉しそうに、アグネアから湯気を上げるアズキガユを受け取った。
「ああ……この香りだ。出来たてでなければこの香りは味わえない」
 そしてゆっくりとひと匙を口に入れ、そしてまたひと匙。だんだん、彼が匙を動かすのが速くなっていく。
 その間、アグネアはずっと胸をドキドキさせながら立ち尽くしていた。食べる姿をじっと見つめるような不作法は、かろうじて控えたけれど。
 そういえば、ヒカリがモンテワイズで闘技大会前に食べていたアズキガユは、穀物を焼き固め携行できる形にしたものを、沸かした湯で戻して作っていたらしい。アグネアがオズバルドにもらったレシピは、もちろん生の穀物を煮込んだものなので、ヒカリがあの時食べていたのとは大分違う味だろうと勝手に想像するアグネアだった。
 それにしても初めて作ったアズキガユは、食べ慣れているだろう彼の口に合ったものだったろうか。


「アグネア」
 不意に名を呼ばれて、物思いからはっとアグネアは引き戻された。
「な、なにっ?」
「ありがとう。とても美味かった」
「……!」
 微笑む彼の手には、きれいに空になった器。アグネアは心底嬉しく、また安心した。
「よかったぁ……初めて作ったからうまくいっているか心配だったの」
「そなたの作るものだからな、俺は初めから心配していなかったぞ」
「えっ」
 なぜか自信満々に言い切るヒカリに、アグネアの頬がまた赤くなる。しかしヒカリは百面相をする彼女に気づいてか気づかないでか、天幕の入口にかかった布を上げて言った。
「それに見ろ、アグネア。友たちの喜ぶ姿を」
 促されて、アグネアは野営地を見渡す。夕闇に覆われた野営地は確かに戦の前の緊張感に満ちていたが、それでも昼間アグネアとソローネが手持ち無沙汰にしていた頃よりは、どこか空気が和やかなように感じられる。
 野営地の合間を行きかう、わずかな篝火に照らされた兵たちの表情は明るかった。そう、まさに──
「そなたのアズキガユで、友たちは希望を得たのだ。生きて国を取り戻す……そんな希望を。ありがとうアグネア、そなたのおかげだ」
「あ、あたし……そっか、希望をあげられるのは、踊りだけじゃないんだね」
 ヒカリの叶えたい夢、祖国を取り戻し王となること。その手伝いをすることが少しでもできたのだろうか、踊りだけを恃みに生きてきた田舎娘でしかないあたしが。そう思うと、アグネアの目の奥は不思議と熱くなってくるのだった。
 みんなで生きて、明日あの国へ帰るのだ。ヒカリも、自分も、旅の仲間たちも。ヒカリが治めていた平和な国へ帰りたいと望むすべての人々も。
「必ず、生きて……叶えようね、ヒカリくんの思い」
「ああ、共に叶えよう。必ず生き延びて……な」
 ヒカリの片方の手が、そっとアグネアの肩に添えられる。真っ直ぐにこちらを見つめる彼の黒い瞳も、希望の光を帯びて熱い。
 アグネアは彼が放つ希望の光を、胸いっぱいに受け止めて頷いた。


 翌日、ク国には嵐が吹き荒れた。
 砂が雪崩込み、追撃の鐘と共に雷が閃き、そして暗黒の炎が燃え上がる。その昏い炎がもたらす陰の下にはしかし、求道者を王道へ導く確かな光があった。
 ヒカリに血路を拓いてみせたのは、信頼に応えて馳せ参じたライ・メイの槍。
 ヒカリに陰と立ち向かう力を与えたのは、国を変える信念を託したリツの剣。
 両者を以て、剣士にして王子ヒカリは宿敵ムゲンを倒し──ク国はついに夜明けを迎えた。


 平和を取り戻すために一歩を踏み出したク国の上には、どこまでも高く澄んだ空が広がっていた。その空が紅く染まっていく頃、アグネアはヒカリを探して砂漠を駆けていた。
 ついさっきまでは戴冠式をしていたのだ、そう遠くは行っていないはず。式が終わるや否やなぜかいなくなってしまった彼に、ベンケイ始め朱玄城の面々、そして旅の仲間たちは大騒ぎになっていた。
 アグネアも心配していた、そして焦ってもいた。ついにク国の王となったヒカリと、あとどのくらい自分は共にいられるのか。もう最後になるのかもしれないから、少しでも話したいと思った。だから街じゅうを駆けて、探して。それでも見つからないから、とうとう一人で街の外にまで出て行った。砂に足を取られながら歩いて、走って、そして。
「ヒカリくん……!」
「アグネア」
 丘の頂上で、ヒカリははっとアグネアを振り返った。彼の前には、何本かの剣が砂に立てられていた──まるで墓標のように。それに気づいて、アグネアは足を止めた。
「ごめん、もしかして……邪魔しちゃったかな」
「いや、大丈夫だ。我ながら少し長居をし過ぎてしまったらしい」
 苦笑するヒカリは旅の間に何度も見た顔をしていた。王様になっても、ヒカリはヒカリなんだと思う。
 そろそろ戻らなければ、と呟いた彼だったが、しかしその場から動こうとしなかった。彼は砂風に紛れそうな声でぽつりと零した。


「ここへ来たのが、そなたで良かった」
「え……?」
「話したいと思っていたことがあった」
「そ、それって」


 もしかして、この先のこと──? 夕陽でもまだ熱い日光に晒されているのに、なぜかひやりと冷たいものがアグネアの背中を伝う。身を強張らせるアグネアに、ヒカリが言ったのはこんなことだった。
「そなたには、この戦で色々と辛いものを見せてしまったと思う。……謝りたいと思っていた」
「……そんな、どうして」
 どうして今更そんなことを言うのだろう、アグネアは思わず拳を握り込んでしまった。
 確かにこの戦は、アグネアがそれまで越えてきた戦いとはわけが違う、多くの者の命を燃やした戦争だった。
 剣の鬩ぎあう音、絶望の叫び声、倒れる兵たちはたしかにアグネアの心を痛めた。それでも彼女は後悔なんてしていない。
「あたしが一緒にいたいと思って、最後までついて行ったんだよ。ヒカリくんが夢を叶えるのを見たいと思ったし、応援したかったから」
「そうだな……そう、だよな」
 叱られた子供のように、ヒカリは珍しく俯いていた。
「矛盾してはいたんだ、初めから。そなたに戦など見せたくないという思いもあったが、それでも共にいて欲しいという思いも強かったものだから。……だから、当然のように共に戦ってくれるそなたに、甘えてしまったかもしれないと思ったんだ」
 アグネアは驚いた。誰かに“甘える”、そんな言葉がヒカリから出るとは思わなくて。彼はいつだって、アグネアを支え導く光であったのだから。謝られた時に感じた、怒りにも似た思いも忘れて、彼女は尋ねていた。
「どうして、そんな風に思ったの?」
 目を閉じていたヒカリは、ゆっくりと答えた。
「リツと、戦った後のそなたが……今にも泣きそうな顔をしていた」
「……!」
「その時、初めて後悔した。そなたを、この戦に巻き込んでしまったことを」
「……ヒカリくん」


 目の前の王子と、信念を、そして命を懸けて戦った将軍リツ。
 朱玄城で相まみえる前にも顔を見たことはあったが、彼の眼差しはヒカリと友であったことを感じさせないほど苛烈だったことを、アグネアは覚えている。
 そんなリツとヒカリとの斬り合いは壮絶で、だけど目を逸らすことなどできなくて。ヒカリにまつわるすべてを斬ろうとした彼と、アグネアもほんの一瞬だけ短剣を交えた。身を守ることすら危うかったその瞬間は、もちろんヒカリが助けてくれたのだけど。
「あたし、さっきも言ったけど、後悔してないよ」
 本物の戦争は確かに怖かった。かつて友、そして家族だったはずの人間ですら敵に回してしまう、主義思想 (イデオロギー) の違いはなんと恐ろしいことだろう。
「でも……やっぱり悲しかったかな。リツさん、最後……ク国を変えてくれって、ヒカリくんに言ってたよね」
 だがリツは、本当にヒカリと道を違えていたのだろうか。
 ほんの少し、目線が違っていただけで──リツが見たかった“ク国”は、ヒカリと同じ形ではなかっただろうか?
 けれどそれを聞くことも、既に叶わない。彼はもう、高い空の上へ行ってしまったから。


「どうして……一緒に、同じ道に、立てなかったんだろうね……」
「……アグネア、そうだったのか」
 すぐそばから、ヒカリの声がした。アグネアは気づかなかったが、彼の囁くような声音は心もとなく掠れていた。
「そなたは、友のために泣いてくれていたんだな」
「あ……」
 頬に、指先がふれる。いつのまにか一粒零れ落ちそうだったものを、ヒカリの長い指先がそっと掬い取っていた。
「ご、ごめんね? そんなつもりじゃなかったんだけどっ」
 慌てて自分で涙を拭おうとしたアグネアの手は、やんわりと止められた。
「堪えることはない」
「ヒカリくん、」
「そのままで、いい……アグネア」
 彼女の手を取ったまま、ヒカリはじっとアグネアを見つめていた。恥ずかしい、と思ったのに、彼の黒い瞳の奥が揺れているのに気づいたら、その手を払うことはできなかった。
 代わりに、心の内にあった想いを口にする。


「あのね、あたし……本当に、誰もいなくならないで欲しかったの。だって……だって、みんな、ク国のひとたちはヒカリくんの“友”、そうでしょ?」
「……ああ」
「リューの宿場から、ク国に来て……みんなと話すヒカリくんのこと見て、心の底からそう感じたんだよ」
 国を取り戻したいと志して集まった人々と、ヒカリは分け隔てなく話した。どう歩みを進め、どう攻めていくのか、誰とでも意見を交わし合い、また時折“友”たちの心の声を聞いていた。
 “友”たちは心から、平和と友情を愛する王子を慕っていた。そして彼らの思いをヒカリは歓迎していた。
 そういうことが、ずっと彼と一緒に旅をしてきたアグネアにも存分に伝わってきた。アグネアには名も分からない人々の誰一人が欠けても、きっとヒカリは悲しむだろうということも。
「だから、アズキガユを作ったの。ヒカリくんにも無事でいて欲しい、みんなにも……でも、あたしのやったことなんて、本当にちっぽけだったんだな、って」
 穀物を洗いながら、火を熾しながら、杓子を回しながら、アグネアは祈った。
 みんなが無事に帰ってこられるように。──しかしその祈りはあまりに無力だった。あまりに、甘かった。
「どんなに願っても、笑顔でお話できなくなってしまう人もいて、それってどうにもならなかったんだって、思うと……悲しいかなぁ。……へへ、あたしやっぱ、なんもわかってねぇ田舎娘だったなって……」
 ここで泣いたらヒカリを困らせてしまうのは分かっていた、だから一生懸命我慢していたのに、どうしても声が震えてしまう。
 すると急に、ヒカリがアグネアの手を握る力が増した。
「アグネア、そんな風に言わないでくれ。そなたの願いは、無駄なんかじゃない……現に、俺がいま、救われているのだから」
「え……」
「俺は確かに血を流さぬ世を作りたいと思って、その為ならば流される血があることも飲み込んでいた。そうでなければ、道を開くこともできないからだ。──だが、その為に俺が捨ててきたものも、確かにあった」


 丘の上に吹く砂風が止んだ。代わりにアグネアの肌に触れたのは温もりだった。
 沈みかけた夕陽のような、やわらかな熱。
「そなたが、そうして友を想ってくれることで、俺は……っ」
「……ヒカリくん」
 アグネアは顔を上げられなかった。癖っ毛が跳ねた己の頭に、彼の額が触れている。息が触れるほど近くにいる彼は、微かに、でも確かに震えていた。


(──悲しかったんだよね、ヒカリくんも。当たり前だよ)
 王子として、共に生きる皆の為に顔を上げていかなければならないヒカリは、きっとこれまでずっと、辛さを表すことを己に許すことができなかったのだろう。その温かい心が飲み切れなかった悲しみや、色々なものを奪われてきた恨みもあっただろうに、それらは全て陰の下に押し込んでここまで来たのだ。
 そしてその陰が解き放たれたからこそ、ようやくヒカリは己を許すことができているのかもしれない。
 その瞬間に一番近くで立ち会えたことを、アグネアは幸せだと感じていた。幸福だと思ってしまうことにほんの少しだけ、後ろめたい気持ちもあったけれど。
 彼女は夕闇の帳の下で祈る。辛い時にも寄り添いやがて希望へと導く、あなただけの星になれたらと願った。