あなたの星になりたい

4. 答えへ向かう旅路の半ばで

 翌日から、ク国は少しずつ日常を取り戻すべく動き始めていた。ヒカリは王として国の再建に取り掛かろうと、既に朱玄城の執務室に入って文官と話を始めている。
 ヒカリの客人として朱玄城に招かれていたアグネアたち旅の一行は、ヒカリ不在の中今後どうするかを考える時が来ていた。
 彼らは長い時と歩みを重ね、全員がそれぞれの旅の果てを見ていた。そして旅の果てに、それぞれが次の目的を見出している。ならば導かれる答えは──


「オズバルド。少しいいですか」
 神官テメノスが立ち上がって声をかけた。当の学者オズバルドにも思うところがあったのか、テメノスの呼びかけにすぐ応えて彼についていく。二人が城から出ていくと、盗賊ソローネがふう、とため息をついた。
「そろそろ、進退を決める頃か。……プリンスもキングになったことだしね」
「そうね……ヒカリくんはこれからやらなければいけないことが山積みだものね」
 薬師キャスティが頷き、そして二人の女性は揃って踊子アグネアの方を振り返った。
「え、何ですか二人とも」
「アグネア、あんたはどうするの」
「このままでいいのかしらって、思って……余計なお世話かもしれないけど」
 ソローネはどこか面白がっている風で、キャスティは気遣わしそうで。でも二人とも同じことを言いたいのだとわかってしまったアグネアは、やっぱりすぐに答えることができなかった。
「あたし、は……」
 ク国に残りたければ、そう言えばいい。ヒカリが喜んでくれるかもしれないという感触もあったが、夕べ過ごした丘の上で、彼は今後の話をしようとはしなかった。そしてアグネア自身も言い出すことはできなかった。
 ──あなただけの(スター) になりたい。
 あの時ヒカリの腕の中で願った想いはいまも心の中にある。一言ヒカリにそう伝えさえすれば、アグネアの新たな旅路はその瞬間に開かれるに違いないし、もしヒカリから請われたならば喜んで頷きもしただろう。
 でもどうしてか、アグネアの脚はそこで止まってしまっていた。
「アグねえは、まだやることが残ってるって感じ?」
 迷う踊子に、狩人オーシュットが単純に尋ねた。聞かれてはっと振り返ると、相棒を撫でながらオーシュットはのんびりとした口調で言う。
「わたしもそーなんだよなあ。トト・ハハに帰らなきゃいけないのはわかってるんだけど、なーんかすっきりしないの」
「そうなんだ……でも、あたしはちょっと違うかもしんない」
 みんなの旅路を見届けて、あとは“スター”として人々を幸せにするため踊り続ける。それが少し前まで思い描いていたアグネアの在りたい姿で、今でもその夢は胸の底に灯っている。だから尚更迷うのだ。
 いつかは決めないといけないと分かっている。そしてそのいつかは、今がまさにその時のはずなのに。


(あたし、まだ……このままがいい、って思ってるんだ)
 ヒカリが王になっても、自分はまだ、ヒカリと一緒に旅をする日々とお別れしたくないのだと気づいた。だけどそれはとんでもない我儘でしかない。だって今や彼はどうあってもこの国の王様なのだから。


「ああ、まだ皆さんいましたね」
 聞き慣れた声に、集まっていた面々はいっせいに顔を上げた。学者と共にどこかへ行っていたはずの神官テメノスが旅人たちを見回す。ぽかん、と神官を見やるアグネアを見つけると、彼は明らかにほっとしたように表情を緩めた。
「よかった、あなたもいたんですね、アグネア君」
「なにさテメノス、悪巧み?」
 片頬を上げながらソローネが尋ねると、テメノスは「そんなところです」と頷いた。
「朱玄城の偉い人たちに直談判します。皆さんもついてきて頂けますか」
「え?」


 というわけで、アグネアら旅の一行はぞろぞろと朱玄城の執務室に雪崩れ込んだ。そこには都合よく、ヒカリと重臣ベンケイ、そして主だった文官が集まっていて。
 神官テメノスは自分が聖火教会の異端審問官だという身分をきちんと名乗ってから、手早く事情を説明し始めた。そして。
「ですから、聖火教会としてヒカリ殿のご協力を仰ぎたい、というわけです。ソリスティア大陸を脅かす“暗黒”の正体を解き明かし、退けるために」
 テメノスの主訴に息を飲んだのは、当のヒカリや彼の重臣たちばかりではなかった。アグネアも青い目を瞠って、神官の方をじっと見つめてしまう。
 ──この人は、戴冠したばかりのヒカリくんを、あたしたちの旅に連れて行こうとしているんだ!
 それはアグネアでも、とんでもなくク国に迷惑をかけることではないのかと思う。案の定、文官が顔を青くしてテメノスに反駁した。
「な、なりません! 我が国は今やっと再び立ち上がろうとしているのです、この大事な時に王をよそへ連れていくなどと……!」
「ええ、貴国の状況は理解しています。しかし“暗黒”の脅威は既に我々のすぐ近くまで来ているんですよ、現に教皇がその手の者に殺されているのですから」
「し、しかし……」
「“暗黒”に立ち向かうにあたり、ヒカリ殿の卓越した剣の腕──そして何より、ク家を継いだ者の血と知恵が必要なのです。あなた方は聞いたことはありませんか、ク家に流れている血は呪われているのだ、と」
 ベンケイと文官は黙ってしまった。ク家に生まれた者が代々禍々しい何かを抱えていて、それが侵略国家としてのク国を支えていたことを彼らも肌身で知っていた。もしもそれが、聖火教会のいう“暗黒”に関連するのなら、いずれはその“血”の正体を知るべきなのかもしれない。
「俺の力が必要だと……そう言っているのか、テメノス」
 執務室の椅子からヒカリが立ち上がる。その漆黒の眼は強い意志を宿していた。テメノスは我が意を得たりと、微笑みを浮かべながら頷いた。
「もちろん。あなたがいなければこの調査は始まりません。……ねえ、アグネア君」
「ふぇ!?」
 いきなり話を振られてアグネアは飛び上がってしまった。こんな場面でしがない踊子の発言が何の役に立つのかとも思ったが、テメノスは銀灰の眼で射るようにアグネアを見据えていた。
「あなたがこの隊のリーダーです。誠心誠意、お願い申し上げてください」
「……っはい、」
 神官は大真面目だった。だったらアグネアも心から真剣に、想いを伝えるのだ。
「ヒカリくんが大変なのはわかってる。だけど……お願い、あたしたちの旅にもう一度、もう少しだけ、一緒に来て欲しいの」


 “旅が終わるまでは、共に在ろう”
 その約束は終わってなんかない。想いの灯火はまだ、言葉に吹き消されていないのだから。


 果たして、ヒカリは白皙の顔にやわらかな微笑みを浮かべた。少し前、メリーヒルズの祭殿で約束を交わした、あの時のように。
「そなたたちが望むなら、ぜひ今一度力になろう。それに俺も、この体に流れる“血”のこと、俺の中にいた陰のことを知るべきだと思っている」
 そして彼は重臣たちの方を振り返った。彼らに向けられた視線は有無を言わさぬと主張していて、文官は青い顔のままだったが、ベンケイの方は諦めたかあっさりと笑ってみせた。
「殿下が……あいや、陛下が必要だと思うのなら、仕方ありませんな」
「かたじけない。だが今後の指針はしっかり立ててから出発しよう」
「それはもちろんです、陛下……ああ、胃が痛い」
 そんなわけで、思わぬ形でアグネアの決断は先延ばしされることになったのだった。


「あ、あの……テメノスさん」
 王不在の間における政務の方針を立てるためにヒカリを残して、旅人の面々は執務室から出て行った。その道々で、アグネアはこっそりテメノスに声を掛ける。
「なんです、アグネア君」
「えっと……ありがとう」
「なぜ礼を?」
「え? えっと……」
 正面から理由を聞かれると困ってしまう。結果的にテメノスがアグネアの心の中に燻っていた想いを叶えてくれたのは確かだが、彼は彼の目的のためにヒカリを旅へ連れ出そうとしたのだ。アグネアが礼を言うのが筋違いなのは、確かにそうかもしれない。
「い、言いたかったから! まだちょっと、みんな離れるの寂しいなって思ってたし……だから」
 テメノスは、はあ、とわざとらしいため息をついた。
「ヒカリにまだ居てもらわないと私が困るのは事実です。そして彼はあなたからの“おねだり”なら聞くだろうととも思ってました。だから礼を言うのはむしろこちらです」
「お、おねだりって……そうかも、ですけども」
「ただ」
 急に神官の声が厳しさを増して、アグネアは思わず背筋が伸びる。
「答えを先延ばしにするにも、限界がありますからね」
「う……」
 投げかけられた言葉もやっぱり厳しい。こういうとき、テメノスは“神官”なのだと──迷える羊を導く存在なのだと実感する。
 でも、彼の眼は声の調子ほど厳しくはなく、むしろ。
「あなたは若いです、だからこそ時間という財産がまだたくさんある。……思うがまま進みなさい、アグネア」
「……テメノスさん」
「真実は、既にあなたの心の中にあります。そうではありませんか」
「……」
 彼はそれ以上何も言わず、きびきびとした足取りで前へ進む。神官らしい凛と伸びた背筋に、アグネアはもう一度ありがとう、とつぶやいた。
 そして。
 
「すまない、待たせてしまったな」
 翌朝、砂礫の地平を見渡す街の入口で、アグネアは振り返って彼へ手を振った。
「ヒカリくん!」
「うむ。──また共に在ろう、アグネア。みんな」
 再び旅の果てを見出す、その日までは。


   ◆


 再び八人で揃って大陸を旅する日々は、宝物のような時間だとアグネアは思った。
 一度はもうこんな日は来ないのだと自分へ言い聞かせていただけに、足場の悪い道を歩くことも、雨が降って大木の下に宿を求めることも、冷たくて固い保存食を分けあって食べることも、何もかもが楽しく感じる。
「旅ってこんなに楽しいだなんて、あたし全然分かってなかったな、って思って」
 ある雨の夜、冷たい洞穴の床の上でアグネアはつぶやいた。隣で共に夜番を務めるヒカリも同調する。
「ああ。今までは目的のための旅だったからな……こんな風に、急がずに道を進めるのはいいものだ」
 といっても、時間制限がないわけではないのだ。彼は国を背負う身分で、“暗黒”の調査のためにク国の首脳から与えられた時間はそう多くはない。それでも、己の目標、それも身命を賭けたもののために歩いていた時とは感覚が異なるようだ。
「とはいえ、できれば食事くらい温かいものがいいとは思うな」
「あはは、ヒカリくんがそういうこと言うなんて珍しいね」
「俺も人間だからな。こういう日は、そなたのアズキガユをつい思い浮かべてしまう」
「ひ、ヒカリくん……あれ、そんなにおいしかった?」
 褒め言葉の不意打ちを食らってしまい、アグネアは真っ赤になってしまう。ただ、湿気て火の焚けない夜は暗く、その顔がヒカリには見えないのが救いだった。
「うむ。いつかまた作ってくれ」
「……うん、材料が買えたら作るからね、楽しみにしてて」
 こんな風に他愛のない会話をできることが、切ないほどの喜びだった。──けれど、ゆく先々で路銀稼ぎのため舞台に立って踊ると、己の脚は踊子としての自由な旅路も望んでいると、思い知る。
 アグネアの踊りを見て笑顔になってくれる人々もまた、彼女にとっては宝物なのだった。


 一方で“暗黒”についての調査は進みつつあった。聖堂騎士団に残されたとある騎士による追加調査をはじめ、各地で“暗黒”の爪痕が見つかる度、テメノスやオズバルドは眉をひそめ考察と研究を深める。
 更に、彼らはある遺跡に手記が落ちていたのを見つけた。その手記の主と関係の深かった商人パルテティオ、そして懇意にしていた者が登場した手記の内容に、剣士ヒカリの受けた衝撃はいかほどだっただろう。
 明日を望まぬ者たちの影。その気配に、これまで“暗黒”と縁遠いままだったアグネアも、薄ら寒さを覚えるのだった。


 一通りソリスティア大陸を歩いた一行は、しかし決定的な何かを掴めないまま西大陸へ、ク国の近くまで戻ってきていた。ヒカリは一度ク国へ帰るつもりだという──おそらく、遺跡で見出した例の手記の中に書かれていた人物を調べるためだ。それがどんな真実を暴くことになるか、いまはまだ分からなかったけれど。
 そんな時、商人パルテティオがリーフランド地方の繁華街ウェルグローブへ寄りたいと言ってきた。彼も彼なりに思うことがあるのだろう、以前助けてもらった大富豪アルロンドに用事があるという。というわけで、アグネアら一行はウェルグローブでしばし逗留することになった。
「パルテティオ、ひとりで行くの?」
 宿を取るなりさっさとアルロンドの屋敷へ行こうとする商人へ、アルロンドへの挨拶なら自分も行く気であったアグネアが声をかけると、彼はひらひらと手を振った。
「おー、ちょっと長くなりそうなんでな。お前はイエローウィル自慢の百貨店で買い物でもしてろよ」
「ええっ、そう……? じゃあ、のんびりしてるけど」
「ああ、そうしとけ。次いつ来られるかわかんねーしな。ってことで、おーいヒカリ!」
 なぜかパルテティオは男性陣で取っていた部屋に首を突っ込んで、同じ部屋にいるらしいヒカリを呼ぶ。
「アグネアが出掛けるってよ、ついてってやれ」
「えええっ、ちょっとパルテティオ!?」
 仲間たちが妙に自分たちを気遣ってくれているのはアグネアもとっくに分かっていたが、こうまであからさまに手を回されるのはさすがに恥ずかしい。ヒカリの方もすぐに部屋から出てきて、当然のようにアグネアに「行こうか」なんて言ってくる。
 改めて、あたしたちって一体どういう関係なんだろう……と思ってしまうアグネアであった。でも、ヒカリと一緒に出かけることが嫌なわけでは当然、ない。
「さて、どこへ出掛ける?」
「えーと、買い物っ! 百貨店行きたいな!」
 経緯と状況はどうあれ、これはまさしくデートではないか。自然に胸が弾んで、顔には笑顔が咲いていた。ヒカリが眩しそうに目を細めたのには気付かぬまま。


 そして二人は賑わうウェルグローブの百貨店へ出かけて行った。パルテティオが廃屋を買い取り店を開いたあの時よりも、商人も品数も以前より明らかに増えているようだ。その勢いときたら、百貨店に入る前の通りに店がはみ出しているほどだった。所狭しと屋台やら、品物を載せた敷物やらが並び、売り買いする大勢の人々の話し声がそこらじゅうから上がっていた。
「すっげえ……百貨店でもねえのにいっぱいお店がある……!」
「こうまで賑わっているとは……凄まじいな」
 まるで、アグネアの故郷の村の人間を全部ひとところに集めたらこうなるのかもしれない、という賑わいである。いや、ここにはもっと人がいるのかもしれない。人に流されながら、呆然と華やかな店の数々と楽しそうな人々を眺めるアグネアに、ヒカリが言う。
「はぐれないように用心していこう、アグネア」
「う、うん、そうだね」
 と、言ったばかりだというのに、アグネアはさっそく蹴躓いてしまった。
「ほげぇ!」
「アグネア!?」
 転びかけた彼女がとっさに掴んだのはヒカリの腕だった。けれど彼はさすがの身のこなしで、しっかりと地面を踏んでアグネアを支えてくれたのだった。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ……うう、恥ずかしい……」
「この人混みだが、足元には気をつけねばな」
 ヒカリはこんなとき決してアグネアを笑わない。けれど真面目に諭されてしまうのも、それはそれで居た堪れない気分になる。
「足元……そうだよね……」
 ただでさえ衣装の長い裾と、踊るためのかかとの高い靴を履いているせいで転びやすいのだから。
 気をつけなきゃ、とアグネアが地面を見下ろすと、ぱっと華やかな色彩が目に入った。
「わあ、これなんだろう……! 綺麗!」
 草を編んで作った地味な敷物の上に、色とりどりの束が並んでいる。アグネアがしゃがみこんで売り物を見てみると、それは糸を束ねてできているようだった。敷物の後ろに座っていた商人が、さっそくアグネアに声を掛けてくる。
「おやお嬢さん、お目が高い! これはヒノエウマ地方の特産品だよ」
「“組紐”だな」
 ヒカリがアグネアの横にしゃがんで、一本紐を手に取った。紐はそれ自体、複数の色糸をきっちり編み込んでできているらしい。商人はヒカリにも機嫌よく話しかけた。
「よくご存じですねえ、そういえばあんたもヒノエウマの人のようだね」
「ああ。ク国でこのような紐を作っている職人がいたのは知っている」
「へぇ~、そうなんだ……」
 アグネアも一本、紐を手に取ってみる。それは本当にただの紐なのだが、糸自体がさまざまな染料で鮮やかに染められ、きっちりと編まれているおかげで艶もある。それに、ものによっては編み目だけで繰り返しの模様が表現されていて、どれ一つとして同じものはなかった。
「すごーい、どれもこれも全部違う!」
「ふふふ、全て手作りだからね。少し前まではヒノエウマも戦で忙しくてめったに職人も見なかったんだが、ほら、最近ク国が戦争を止めただろう? おかげで職人たちが少しずつ仕事を始めているんだよ」
 いい世の中になってきているよ、と商人は嬉しそうに笑う。アグネアとヒカリは顔を見合わせて、どちらからともなく二人とも笑顔になる。
 ヒカリが目指した血の流れない世は、着実に始まっているのだ。


 にこにこと話を聞いてくれる客を二人も得て、商人はますます楽し気に売り文句を謳った。
「組紐はなんにでも使えるよ。服の留め具に使うもよし、袋に通してもいいし、単純に腕に巻いて結んでも洒落てるってもんだ。お嬢さんなら、髪に編み込むのも似合いそうだな」
「……!」
 そう言われてしまうと、アグネアの心は揺れ動く。はじめから、組紐の彩りの鮮やかさ、編目の艶やかさにすっかり惹かれていたのだ。付けられている値段も、そう高いものではない。
「じゃあ、ひとつだけ……」
「そう来なくっちゃ! どれ、ゆっくり選んだらいいよ」
 気を利かせたのか、商人がアグネアたちから視線を外して通行人に声を掛け始めたので、彼女は組紐の束を物色し始める。本当にどれ一つとして同じものがなく、一本取り上げてはこれも素敵、と楽しくなってしまう。
 だがヒカリを待たせているので、そう時間はかけたくない。惜しむ気持ちをこらえて、どうにか一本選び出す。


(やっぱり、この色になっちゃうなぁ)
 最後に彼女が手に取ったのは、深紅の紐と鮮やかな赤の紐を主に合わせて編んだ組紐だった。一筋だけ桃色が混じっているのも愛らしい。それは木漏れ日を受けて、夕陽のように煌めいている。
(母さんからもらった髪飾りにも合うし、それに……)
 ちらり、と横目でヒカリの方を見る。組紐の紅い色は、彼の纏う衣装やク国に立つ城を想像させた。すると不意に黒い目と視線があって、アグネアの肩が跳ねた。


「それがいいのか、アグネア」
「え? う、うん、これにしようかなぁって」
「そうか。では、俺が買おう」
「え、えええ!?」
 アグネアが戸惑っている間にヒカリはさっさと硬貨(リーフ) を取り出し、心得顔の商人が組紐を紙に包んでヒカリに渡す。
 そしてヒカリは包んでもらったばかりの組紐を、アグネアに差し出したのだった。優しい微笑みと一緒に。
「そなたにはいつも世話になっているからな。一度ちゃんと礼をしたかったんだ」
「お、お礼だなんて、そんな」
 お世話になっているだなんて、こっちの台詞だと思うのに。躊躇うアグネアの手をヒカリが取り、組紐を握らせる。
「好きに使ってくれ。この色はきっとそなたによく似合う」
「……っ」
 そこまで言われて、断れる道理があるだろうか。アグネアは泣きたいような気持ちで組紐をぎゅっと胸に抱きしめる。
 ──絶対に、大切にする。誓うように心の中でつぶやいて、アグネアはすっくと立ち上がった。そして、長い三つ編みを止めていた紐を一息に解く。
「アグネア……?」
 栗色の髪がふわりと広がり、ヒカリが息を飲む。商人も目を丸くしたその前で、アグネアは買ってもらったばかりの組紐と髪を合わせて手早く編み直し始めた。
「へへ、どうかなヒカリくん」
 三つ編みを作り終えると、くるり、と踊る時のようにその場で一回転。すると、栗色の三つ編みに組紐の紅と薄桃が鮮やかに光る。それだけで、アグネアの心は踊りだしそうになるのだった。
 だって、彼が買ってくれたものだから。きっと似合うと言ってくれたから。
「ああ、よく似合っている……本当に」
 そしてヒカリは、アグネアの期待を裏切らなかった。あの王子様みたいな綺麗な笑顔で、応えてくれたのだった。
「やったぁ!」
 嬉しくって、アグネアは思わずその場でまたくるりとターンを決めてしまった。とたん、周りから歓声を浴びて我に返る。
「なんだ、こんなとこでショーでも始まるのか!?」
「わあ、踊子さんの髪、綺麗~!」
 急に人だかりができてアグネアは慌てた。ここは市場の端ではあったが、こんなところを舞台にしては商人に迷惑がかかる。
「うちの組紐を纏ってくれた踊子さんが踊るよ! 見ていってくれ!」
「えええ!?」
 しかし、まさかの乗りの良さを見せた商人が呼び込みを始めてしまい、前を通行する何人かが足を止めて踊子の方へ顔を向けてくる。もうこうなったら腹を括るしかなかった、お客さんがいるのなら踊りで応えるのがアグネアの使命である。
「えっと、じゃあ一曲だけ! 一曲だけ踊るわよ!」


 ──そんな光景を、近隣のカフェテラスから見守る者たちがいた。
「いやー、さっすがアグネアだな! 大繁盛じゃねーか」
「ていうかパルテティオ、大富豪への挨拶は良かったの?」
「……予想できた光景だな」
 のんきに寛いでいるパルテティオに、泡立ったミルクの乗ったコーヒーカップを傾けてソローネが笑う。オズバルドは黙々と真っ黒なコーヒーを飲んでいたが、視線は手元の本ではなく市場で騒いでいるアグネアたちに注がれていた。
「アルロンドは“お散歩中”だとよ。ま、急ぎの用事じゃねーし別にいいかなって」
「ふぅん?」
「俺はあいつらが楽しんでくれりゃ、今日はそれで良かったっつーわけよ」
 そして商人はらしくないため息を零す。初めから彼は“そのつもり”で、自分の用事はついでだったのだ。ソローネは愉快そうに彼の肩をつついた。
「いい兄貴分じゃん、パルテティオ」
「褒めんなよ、照れるじゃねーか」
「不可解だな、お前たちは」
 眉をしかめながら、オズバルドもまたため息をつく。
「あいつらの“根源”ははっきりしている。わざわざ世話を焼く必要があるのか?」
「だってよ、そうでもしねーとあいつら、旅が終わったら本当に別れちまうぞ。どう見ても好き合ってるっつーのに、もどかしいっつーかよ」
 憤慨するパルテティオだったが、オズバルドは同調するわけでもなく黙っているばかり。
「ま、私らが何かするまでもなく仲良しだけどさ、あの二人は……でも、なんか背中押してあげたくなるんだよね。幸せになって欲しいし」
「……」
 ソローネのつぶやきにも、オズバルドは答えない。ゆっくりともう一口コーヒーを飲んでから、ようやくかぶりを振った。
「少なくとも、アグネアの方は必要ないだろう。あいつの原理は初めから変わらん」
「へ?」
「どういうこと」
 パルテティオとソローネが揃ってオズバルドの方を見やったが、彼は一顧だにしない。
「俺は宿に戻る。ここは人が多い」
 学者はさっさとテラス席を去ってしまった。残された若者二人は、彼の言葉の真意をはかりかねて、互いに顔を見合わせるのであった。


 踊子アグネアによる俄か仕立てのショーが終わり、当の本人はぺこぺこと周りの店の店主と、それからアルロンド邸が雇っている街の警備員に頭を下げていた。一曲で踊りを止めたとはいえ、やはり“スーパースター”ドルシネアに認められた踊子のパフォーマンスは大勢の人の目を集めてしまったのだ。
 必然、市場の営みに多少なりとも迷惑をかけてしまったわけで。
「す、すみません……! 今度からはちゃんと酒場とかで踊りますので……!」
 でも、素直に謝る彼女を追いつめるような者はいなかった。結局注意する側も、アグネアの踊りに魅入られてしまっていたからだ。すぐに解放されて、踊子はふうっと安堵の息をつく。するとヒカリが心配そうに彼女を気遣って声を掛けた。
「すまない、こんなことになると分かっていたら店主を止めるなり、人を払うなりしたんだが」
「ヒカリくんが謝ることないよ! あたしが調子に乗りすぎちゃったんだし」
「いやいや、謝るべきは私ですよ。二人とも申し訳ない」
 そこへ割って入ってきたのが、組紐売りの商人だった。彼も周りから注意を受けたようで、今日は店じまいをせざるを得なくなってしまったのである。まだ腕一杯に残る売り物を抱えた商人だったが、表情は満足そうであった。
「お嬢さんは踊子のアグネア・ブリスターニさんだったんだね。知らずに失礼しました」
「え? あたしのこと知ってるんですか」
 思いがけず名前を呼ばれてアグネアは商人に振り返る。すると彼は驚くべきことを話してくれた。
「アグネアさんが買ってくれた組紐は、サイの街の職人が作ったものなんだよ。私に組紐を卸してくれたとき、職人はあなたのことを嬉しそうに話していましたよ」


 サイといえば、アグネアが母クアニーの消息を辿って訪れたヒノエウマ地方の街だ。リーフランド地方の小国ティンバーレインとヒノエウマのク国に挟まれている地勢に加え、乾いた気候で資源や作物にも恵まれず、そこに住む人々は貧困に喘いでいた。出稼ぎの為に傭兵となる者も珍しくなく、そのような背景から親を亡くした子供も大勢いた。
 そんな子供たちが住む孤児院で、絶望に伏していた少女ライラと出会ったのは、アグネアの旅の転機のひとつだった。


「あんな風に踊りで人々を、街を元気にできるのなら、自分にも何かできることがあるんじゃないか、ってね──ク国で覚えた組紐づくりをサイでまた始めてみたんだ、と言っていたんだよ」
「そうだったんですか……」
「あなたは素晴らしい踊子だ。さっきの踊りをみて私は確信しましたよ。いやあ、私の商売にも希望がもたらされそうだ」
「……ありがとう、ございます。そんな風に言ってもらえて、あたしとっても嬉しい……!」
 アグネアは本当に、心から嬉しかった。
 母の消息を求めて辿り着いたサイの街で、アグネアのしたことと言えばライラに踊りの楽しさを訴えたことと、それから街を取り潰そうとするドルシネアの横暴を止めたことくらいだ。それが大舞踏祭に繋がっていったわけなのだが、一方でアグネアの踊りを見た名の知らぬ人が、アグネアの踊りに希望を得て新しいことを始めてくれた。
 そんな風に、誰かの旅路を紡ぐきっかけに、あたしの踊りがなれたんだ。
 踊りがもたらす笑顔だけじゃない、もっと本質的な幸せを形作る一部になれた、その達成感と高揚感はアグネアの胸を熱くした。
「良かったな、アグネア。そなたの踊りにはやはり特別な力がある」
 ヒカリの手がとん、と優しくアグネアの背中に触れる。
「えへへ……あたし、頑張って良かったべ」
 照れくさく笑ったアグネアは、頭を振って三つ編みを見下ろす。栗色の髪の合間に覗く紅と薄桃が、改めてとても美しいと思った。
「この組紐、ずっと大切にします! もし職人さんに会ったら、とっても綺麗だったって伝えてくださいね」
「ああ、もちろんだよ」
 踊子と商人は握手して互いの幸運を祈った。そんな様子を、剣士ヒカリは温かなまなざしで見守っていた。


 ──そして、夜。
 アグネアは宿のベッドの上で、三つ編みと一緒に組紐を解くと、きちんと畳んで枕元に置いた。
 改めて見てみても組紐の色合いは美しく、見ているだけで今日のことが鮮やかに蘇ってくる。あのあとヒカリと一緒にカフェへ立ち寄って、おいしいご飯とコーヒーを頂いた。市場で見たお店のことをしゃべってから、やっと百貨店に入った。アグネアもヒカリにお返しで何か買いたいと思っていたのだが、何がいいかを二人で迷っているうちに日が暮れてしまった。また今度、と約束して宿に帰ってきて、今に至る。
「楽しかったなあ……」
 指先で組紐を撫でてみる。今日のことはきっと一生忘れないだろう、サイの街の人が作ってくれて、ヒカリが買ってくれたこの組紐が手元にある限り。
 この組紐は、今日という日の記念だ。
「……記念……そうだよ、だって……」
 アグネアは己の中にある答えが何なのか、もう分かっている気がしていた。
 分かっていて、でも敢えて光の中に隠しているのだった。夢も、願いも、どちらも彼女の中では本当の想いで、一方を簡単に捨てることはできなかったから。
「……約束」
 つぶやいて、組紐を胸に抱く。また今日みたいに一緒に出かける日が、旅の終わりまでに何度あるだろうか。
 “旅の終わり”は、いつやってくるのだろうか。