あなたの星になりたい

5. おとぎ話のような結末は

 アグネアたち八人の旅人がク国に再び立ち寄ったのは、陽も沈んだ頃のことであった。
「うわあ……」
 平和を手にし、少しずつ賑やかさを取り戻しつつある城下町に、たくさんの明かりが灯っていた。星の光とも違う温かさを持つ色が、星の光とともに人々の行き交う通りを照らしている。
 あれは『提灯』というのだとヒカリが教えてくれた。提灯の姿は単なる明かりだというだけでなく、人々の魂をかたどっているということも。
 夜の街に浮かぶ無数の灯火の輝き、そしてその明かりに照らされた街と生活に、アグネアは魅せられていた。
 ヒカリはこんな温かな街でずっと育ってきて、そしてこれからはずっとそれを守っていくのだろう。彼が城下町を見つめるまなざしはとても優しくて、素敵だなとアグネアは思った。


(ヒカリくんは本当に、この国のことが大好きなんだね)
 そんな彼がク国の王を務めるのはこのうえなく相応しい。だけどきっと王様をするなら、ヒカリにだってつらいこともあるだろうから。
 ──そんな時は、ク国を取り戻したあの戦のあとみたいに、あたしがヒカリくんの支えになれたらどんなにいいだろう。
 今までたくさん助けてもらった分、たくさんお礼ができたらいいなと、アグネアは願う。


「ヒカリ様──!!」
 提灯を眺めながらの物思いは、突然大きな声に遮られた。ヒカリの帰還をいち早く聞きつけた(というよりも、ヒカリ本人が先触れをしていたのだ)重臣ベンケイがやってきて、彼との話の流れで亡くなった人々の魂を慰める“鎮魂祭”を開くことになった。
 ベンケイから鎮魂祭の舞手を頼まれたアグネアは、もちろん二つ返事でこれを引き受ける。
(ヒカリくんの友だちの為に、あたしの踊りが役に立てるなら……)
 人のために何かをする喜びだけでない、淡い期待がないといえば、嘘だった。
「そなたの踊りを、友たちに紹介できる時が来たのだな」
 そういってヒカリが誇らしそうにしていると、アグネアは笑顔になるのが抑えきれなかった。
 その後、二人は舞とともに楽を奏でてくれる者を探すことになった。もう夜も更けていて、琵琶の奏で手がいると噂の『静かの洞窟』へ向かうのは翌日にしようと、アグネアたちはク国の城下街に一泊することが決まった。
 宿はベンケイが手ずから確保してくれて、アグネアたち旅の一行はさっそく荷物を置いたのだが、ヒカリは政務の様子を見にいったん朱玄城へ戻るという。ちょっと寂しいな、とアグネアが思っていると、突然ベンケイに声を掛けられた。
「アグネア殿、少々お時間よろしいでしょうか」
「え、あたし? お祭りの話ですか?」
 ベンケイは頷いたが、表情はどこか緊張の面持ちがあった。彼はすぐに首を横に振る。
「いえ、祭りとは別に、少し話したいことがございまして。このベンケイと共に来てくれませぬか」
「? は、はい」


 ベンケイに連れられてアグネアがやってきたのは、街の西にある城塞の上だった。そこは街が一望できる場所で、街並みに煌めく提灯は本当に星の光のように見えた。
「わあ……綺麗ですね」
「アグネア殿は、ク国の城下街が気に入ってくださいましたかな?」
 感嘆の声を上げるアグネアを見て、ベンケイは嬉しそうに笑っていた。
「はい、とっても! みんなまだ辛いこともあるんだと思うんですけど……でも、一生懸命生きようとしてるんだなって。ヒカリくんみたいに、あったかい街だと思います」
「そうですか……」
 アグネアの答えに、重臣は満足げに頷く。そして彼は表情を引き締めてアグネアを呼んだ。
「アグネア殿」
「はい?」
「このベンケイ、あなた様にたってのお願いがあるのです」
 次に重臣が告げたことは、アグネアにとって人生で一番の衝撃に等しい提案だった。


「ク家へ輿入れし、この国に留まることを考えてはいただけませぬか」


「──え?」
 いま、ベンケイはなんて言ったのか。ヒノエウマの言い回しは独特で意味が取りづらいのはあったが、それ以上に言い回しが意味しているだろうことが青天の霹靂で。
「輿入れ……えっと、それってあの」
「ヒカリ様の正室になっていただく。つまりは嫁入り、ご結婚ですな」
「え、ええええ!?」
 思わずアグネアは目の前の重臣に負けず劣らずの大きな声を上げてしまった。信じられない、ヒカリとお付き合い──を、飛び越えて『結婚』だなんて。それを、まさかヒカリに近しい人からお願いされるなんて。
「ベ、ベンケイさん……じょ、冗談ですよね? な、なんであたしがヒカリくんの、お、お妃さまに……」
「いいえ、このベンケイ、至って真剣でございます」
 言葉の通り、重臣の表情は本当に真剣だった。信じられない、と言おうとしたアグネアの喉に声がつっかかる。ベンケイは重々しくアグネアへ訴えた。
「ヒカリ様からは、これまで度々あなた様方との旅のご様子をうかがっておりました。その語り口からそれがしは、アグネア殿と特に親しくされていたのだろうと察しました」
 それを聞いて、アグネアはなんとも言い難い気恥ずかしさが込み上げた。いったいヒカリは、ベンケイへどんな風に自分のことを話したのだろう。
「そしてこのベンケイ、先だっての戦いでアグネア殿のお心に触れました。旅の仲間であったヒカリ様のみならず、ク国の民たちを気遣って下さった優しさ……戦に慣れずともご自分のできることをなさっていたひたむきさ……。
 先ほどの“鎮魂祭”の件もそうです。あなた様もあたたかな心をお持ちだ。このベンケイ──ヒカリ様の生涯の“友”として、アグネア殿は申し分のない方だと、確信いたしました」
「……ベンケイさん……あ、ありがとう、ございます」
 いつの間に重臣ベンケイは、自分をそんな風に見てくれていたのか。スターとして、ではない、自分が仕える主の“友”としてのアグネアを認め、褒めてくれたというのは純粋に嬉しかった。
「そして何より、おふたりが共に話す姿が仲睦まじそうで、幸せそうに見えました。だからこそ、出過ぎだ真似と承知の上でアグネア殿に話してみようと思ったのです。
 ──ヒカリ様と共に、この国で幸せになってはくれないだろうか、と」


「……」
 語り終える頃には、ベンケイの表情はとても柔らかく綻んでいた。父ガルドが赤ん坊だった時の妹に見せた微笑みや、オズバルドが娘を遠くから見つめるときのまなざしに似ていた。
 彼は心の底から願っているのだ、ヒカリの幸せを。
 そしてヒカリの幸せに、アグネアが必要だと考えているのだ。とても名誉なことに違いなかった。
 そしてアグネア自身、そうなることを思い描いたことがないわけでは──いいや、寧ろ何度もそうしていた。なぜなら彼は王なのだ、もしも旅を終えた後も共に生きるとしたら、それ以外の選択肢など存在しない。
「あたし、ベンケイさんがそんな風に言ってくれるの、……ほんとのこというと、すごく、嬉しいです」
 けれどク国の王妃になるということは、アグネアにとって大事なものをひとつ捨てることを意味する。
「でも……でも、決められないんです。あたしには、ずっと大事にしてきた夢があるから……」
 ベンケイはゆっくりと頷いた。
「存じております。アグネア殿は“スター”になりたいのでしたね」
「はい……それでヒカリくんにもたくさん助けてもらって、この前やっと、ドルシネアさんに“スター”として認めて貰って……あたしの踊りで、母みたいに世界中の人を幸せにする夢に、やっと一歩踏み出せたんです」


 大舞踏祭の、一番大きな舞台である舞踏姫の宴。
 大勢の観客の前で、脚が千切れるまで踊った幸福な夕べのことを、アグネアは忘れられない。
 あの舞台は旅の果てではあったけれど、アグネアの夢はあの舞台から始まったのだ。


「あたしは、あの日“スター”って呼んでもらったけど、まだまだ未熟だって思ってます。……でも、旅の間ずっとそばにいて、助けてくれたヒカリくんのことを、今度はあたしが助けてあげたいって気持ちがあるのも、ほんとなんです」
 旅の仲間からも何度もそれとなく背中を押してもらい、時間ももらった。だけど、決められない。
 ベンケイにこんな風に、お妃になってくれと頼まれても、どうしてこの心ははっきりしないのだろうか。夢と願い、二つを同時に叶えることはできないとわかっているのに。
 けれどベンケイは、迷うアグネアを咎めなかった。
「迷うのは当然でございます。アグネア殿からしたら、人生が変わる決断でしょうから。ヒカリ様を想ってくれるその気持ちだけでも、このベンケイ、大変うれしゅうございますよ」
「……」
「ただ、皆を幸せにするという意味では、ク国の妃も同じようなお役目を果たすことになるかもしれませんぞ」
「……そう、なんですか」
「ええ。ヒカリ様はこの先、王として政の実務や対外的な外交をなさることになるでしょうが、そんな王と民を妃が繋ぐことができる。アグネア殿の明るさは、戦に疲れた民にも救いとなるに違いありません」
 王となるク家には、それなりに民の前に出る機会がある。それこそかつての戦勝祭のようなものがあれば、王が一言民に語り掛けるのは常だった。今後民と“友”でありたいというヒカリならば、いっそうそのような機会は増えていくだろう。
「ク国の人たちを、あたしが幸せにできる……」
「アグネア殿ならできると、このベンケイは思っておりますぞ」


 アグネアの心はまた大きく揺れた。ヒカリの隣に在りながら、少しでも夢を叶えることができるというのか。
「それに、アグネア殿がもし心を決められたなら、鎮魂祭の場で皆にあなた様をお披露目することもできる。ある意味、ちょうど良い機会でもあります」
 将来のク国の妃として、鎮魂祭の場で舞を披露する。確かにそうできたなら、自分と“友”たちの距離は縮まるということはアグネアにも想像ができた。とても都合がいい話に思えるが、しかし──


「ベンケイさん、あたしたちがこういう話していること、ヒカリくんは知ってますか」
「いいえ、存じ上げません。このベンケイの独断にてございます」
「……そうですか」
 良かった、とアグネアはため息をついた。そういうことなら、まだもう少し時間があると思えた。
「もう少し、考えさせてくれませんか。……やっぱり、決めるのが大変で」
 ベンケイは鷹揚に頷いてくれた。その表情に浮かぶ微笑みもまた柔らかなものだった。
「構いません。もともと断られても仕方ないというつもりでしたから、アグネア殿が真剣に考えてくださるだけで僥倖でございます」
「……はい」
「まずは鎮魂祭が無事に終えられますよう、ご協力よろしくお願いいたしますぞ」
「はい……!」


 まずは目の前のお祭りの準備だ。と分かってはいるものの、ベンケイから投げかけられた問いは簡単に消化できるものではなかった。宿への帰り道でも、寝台の中でも、翌日朝食をいただくときも、ずっとアグネアは考え続けていた。
 提灯に照らされたク国のあたたかな街並み。
 旅をすることで出会えたたくさんの景色。
 ヒカリと一緒に朱玄城でもしも暮らすとしたら。
 舞踏姫の宴で踊った時の自分の姿。
 酒場へ迎えに来てくれるヒカリの優しいまなざし。
 さまざまな思い出や光景、幻想にいたるまで、想念の欠片がアグネアの心の中に浮かんでは消えていく。


「足場が悪いぞ、気をつけろ」
 翌朝ヒカリと待ち合わせて向かった静かの洞窟でも、ぼうっと未来のことばかり考え続けていたアグネアは、見事に石に蹴躓いてしまった。
「ほげっ!」
「大丈夫か、アグネア」
 いつもの通り、笑いもからかいもせずに助け起こしてくれるヒカリ。申し訳なくって、ごめんねと笑い飛ばそうとしたら、彼は平然と言ってのけた。
「つまずいたなら、俺が手を差し伸べよう」
 だからそのままでいい、という。前を見続けるのがアグネアの取り柄だから、と。
(……そんなこと言われたらあたし、ずっとヒカリくんと一緒にいたくなっちゃうよ)
 胸に灯る願いが、ますます強く燃え上がるのをアグネアは感じていた。ずっと目指していた夢の煌めきと、どちらが強い光を放っているか、わからなくなっていくほどに。


 だが、その灯は直後、激しく揺れることになる。
 二人きりの時間に割って入ってきた、琵琶の音色によって。


「ヨミさん……!」
 静かの洞窟の奥で待っていたのは、いつかリューの宿場で二人に琵琶を披露してくれた女性だった。彼女が最高の音を披露するための品々を調達するために走り回ったあの夜を、アグネアはまだ覚えている。
 あのときは掴みどころのない、不思議な雰囲気を湛えた人物であったのに、今は明らかに憎しみをその目に燃やしていた。
 他でもない、ク国の王となったヒカリに向けて。
「貴方様の血を見れば、忘れられるでしょうか……?」
 ク家によって姉を奪われたのだとなじるヨミに、それを黙って受け止めようとするヒカリに、アグネアは何も言えなかった。
 ヨミが自分で語った通り、彼女がヒカリをなじるのは筋違いだった。ヒカリはずっとツキを従者として大事にしてきたのだ。そのことは前にヨミと会った日のあとに聞いている。何より、彼は立ちふさがる者以外を無闇に殺したりなんてしない。
 だけどヒカリはヨミの激昂を否定しなかった。自分に流れる血が結果的にツキの死を招いたのだと、彼女のどうしようもない怒りと悲しみをその身と剣で以て引き受けてみせた。
 ヨミの、どこへ向けることもできなくなってしまった、心を暗黒に染めるような負の感情をヒカリが照らす。
 そんな姿を、アグネアは何も言えずに見守ることしかできなかった。これまで道を切り拓いてきた脚は、まったく役に立たなかった。人が奥底に抱えた憎悪を晴らすのに、踊りが何の役に立つだろう?


(これが、王様である、ってことなんだ)
 たとえ己の手が為したことでなかったとしても、ク家の中で生き残った人間として、ク国を率いていく立場に立つ王として、ヒカリはこの先どれだけの憎しみと哀しみを受け止めなければならないのだろうか。ク国と縁深かったヨミでさえそうなのだ、ク国が蹂躙してきたヒノエウマ地方の他の人々はどうなるのだろう。
(あたしは、本当にこういうことを、一緒に引き受けられるの──?)
 もしもベンケイの言う通り、ヒカリと一緒にク国の王様と王妃様をやっていくのだとしたら、無数の憎悪をアグネアが一緒に受け止めることになるだろう。そんなことが、踊りしか恃みにできない自分にできるのか。いまここで、ヨミにもヒカリにも何も言うことができない、自分に。


 ヒカリとの“試合”を終え、力尽きたヨミが膝をつく。彼女の瞳からは、憑き物が落ちたように憎しみがなくなっていた。
 代わりに、姉を想う愛情と哀しみが今にも溢れんばかりであった。
「私はあなたに、何もしてやれなかった……」
(そんなことないよ、ヨミさん)
 ツキは、ヨミを想って家を独り出て行った。それなら、ヨミが元気でいることが何よりツキにとっての喜びなんじゃないかとアグネアも思う。ヒカリのいう通りだ。
 アグネアは一歩、ヨミに歩み寄った。
(あたしには、ク国の人たちの憎しみに応えるなんてできない、だけど)
「一緒に、ツキさんの幸せを祈りませんか」
 悲しみに寄り添って、また笑顔で、希望を持って生きてゆけるように。ヨミの、姉を想う琵琶の楽と一緒に、アグネアも願いを込めて踊ること。これが、踊子である自分にできることだと信じる。
 そんな想いこそが、幾度も無力に打ちひしがれた心の中でも光を失わない、彼女の守るべき矜持だった。


 祭具に奏で手、そして舞い手が揃い、鎮魂祭は準備万端となる。
(わあ、すごい人)
 夜。たくさんの提灯が朱玄城前の広場を照らす中、踊子アグネアは祭具のひとつである仮面を着け、舞台に立とうとしていた。
 重臣ベンケイが徹る声で口上を述べるのを、舞台の前に集まった無数の人々が聞いている。提灯の赤い光だけでは顔が見えないが、今はそれが良いのだとアグネアは納得する。
 今夜の舞は笑顔のためではなく、ここにいる人々、あの世に去ってしまった人々、すべての幸福と希望を祈るためにあるのだから。
「アグネア、頼んだぞ」
 不意に温もりが肩に触れて、アグネアは振り返る。励ますような微笑みで、国王ヒカリが舞い手を見つめている。
「うん、任せて」
 この暗がりと仮面では見えないだろうけれど、その時だけ笑顔を作りヒカリに返す。そして、アグネアはヨミとともに舞台へ出て行った。
 しんと静まり返った朱玄城、そして星瞬く夜空に、ヨミの紡ぐ琵琶の旋律がしみわたるように響く。繊細な楽の音に乗せて、アグネアは朱玄城の文官から教わった通りの足取りで舞を始める。
 ク国の人々の祈りには、ク国の人々が知る舞踊を以て。アグネアが今まで踊ってきたものとはまったく違うステップに、アグネアは祈りを込める。


(ヒカリくんが、ヨミさんが……この国の人たちみんなが、幸せになれますように)


 仮面の隙間から舞台の外に集まる人々を見やる。彼らは皆、舞を見つめ楽を聴きながら、それぞれの友に想いを馳せているようだった。亡くなった人々を弔い、幸せを祈りたいという王の願いに同調して。
 響く琵琶の旋律と渡る風の音以外は、囁き声ひとつしない静謐。この場に集った人々が、同じ方を向いて心を一つにしている一体感。踊りながらそういったものを全身で受け止めたアグネアは、脚が震えそうになるのを懸命に抑えなければならなかった。
 こんな舞台があるなんて、知らなかった。
 それはヒカリが彼のあたたかな心で、ク国の人々を照らしているからこそだ。
(ヒカリくん……ク国は本当にあったかい、いい国だね──)
 仮面の下ではひとつ、ふたつ、星の光を受けることもなく雫が零れていった。


「綺麗ね、アグネアちゃん」
「すっげえなあー、あんなアグねえの踊り見たことないよ」
 朱玄城の外壁に備えられた渡り廊下では、薬師キャスティと柵から乗り出さんばかりの狩人オーシュットが感嘆のため息をついていた。角度こそ舞台の正面からではないものの、一般の客を招かない朱玄城内から舞台を眺めるというのは、ヒカリとアグネアの旅の仲間だからこそ宛がってもらえた特等席、というわけだ。
「ク国の伝統的な踊り方、って聞きましたよ」
 神官テメノスも感心してアグネアの踊りを見ていた。八神の名前は覚えられなくても、踊りなら何でも吸収できるのだから、彼女はいかにも生粋の踊子なのだろう、と。
「そういえば、新しい踊りを覚えるんだ、ってアグネアちゃん楽しそうにしてたわね」
「でもさ、いまのアグねえ……楽しそうな感じじゃないよね」
 オーシュットはアグネアの踊りをじっと見つめていたが、眉間には深い皺が寄っていた。
「悲しい……っていうか、寂しそうっていうか、さ……」
 狩人の嗅覚は常人には見えないものを捉える。それが魔物の気配であれ、人間の感情であれ。
「アグねえはたくさん仲間がいるのに……ひかりんがいるのに、何でだろう」
 心配そうにアグネアを観察し続けるオーシュットに、キャスティもテメノスも頷いた。彼らもそれぞれ思うところがあったから。
「アグネアちゃんは、ずっと旅の終わりを寂しがっていたから……」
 キャスティは旅路の中、宿でアグネアと交わした会話を思い浮かべていた。
「アグネアちゃん自身が強い子でも、好きな人と別れるのはつらいことだわ」
「王様と結婚して、めでたしめでたし──なんておとぎ話のような結末を、現実で迎えるのは難しいということですね」
 言いながら、テメノスが肩を竦める。
「ヒカリは背負うものが大きすぎるし、アグネアの目標は一つところに留まるものではない。……だからこそ、なのかもしれませんが」
「はー、人間って難しいなあ」
 オーシュットが柵にべったり寄りかかった。そんな元気のない主人の足元に、相棒が頬ずりをする。オーシュットは寄り添ってくれた相棒を撫でてやることもできず、踊り続ける仲間を、それを一心に見つめる仲間を思いやる。
「一緒にいたいからそうする、って、当たり前のことができないなんてさ。……悲しいよ、そんなの」
 旅人たちが見つめる中、アグネアの舞はますます美しく輝くようだった。


 重臣ベンケイは、舞台の下から踊子を眺めていた。限られた時間の中でク国の舞踊を覚えたことも、それぞれの思いを抱える民たちの心を舞ひとつで束ねたことも、彼女が持つひたむきさと優しさがあってのことだ。
 アグネアが示した鎮魂祭という在り方と出来栄えに、重臣は深い満足感を覚えていた。そして──
「ヒカリ様」
 琵琶の音を遮らないよう、ベンケイは隣に立つヒカリへ抑えた声をかける。もう間もなく舞は終わる、ヒカリは王として最後の挨拶をしなければならない。だが。
 彼は、ただただじっと踊子を、アグネアを見つめていた。白皙の頬は提灯の明かりで赤みを帯びており、漆黒の瞳は星を抱いて強く煌めいている。
「ヒカリ様……」
 ベンケイはため息をつく。しかし、それ以上主を急かしはしなかった。
 彼は舞が終わる最後のひとときまで、決して彼女から目を離すことはなかった。


 そして、陽も昇りきらぬうちに旅人たちはク国を旅立った。一行の中にはヒカリの姿もある。彼は例の手記に書かれた人物について、来歴や行方をク国でも調べるように指示しただけで、自身は“暗黒”の正体を突き止めたいという。
 一度は国王として戻ってきたのに、再び旅立ったことが分かってしまえば騒ぎになってしまう。だからこその早朝、まだ朱玄城と城下町が目覚めぬうちに出立することにしたのだ。
「ではヒカリ様、お気をつけて。くれぐれも命は落とさぬようにお願いしますぞ」
「心得ている。ベンケイも気を付けてくれ、どこに残党が潜んでいるかも分からないからな」
 密やかに、口早に最後の挨拶を終えたベンケイが、朱玄城へ戻ろうと背中を向ける。そこへ、アグネアは慌てて駆け寄った。
「待って、ベンケイさん……!」
 アグネアは、まだベンケイからの『お願い』に返事をしていなかった。踊子の呼びかけに重臣が気づいて振り返る。
 彼は豪快な笑顔を浮かべ、アグネアが再び口を開く前にこう言った。


「アグネア殿。答えはいつでも待っていますからね」
「え……」
「旅の間、ヒカリ様をよろしく頼みますぞ。では、このベンケイここで失礼仕ります」


 そして今度こそ、重臣は大股で朱玄城へ歩き去っていく。アグネアは呆然とその背中を見送るのだった。